A Whole New Life - 3

 バレット家の屋敷についてから、やっと一晩明けたばかりであるが、オリヴィアはすでに夫について一つ理解を深めた。

 ──彼は有言実行の男である。


 ノースウッドの朝は冷たかった。

 もう五月も終わりに差しかかる時期だというのに、まるで二月の朝のような寒さで、オリヴィアはシーツの中で身震いした。目を覚まして朝日の差す窓を見やると、うっすらと霜のようなものがかかっていて、その結晶が光に反射し、キラキラと眩しかった。

 ああ、

 綺麗……。

 じゃあ、

 もう少し寝ましょう。

 オリヴィアは滅多に早起きをしなかったが、それは彼女が特別だという意味ではなく、都会の裕福層は誰でも似たり寄ったりだった。ノーブル(貴族)は朝10時前に起きてはいけないのだ。だって、私たちが早起きしたら、召使いたちは今よりもっと早起きしなくてはいけなくなる。

 冷たくはあるが澄んだ朝の香りを鼻腔いっぱいに吸い込むと、オリヴィアは二度寝を決め込むためにベッドの中で昼寝をする猫のように丸くなった。

 オリヴィアに与えられた女性用のベッドは、一人向けで小さかったが、寝心地は悪くない。

 そう、エドモンドとオリヴィアは、昨夜も床を共にしなかったのだ。


 コンコンと部屋の扉を叩く音がして、オリヴィアは目をつぶったまま不満げに眉をひそめた。

 太陽の高さからいって、まだまだ早朝だ。目を覚ますような時間ではない。オリヴィアはノックを無視したが、扉を叩いた主は諦めが悪かった──扉はいつまでも叩かれ続ける。

 オリヴィアは頭までシーツとキルトをかぶって、聞こえないふりを続けた。

 ノックはさらに強くなり、オリヴィアが無視できない騒音へと変わっていったので、さすがの彼女ものろのろとシーツから顔を出して、そして立ち上がった。

「どなた?」

 寝惚けた声で応答すると、やっとノックが止み、低い声が答えた。

「マダム、私だ。開けなさい」

 エドモンドだった。

 オリヴィアの眠けまなこがパッと見開く。寝着が乱れていないか急いで確認すると、扉を開けに向かった。一瞬扉の前で立ち止まり、深呼吸をして、扉を開く。

 そこにはエドモンドが立っていた。

 土色のズボンに、胸元が開いた白い飾り気のないシャツ、黒い太目のブレイシーズという格好だ。この寒いのに、上着さえ着ていない。

「おはようございます、伯爵」

「早くはないがね、マダム。おはよう。そろそろ起きていただきたいんだ」

「まあ……」オリヴィアは曖昧に答えた。「初めての朝ですものね、使用人たちへ挨拶をしなければいけないのかしら」

 結局、昨日は旅の疲れで部屋から出られずにぐったりしていただけだったので、あの恐ろしい執事と小姓ジョー以外、誰にも目を通していない。最初の日くらい、朝の使用人たちの様子を見ておけということだろうか。オリヴィアは目をこする。

 しかしエドモンドは頭を振った。

「確かに、君には使用人たちに挨拶してもらう必要がある」

 そして、例の厳かな調子で続けた。

「しかし君が思っているように、挨拶して終わりではない。ノースウッドでは皆が働くんだ、マダム。例外はない。子供も、老人も」

 『伯爵も、伯爵夫人も』と、エドモンドは言外に匂わせた。

 オリヴィアは夫の台詞の意味がよく分からず、もじもじと寝着の袖を指でいじりながら考えをめぐらせる。皆が働く……オリヴィアが……働く?

 何を、どうやって?

