Lament

 爽やかな朝。

 初夏の風に吹かれながら、オリヴィアはバレット邸の裏庭を歩いていた。

 名前の知らない小さな白い花が足元に咲いていて、砂利道を進むオリヴィアの足取りを軽くさせる。空気は澄んでいて穏かで、胸いっぱいに吸い込むと心がすっきり洗われるような気がした。


 初めての早朝の散歩は、オリヴィアに一日を乗り切る生気を与えつつあった。

 ひつじ雲が浮かんだ高い青空を見上げていると、オリヴィアを悩ませている数々の出来事でさえ、実は大したことではないような気がしてくる。若草色の、慎ましいが軽やかなドレスを着こなした伯爵夫人は、今日もまた屋敷で采配を振る勇気を養っていた。

 ──ポタージュの味見で舌を火傷しないようにしなくては。

 昨日の出来事だった。厨房ではあまり役に立たないとマギーに判断されたオリヴィアが、それでも何か手伝いたいと申し出ると、『味見』役を与えられた。これならオリヴィアにも経験がある。さっそく勇んで大鍋で煮えているスープを口に運んだオリヴィアは、そのあまりの熱さに飛び跳ねることになった。

「大変だ、マダム! あんた皿に分けてもらったものしか与えられたことがなかったんだね?」

 そのとおりだった。

 火に乗った鍋の中身があんなに熱かったなんて。

 泣きそうになって舌を冷やしているオリヴィアの横で、マギーは頭を抱えていた。「このままじゃいつか大怪我するよ、マダム。そうなったらエドの旦那になんて言えばいいんだい?」

 そんなわけでオリヴィアは、慎重に行動するよう心掛けていたが、慣れない田舎暮らしにはいくつもの驚きが隠されているのだった。


 砂利道が曲線に差し掛かったとき、ふと視線を感じて、オリヴィアは後ろを振り返った。

「…………?」

 石造りで背の高いバレット邸を見つめて、一つ一つの窓を順番に確認してみる。時刻はまだ早く、食堂では朝食の準備をしている頃合のはずだった。召使いたちでさえ全員が起きているわけではない。

 しかし、二階の中央、屋敷の主人の寝室に目がいったとき、オリヴィアはそこにエドモンドが立ってこちらを見下ろしているのに気が付いた。


 いつもと同じ白いシャツを着て、肩にブレイシーズを掛けている夫は、遠目でも分かるほどくっきりと眉間に皺を寄せていた。そして同じく、遠目でもよく分かるほど、激しく胸を上下させていた。

 オリヴィアは心配になってきた。

 ここ数日のエドモンドは、ひどい動悸に悩まされているようなのだ。

「ノースウッド伯爵……」

 聞こえるはずがないのは分かっていたが、オリヴィアは唇を動かしてみた。するとエドモンドは顔を逸らし、窓から離れていってしまうのだった。


 ウッドヴィルの街への訪問から帰ってきて二日後、ファレル家で催される舞踏会まであと五日の、ある朝の一幕だった。





 約束の一月ひとつきが過ぎようとしているのに気が付いたのは、オリヴィアよりもエドモンドの方が先だった。


『私を見ていてください』

 と、オリヴィアは言った。

 そしてオリヴィアは、見事に成功したのだ。エドモンドはもう自分が、彼女から目を逸らすことができない身体になっている事実と向き合わなければならなくなっていた。

 物事をきちんと考えることができなくなっている。

 ここ数日のエドモンドはつねに緊張していて、怒りやすく激しやすく、また放漫でさえあり、唯一心が安らぐのはオリヴィアを目にしている時間だけだった。その安らぎも長続きするものではなく、彼女が自分の方を見つめ返してくると……甘い地獄へと変わる。

 血が逆流してくるような感覚──。

 息苦しくなって、胸をかきむしりたくなり、何でもいいから怒鳴りつけたくなるほど気が短くなった。

 ひとまずの解決を求めて、普段は吸うことのない葉巻に手を出してみたりした。葉巻の先をナイフで切り、火をつけて吸い込むと、ピリッとした煙が器官に回ってしばらくの間は荒くれだった神経を休める。だが、それだけだった。

