It Happens In A Forest - 2

 たとえば、バレット家の呪いがなかったなら。

 たとえば、自分がもっと饒舌で、柔らかい愛の言葉をすらすらと紡ぎ出せる種類の男だったなら。そう、たとえば、ローナンのように。


 そんな、いくつかの空しい可能性を思い浮かべながら、エドモンドは目の前にいる妻を見つめた。

 オリヴィアの肌には疲れが見えて、もともとの色白さにさらに深みが増し、官能的な青白さを放っていて……これでもかとエドモンドの瞳を捕らえて離さなかった。おまけに今日の彼女のドレスは襟ぐりが半楕円形にひらいていて、肩から鎖骨、そして胸へと下るラインがくっきりと見える仕様になっている。

 ──なんの拷問だ。

 エドモンドは歯の隙間から漏れそうになる唸り声を抑えるのがやっとだった。

 オリヴィアは天使だ。

 彼にとって、オリヴィアは間違いなく天から遣わされた天使だった。

 ただでさえ彼女の笑顔はエドモンドの心を鷲づかみにしたが、エドモンドの言葉に対して浮かべたその満点の笑みは、彼の鉄壁の自制心さえ崩そうとしている。

 他の誰のものでもない、エドモンドの言葉に、オリヴィアは微笑んだのだ。


 胸の奥が甘くうずく。

 今すぐ彼女を腕の中に閉じ込めて抱きしめたかった。きつく、強く。

 彼女を自分のものにして、この、魂の奥から湧いてくる不可解な感情の渦の正体を確かめたかった。

 そうするべきではないと分かっていても。


 美しく閑散としたノースウッドの森の昼下がりも、エドモンドに安楽を与えはしなかったので、彼はオリヴィアのサンドウィッチを食べ終えるのに集中することで気を紛らわそうとした。

 その試み自体は成功とは言いがたかったが、オリヴィアは嬉しそうだった。

「この次はもっときちんとしたものを作りますね」

 砂っぽいほうれん草をよけ、パンにチーズだけを乗せて上品に食べ始めるオリヴィアは、さしずめ機嫌のいい森の妖精だ。

 二人は水で薄めたワインを分け合って、ついに昼食を終えた。

 気持ちのいい風が肌をなでる。

 強すぎも弱すぎもしない心地よい日光が降り注いでいる。労働の疲れと食後の気だるさが相まって、どうにも軽い眠気を誘った。

 これほど昼寝に適した気候も、時間も、場所もないのではないだろうか。

 もちろん、都会育ちのオリヴィアが、土や芝生の上で寝たことがあるとは思えないが。しかし、たとえささやかでも、オリヴィアの「初めて」な何かに関われるというのは魅力的だった……。

 食べ終わったあとの布ナプキンをバスケットに戻しているオリヴィアを見つめながら、エドモンドは今だけ自由が許されるような気がしてきた。

 ──彼女の笑顔のために。自分自身のために。


「こちらの日陰に来なさい」

 エドモンドは穏やかに言った。「日がもう少し穏やかになるまで、私たちはここで横になるべきだ」

「横になる?」

「眠るという意味だ。ここは昼寝にもちょうどいい。あなたには想像もできないかもしれないが」

「でもベッドがありません。私、ベッドのない場所で眠ったことがないのです」

「何事にも最初というものがある」

「まぁ……」

 確かにその通りですけれど、と、もごもご呟いたオリヴィアは、恐ろしさ半分、興味半分という感じでエドモンドの示した若木の下の木陰に進んだ。

 エドモンドはバスケットに手を伸ばし、その中から大判の布を抜き取って手際よくパンの粉を払うと、地面に敷く。

「この辺りの土は乾いているうえに柔らかい……ベッドよりもずっと心地いいと、すぐに気付くだろう」

 オリヴィアは期待を込めた一瞥をエドモンドによこすと、言われたとおり布のうえに身体を横たえた。

 ──その過程で、図らずもオリヴィアの豊かな胸元が揺れるのが見えて、エドモンドは全身を固くした。

 全身の……まぁ、色々な部分を。

「あなたは休まないのですか? ノースウッド伯爵」

 穏やかなオリヴィアの問いに、歯を食いしばったままのエドモンドはしばらく答えないでいた。オリヴィアは辛抱強く答えを待っていたが、やがて諦めて、曖昧な微笑みを浮かべて言う。