「私……」

「イエス、マダム」

「私も働くということでしょうか……?」

「そういうことになるだろう、マダム。物分りがよくて助かる」

 何ということだ。オリヴィアは、急遽、自分が出来そうなことを考えてみた。

 オリヴィアは今まで、朝起きると召使が着替えと洗顔用の水を用意してくれ、服に袖を通すまで手伝ってもらう生活を送ってきた。食事が用意されると呼ばれ、自分は席に付いて食べるだけで、料理も掃除も、ベッド・メイキングさえしたことがない。

 リッチモンド邸には大きな庭があって、その世話をするのがオリヴィアの仕事だと自負してはいたが、オリヴィア本人が手を動かすことはあまりなく、住み込みの庭師がいて、オリヴィアはそこにもっと水をあげてくれだとか、あちらの木を刈って欲しいとか、そういったことを頼むだけだった。

「刺繍ができます。珍しい流行の花模様が縫えるんです」

「…………」

 エドモンドが答えなかったので、オリヴィアは慌てて説明を加えた。「とても珍しい花模様です。大陸から新しく伝わったそうで、誰も彼もが縫えるわけじゃないんです。社交界で流行っているそうで、姉に渡したらとても喜ばれました」

 オリヴィアは一種の威厳をもって語った。が、エドモンドの反応は芳しくなかった。珍しいものを見る目付きでオリヴィアを見下ろしている。

 今更だが、エドモンドは大男だった。

 そのグリーンの瞳も相まって、まるで背の高い針葉樹のように見えた。その大きな針葉樹は深い溜息を吐くと、諦めるような口調で言った。

「分かった……君にはまず、食堂の場所を教えよう。飢え死にされては困るからな」



 オリヴィアは多分、生まれて初めて、召使いの手伝いなしに着替えをした。

 背のうしろのホックだけは自分で留められなくて、続き部屋でオリヴィアを待っていたエドモンドに助けを頼んだが、それは仕方ないだろう。

 エドモンドはむっつりしながら無言でオリヴィアの背のホックを留めた。

 その眉間には深い皺がより、大きな手は心なしか震えていた。


「まぁ、まぁ、これがエドの旦那のお嫁さんかい! こんなお人形みたいなのをノースウッドに連れて来ちまって、一体どうするつもりなんだい?」

 エドモンドに連れられて、食堂と呼ばれる場所へ急ぐと、それは貫禄のある太った中年女がオリヴィアを迎えた。

 背が低くて、小柄なオリヴィアよりさらに一回り小さいが、幅だけは軽く二倍ありそうだ。くるくるに巻かれた金髪が頭の上でくしゃりと乱暴に結い上げられていて、酒を飲んだあとのように顔が赤みがかっている。頬にはそばかすが星のように散っていて、腰周りには、昔は白かったのだろうエプロンが巻かれていた。

 挨拶もそこそこに、彼女はオリヴィアの手を取った。

「それに、この手! 見たこともないくらい綺麗だね! 困ったもんだ、マダム、あんた肉包丁を持ったことがあるかい?」

 オリヴィアは否定に首を振った。肉包丁がどんなものなのか、見たこともなかった。食事のときに使うナイフとは違うのだろうか。

 オリヴィアの反応を見た彼女は肩を落としながら盛大な溜息を吐く。

 ── 一体、何度目だろう? オリヴィアに対して彼らが溜息を吐くのは。

「いいとこの娘さんなんだね、可愛そうに。けど、ノースウッドに嫁に来たからには、あんたにもノースウッドの女になってもらう必要がある。私はマギー。このバレット家の屋敷で、唯一生き延びている女さ」

 マギーはそう言って、盛大に笑い声をあげると、エドモンドの腕をぱしぱしと叩いた。

 大柄なエドモンドと並ぶと、マギーはその半分くらいの背に見える。

「なんていったって、バレット家には例の呪いがあるからね」

「え?」

「マギー、マダムに朝食を出してくれ。昨夜食事を取らなかったようだから、たっぷりと栄養のつくものを」

 エドモンドはマギーの言葉を遮るように、唐突な感じで早口に命令を下した。

 マギーの方は、一瞬、しまったというような顔をして肩をすくめて見せたのち、素直に主人へ頷いた。


「分かりましたよ、エドの旦那。私がマダムに栄養の付くものをたっぷり与えてやろうね。ここでちゃんと生きていけるようにね」

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