 悪魔はエドモンドをあざ笑うかのように戻ってきて、再び彼を苦しめる。


 それでも、太陽のあるうちはまだよかった。


 夜──木々も寝入る宵の闇があたりを覆うと、エドモンドの情熱は静かに目を覚ました。エドモンドの寝室は無駄に広く、一人で眠るにはあまりにも寂しいものであると、今さらながらに気が付かされた。


 窓から落ちる月の光に照らされて。

 夜の寝室を落ち着きなく歩き回るエドモンドは、さながら中世の屋敷にさまよう騎士の亡霊のようだ。月を見上げ、夜を呪い、そして……隣の小さな寝室に繋がる扉を恋しそうに見つめる蒼白の騎士。


 昨夜の出来事だった。

 真夜中、いや、もう朝に近い時間だったかもしれない。寝室は静寂に包まれていたが、エドモンドの五感は恐ろしいほどに研ぎ澄まされていた。隣の部屋の妻の寝息が、聞こえてくる気さえする。

 オリヴィアの部屋へ続く扉の前に立ったエドモンドは、胸のうちで相反するふたつの感情としばらく戦っていた。

 ──入れ。

 ──入るな。

 そして、欲望は理性を倒した。

 エドモンドがノブに手をかけると、扉は乾いた木の音を少し立てただけで滑らかに開いた。内側から鍵を掛けられるはずなのに、オリヴィアはそれをしていなかったのだ。

 唾が喉を上ってきて、エドモンドはそれをごくりと飲み込んだ。

 さいわいオリヴィアは眠りの深い性質のようで、エドモンドが部屋に入ってきても、まったく目を覚ますようすを見せない。しかし、エドモンドはそれでも十分に気を付け、静かに部屋を歩いた。


 燭台の火はとっくに消えていて、穏かな月明かりだけが侵入者の視界を助ける小さな部屋で、オリヴィアは深い眠りに落ちていた。

 彼女の髪は下ろされていて、白い枕の上に緩やかな波を描いて広がっている。白い肌は陶器のように滑らかに輝いていて、そして、目をつぶった彼女の輪郭は神々しいまでに美しかった。

 ──これを。

 こんなものを目の前に差し出しておいて、それに触れるなと、運命はエドモンドに強いているのだ。

 エドモンドは両手をだらりと垂らしたままこぶしを強く握って、興奮に胸を上下させながら立ち尽くしていた。オリヴィア。どうして君はここにいる? どうして私はここに立ち尽くしている?

 どうして……

 どうして……

 このままオリヴィアの寝顔を見つめ続けるのが不可能なのと同じくらい、彼女から目を離すことも不可能だった。エドモンドは少年の頃の自分を思い出そうと、歯を食いしばった。酒浸りになって世界の全てから逃げていた父の姿を。赤い目をして乱れたシャツを着て酒瓶を持ち、浮浪者のように屋敷をうろついていた哀れな男のことを。そして、そんな父の癇癪から弟を守ろうと、身体を張った少年の自分を。

 ──あんな馬鹿げた悲劇を繰り返す必要はない。


 約束の一月は過ぎた。

 私は、もといた場所へ彼女を帰そう。それですべては片付く。すべては終わる。


 私の心もそれと共に終わるのだろう……。

 しかし、オリヴィアが生きていてくれるのなら、エドモンドも生きていくことはできそうだった。たとえ死んだ心を抱えながらでも。二人の関係は『白い結婚』のままだから、彼女ならいつか再婚相手が見つかるはずだ。多分、エドモンドはそれを風の便りで知り、しばらくは辛い日々が続くのかもしれない。それでも日々の忙しさで苦しみは少しずつ遠ざかり、再び、風の便りで彼女が子供を持った話を聞いて……そして、酒を何瓶か空けるのだろう。

 幸せへのシナリオとは言いがたかったが、彼女の墓石を抱いて眠るような男になるよりは、いくらかましなはずだ。


 握っていた拳を解いたエドモンドは、今まで彼がしてきたどんな動きよりもゆっくり、オリヴィアの頬に触れた。

 そして静かに膝を折り、彼女の側にひざまずく。

「オリヴィア……」

 どういうわけか、エドモンドはわずかに微笑むことに成功した。

 彼女の肌からは甘いバラの香りがした。高価なローズ・ウォーターの入った小瓶が、寝台の横に付けてある小机の上に乗っている。まるで恋人の騎士の訪れを寝台で待つ中世の姫のように、毎晩これを肌に付けていたのだろうか? だとしたら自分はとんでもない愚か者だ。


