That's All I Want - 1
舞踏室のやかましい喧騒が壁一枚を通してわずかに聞こえてくる書斎で、気の立ったガブリエラはせわしく右へ左へと歩き回っていた。
「こんなことは許されないわ、こんなことは許されないのよ……」
苛立たしげに爪を噛んでいたガブリエラは、ついにはキイッと声を上げて、扉をふさぐように立っている兄・ヒューバートに素早く向き直った。
この書斎には、二人のほかは誰も入れないことになっている。
つまり誰にも遠慮することなく言いたいことが言える環境で、特にガブリエラのような気の荒い女には、ここは気晴らしをするのに便利な個室となった。しかし今夜ばかりは、ただ気晴らしをするために悪口を言ってみたり、意地悪を画策するためだけでは終わりそうもない。
ガブリエラのプライドはひどく傷つけられたし、主催者であるヒューバートの名誉もあやふやなものになっている。
おまけに、なにがあったのかは分からないが、舞踏室から床をひっくり返したような大騒ぎが聞こえてくるではないか。これもファレル兄妹にとって、あまり歓迎すべきことでないのは明らかだった。
ガブリエラが憤慨するのも無理はない。
そして、ガブリエラが憤慨したとき、その怒りをぶつけられた相手はかならず痛い目を見るのだった。
「このままただではおけないわ。お兄さま、私に協力してくれるでしょう?」
鮮やかな緑色のドレスに包まれた胸を威勢よくそらしながら、ガブリエラは兄に助けを求めた。実際、それは命令に近かったが、いままでこの二人の利害は一致することが多かったから、わざわざ相手を説き伏せる必要などなかったのだ。
それが。
ヒューバートは珍しく落ち着かない様子で、ガブリエラではなくどこか壁と床の中間あたりに視線を這わせている。
時々、あごのあたりに手を当てて、なにか聞き取れない独り言を呟いていた。
「お兄さま! まさか、お兄さままであの小娘に熱を上げているだなんて言わないでちょうだい!」
ガブリエラの苛立ちはついに爆発し、ヒステリックな金切り声が上がった。
「だいたい、お兄さまの好みはもっと洗練された高貴な女性だったじゃないの。成金の小娘なんて歯牙にもかけなかったはずよ!」
その成金の小娘も、今となっては伯爵夫人であり、ガブリエラと並んでなんの遜色もない同等の身分であるわけだが──もちろん、そんなことは認めたくはない。
兄がオリヴィアを気に入っているのは最初から分かっていたが、それはあくまで誘惑の相手としてであって、恋だとか愛だとか、そんな名のつく感情とは関係のないものだと思っていた。いや、そうでなければならない。
少なくとも兄くらいは、冷静でいてくれないと困るのだ。
「お兄さまは、最初からあの小娘を誘惑するおつもりだったのでしょう? どうか諦めないでくださいな。ノースウッド伯爵は……シェリー酒で少し気が立っていらしただけなのよ」
ヒューバートがふいに顔を上げた。
そして、まるで今やっとガブリエラの存在に気づいた、というように瞬まばたきをしてみせる。
それはまったく兄にそぐわない仕草で、ガブリエラはさらに怒りを爆発させた。
「お兄さま!」
「分かったよ、ガビー。少しその金切り声を抑えてくれないか。それから……彼女を悪く言うのは控えてもらおうか」
ガブリエラは不快そうに眉をひそめた。「彼女、ですって?」
しまった、という顔をヒューバートがした時には、もう遅かった。ガブリエラの堪忍袋の緒はぷちりと切れて、彼女のそばにあったポーセリン製の花瓶が、乱暴に床に落とされて派手な音を立てた。
「その、お兄さまがのぼせていらっしゃる『彼女』は、ノースウッド伯爵の妻なのよ! ずっと願ってやまなかったことを簡単に忘れないでくださいな!」
ガブリエラの瞳が、まるで蛇のように残忍に細められる。
「ノースウッド伯爵のものを奪うこと。彼に打ち勝つこと。そのために、あの小娘は願ってもない道具なんじゃなくて?」
するとヒューバートは、なにかを思い出したようだった。
そうだ、エドモンド・バレット卿、ノースウッド伯爵。ヒューバートの宿敵。