「仰ったとおりですね。ここは、ベッドよりも心地いいわ」

 そして、オリヴィアは肩を倒して仰向けになり、目を閉じた。

 最後に一言、

「でも、あなたが隣で寝てくれれば、もっと安心できると思います」

 と言い残すと、すぅっと寝入っていった。





 どのくらい時間が経ったのだろう──。

 再びオリヴィアが目を覚ますと、太陽はまだ白く輝いていたものの、明らかに西に角度を緩めていた。夕方というほどではないが、昼の遅い時間だ。

 オリヴィアは両ひじを立ててゆっくりと身体を起こした。

 同時に、はらりと胸の上からナプキンが落ちる。

(これは……)

 身に覚えのない、胸の上に掛かっていた小さな布が落ちるのを見たあと、オリヴィアは寝起きのぼんやりとした頭を振った。

 きっとエドモンドがシーツ代わりに掛けてくれたのだろう。

 なぜ胸元だけなのかは、謎だが。

 寒くもないのに。

 特に寝起きがいいわけではないオリヴィアは、しばらく身体がほぐれるのを待って座ったままでいた。しかし、肩から首にかけての辺りが強張っているのを感じる以外は、いつになく気持ちのいい目覚めだ。

 土の上で眠る……。

 まるで冒険小説のヒロインになったような気分だわ……。オリヴィアは思った。

 こんなのはオリヴィアにとって初めての体験だったけれど、思いのほか性に合っている気もする。

 ささいな事かもしれないが、エドモンドが、オリヴィアのために新しい世界への扉を開いてくれたのだ。その事実にわくわくした。

 そう。エドモンドが……。


 え……?


「ノ……ノースウッド伯爵?」

 その時、オリヴィアはやっと、エドモンドが自分の側にいないことに気が付いた。顔から血の気が引くような気がして、オリヴィアは、辺りを見回しながら慌てて立ち上がった。

 エドモンドがいない!

 お──置いていかれてしまったんだわ!


「ノースウッド伯爵、ひどいです! 一人で来てはいけないと言ったのはあなたなのに!」


 オリヴィアは森に向かって叫んだ。

 行き場のない叫びは先の森に吸い込まれて、こだまさえ返ってこない。オリヴィアは両手で顔を覆って、嫌々をするように頭かぶりを振った。

 涙がこぼれてくる。

 ああ、疎まれているのは分かっていたけれど、一人きりで危険な森に置き去りにされるほどだとは思わなかった。危険な……その……リスが出てくるという森に!

いや……おいて、いかないで……」

 オリヴィアは弱々しく声を漏らした。

 急に身体が重く感じる。まるで、ドレスが雨に濡れてしまった後のように。エドモンドに見捨てられたという事実は、思うよりずっとショックだった。オリヴィアは顔を手で覆ったまま、しくしく泣き始めた。


 しかし──手首をぎゅっと掴まれる感覚がしたのは、それからすぐだった。

「オリヴィア」

 抑えた声がした。「顔を上げなさい、私はここだ」

 オリヴィアはその通りにした。すると、真剣な表情をしたエドモンドが、オリヴィアの目の前に立っている。オリヴィアの顔をじっと覗きこみ、眉と眉の間に皺を寄せたエドモンドが。

「ノースウッド伯爵、わたし……わたし、置いていかれてしまったのだと……」

 青い瞳を涙で濡らしたまま、途切れ途切れにオリヴィアは言った。

「そんなことはしないから、安心しなさい。私はあなたを見捨てたりしない。何があっても」

 エドモンドの声には、どうしても彼を信じたくなってしまうような確かな響きがある……。

 オリヴィアはぐずっと鼻をすすりながら頷いた。

「では、どちらにいらしたのですか? すっかり、あなたも一緒に休んでいらっしゃるのだと思っていたから、驚いたんです」

「眠れなかったので、辺りを歩いていただけだ……。ここを離れたわけではない」

「まあ」

 オリヴィアはやっと顔を上げて、エドモンドをじっくりと見つめた。真剣な顔、くっきりとした男性的な眉、力強い緑の瞳。エドモンドだ。

 ただ、彼の髪と額に、見慣れない汚れがあった。特に額などは、すり切れたように赤くなっている。

 オリヴィアは首を傾げた。


「どこか、とても荒れた場所を歩いてこられたのですか? 特に額が……まるで何度も木に頭をぶつけられたみたいですけど……」


 エドモンドはしばらくむっつりと黙ったあと、「そうかもしれない」と言った。

 真相は森だけが知っている──。

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