「そしてあなたも……同じくらい愚かだ……」

 エドモンドはささやいたが、オリヴィアは目を覚まさなかった。







 朝の身支度を終えたローナンが下階に降りてくると、珍しいことに小柄な伯爵夫人がすでに食堂にいた。すでに何度か見たことのある若草色のドレスに身を包み、豊かな黒髪に同色のリボンを通している。

 ローナンの姿を見ると彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「じつは昨夜、驚くくらいよく眠れたんです」

 厨房からパンを持ってくる手伝いをしながら、オリヴィアは言った。「それで早くに目が覚めてしまったから、すこし裏庭の散歩をしてきたの。見て。この花の名前はなんていうのかしら?」

 後ろ髪に飾っている白い小花を指して、オリヴィアは尋ねた。

 初夏になるといっせいに芝生に広がる野花で、ローナンはその名前を知らなかった。

「名前なんてないんじゃないかな」

 礼儀正しく微笑み返したローナンは、オリヴィアの手を取って軽く口付け、朝の挨拶をする。

「僕なら『オリヴィア』って名前にするね。小さくて儚げなのに、本当はすごく強くて、可愛らしい美しさがある。まさに君じゃないか」


 二人が無邪気に笑っているところに、エドモンドは出くわした。

 朝から目の下に陰気な影をつくっているエドモンドが食堂に現れると、オリヴィアは息を呑んだ。ローナンでさえ、なにかおかしいと気付いたようだった。爽やかな雰囲気がぴたりと止み、全員がしばらく口をつぐんだ。

 焼きたてのパンの芳しい香りが、場違いにあたりに満ちている。


「おはよう、兄さん」

 最初に沈黙を破ったのはローナンだった。「あまりいい朝ではないみたいだけど」

「そのとおりだ」

 エドモンドは枯れた声で答えた。


 そして、エドモンドはオリヴィアを見た。

 『見た』という表現が正しいかどうかは分からない。とにかく彼の視線はオリヴィアを据えていた。憑かれているような鋭い目、怒りに燃えているような瞳、眉間に深く刻まれた皺……。

 オリヴィアは急に怖気づきそうになったが、彼に見つめられているという事実だけは消しがたく、なかば無意識に彼の前に進み出ていた。

「おはようございます、ノースウッド伯爵」

 しかし、エドモンドは答えようとしなかった。

 オリヴィアはなんとか微笑んで、気分のいい朝の挨拶をする努力を続けた。「お疲れなのですか? 水を持ってきましょうか?」

 エドモンドはイエスとノーの単純な返事さえよこそうとしなかったが、それでもオリヴィアから目を離すことはしなかった。いよいよ困り果てたオリヴィアは、慌てて話題を変えてみる。

 くるりと夫に背を向けて、後ろ髪に指してある白い小花を見せると、顔だけ振り返って言った。

「これ、綺麗な花だと思いませんか? 私もローナンも名前を知らないんです。あなたならご存知かもしれません。私たちは『オリヴィア』っていう名前にしようかと──きゃっ!」

 いきなり髪を引っ張られて、オリヴィアは短い悲鳴を上げた。

 驚いてエドモンドを見上げると、彼はオリヴィアの髪から小花を抜き取り、それを手の中で握りつぶしていた。白い花弁がはらりと散って、静かに床に落ちた。


「ノ、ノース──」 オリヴィアは蒼白になった。

「あなたは忘れているようだが」

 手の内に残っていた茎も床に投げ捨てたエドモンドは、大きな身体でじりじりとオリヴィアにつめ寄り、苛立たしげな口調で忠告した。


「約束の一月はもう過ぎようとしている。そして、私はいまだにあなたを疎ましく思っている──。ファレル家の舞踏会が終わったら、あなたは実家に帰るんだ」


 なにを言われたのか信じられなくて、オリヴィアは水色の瞳を見開いて目の前に立ち塞がっている夫を見つめた。今回ばかりはローナンも動かないままで、深刻な顔をしてエドモンドとオリヴィアを交互に見ている。


 たぎるようなエドモンドの瞳は、嘘を言っているようには見えなかった。

(そんな……)

 オリヴィアの瞳から小さな涙の粒が流れて、床にぽたりと落ちた……今、散ったばかりの白い花弁のように。

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