「お兄さまの欲しい物はなにかしら」
と、ガブリエラは兄にすり寄り始めた。なんだかんだと言っても、ガブリエラはそれなりに美しいし、妖艶な声を出せば大抵の男は心を揺れ動かされる。
近寄ってくるガブリエラを見下ろしながら、ヒューバートは、オリヴィアの可愛らしい水色の瞳が脳裏にちらつくのを横に押しやった。そうすることで、憎たらしいエドモンドへの長年の嫉妬を思い出し、さらには、今夜にでも現実になるはずだった夢を思い出すように努めた。
エドモンドのものを、自分のものに。
奴が大切にしているものを、滅茶苦茶に傷つけてしまおうじゃないか──。
「お兄さまがあの小娘を誘惑している間に、私がノースウッド伯爵とお近づきになる。素晴らしい計画じゃなくて? それを今さら変える必要なんてないでしょう? 今となっては、お兄さまにはあの小娘にもっと痛い目を見せてやってほしいくらいよ」
「それは……まあ、そうだろう」
ヒューバートはあやふやな返事をしたが、心中はガブリエラの言い分に傾いていた。
そうだ、そうだ、エドモンドには傷ついてもらわないといけない。そのためにあの可愛らしい娘が犠牲になるなら、それはそれで仕方ないのだ。
たしかに、踊るとき握った彼女の手は、すべすべと滑らかで心地よく、もぎたての桃のように瑞々みずみずしかった。
ヒューバートは、恋や愛がなんたるもので、どんな感情を指すのか知らない男だったが、それでもオリヴィアの瞳をのぞいていると、その中に答えがあるような気がした。しかし。
兄の表情が変わっていくのを見て、ガブリエラはやっと満足そうに口元に笑みを浮かべた。
「さあ、舞踏会はまだ、始まったばかりではなくて?」
エスコートを促すように兄に手を伸ばしながら、ガブリエラは一歩前へ進み出た。
良くも悪くも、ガブリエラは不屈の精神を持っている。
本当に領主に相応しいのは、もしかしたら自分よりガブリエラの方なのかもしれない……と、ヒューバートは時々考えるくらいだ。ただ、彼女は女性なので、そのありあまる情熱や闘志をつまらない男へ向けるしかない。
なんたる悲劇。
特に、その情熱を向けられる不運な男にとっては。
ただ都合のいい事に、ヒューバートはその男に同情する必要がない。なぜなら、エドモンド・バレット卿ノースウッド伯爵は、ヒューバートの長年の宿敵であるのだから──。
「そのようだな、ガブリエラ……舞踏会はまだ始まったばかりだ。今夜の終わりまでには、僕たちはそれぞれ望むものを手に入れているだろう」
そう、ゆっくりと言ったヒューバートは、妹をじっと見下ろしながら一歩前に進み出た。その動きもまた、必要以上にゆっくりとしていて、ガブリエラは急かすように手をさらに前へ伸ばす。
ヒューバートはうなづいて、静かにガブリエラの手を取ると、その甲こうにゆったりと親愛の口付けをするふりをした。軽率さと上品さの混じったヒューバートの物腰に、この、社交的でありながら浮ついた仕草はよく似合う。
「ノースウッド伯爵夫人を誘惑して僕のものにする……。奴の嫉妬と悲しみにゆがんだ顔が目に浮かぶようだ」
「その通りですわ。それでこそお兄さまよ」
普段なら気持ちよく感じるガブリエラのおだても、今のヒューバートの心にはあまり響かなかった。
しかし。
これが僕の欲しいものなんだ、と、ヒューバートは何度か繰り返して胸に刻みつけようとした。
ツン、と誇り高い猟犬のようにあごを上げたガブリエラをエスコートしながら、ヒューバートは書斎から出るべく扉に手を掛けた。キイッと音を立てて扉が開くと、薄暗かった書斎に、華やかな光とにぎやかな舞踏会の騒ぎが入ってくる。
ヒューバートは胸をそって顔を上げた。
そのまま書斎を出ると、すぐに人々の波に飲まれ、まるで新しい世界に放り込まれたかのような熱気に包まれたが……ヒューバートの心はなぜか虚ろなままだった。
そうだ、これこそ。これこそ僕の欲しいものなはずなんだ。
しかし。
──しかし……?
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