Farrell's Temptation - 1
ヒューバート・ファレルは何時間でも全身鏡と向かい合って、自分が最も魅力的に見える仕草をたんねんに調べるような伊達男であったが、そこには理由があった。
彼には、宿敵と見なす相手がいたからだ。
彼はその宿敵に長いこと競争心を抱いていて、事あるごとに自分が優位に立てる機会を注意深くうかがっている。たとえば有力者の集まる社交の場や、華やかな舞踏会などで、どれだけ自分の方が洗練されていて資産が豊かであるか、主張するのを怠らなかった。
たいてい、彼はそういった機会を自ら作り出す必要があった。
腹立たしいことに、彼の宿敵はヒューバートを器用に避けているのだ。『奴』が出席すると聞いた集まりに、ヒューバートが贅の限りをつくした豪華な服ではりきって行ってみれば、『奴』は集まりそのものをすっぽかし、なんと、柵を壊して逃げた雄牛の群れを追いに行ったりしていた。
「ノースウッド伯爵は領地の管理にとても熱心でいらっしゃるようだ」
と、ある、ヒューバートとファレル家がたいそう世話になっている中央の有力者が感心したようすで言った。
「領民のために自ら雄牛を追うとは、なんと型破りな! しかし、なかなか骨のあるいい男のようだ。ぜひとも紹介していただきたいものですな」
流行の、足がほっそり見える形のズボンを着込んだファレルは、なんとも居心地の悪く肩身の狭い、屈辱的な気分を味わされたものだった。しかしこれも、長年の鬱憤の一部でしかない。
ヒューバートと『奴』は長い間比べられ続けてきた。
ノースウッド伯爵とサウスウッド伯爵、その相反する立場からして、彼らの確執はすでに遠い昔から運命付けられていたのだ。きっと。
*
「マーガレットの仕立て屋」は軒先こそ控えめな雰囲気であったが、いったん中に足を踏み入れると、思わず感嘆の声を漏らさずにはいられないほどの美しい布で溢れかえっていた。
それらが高く天井まで積み上げられているさまは圧巻で、オリヴィアはつい、挨拶も忘れてすっかり四方に目を奪われていた。
帽子を脱いだマーガレットがいそいそと近付いて来たとき、オリヴィアは珍しい金糸入りの厚布に目を奪われていたところで、声を掛けられた驚きに飛び跳ねそうになった。
「ようこそ私のお店へ、レディ・ノースウッド」
マーガレットは上品に年上の貫禄を見せながら言った。
「オリヴィアとお呼びしてもいいかしら、マイ・レイディ? わたくし、可愛いお客さまに対してはいつも、親愛の情を込めて名前で呼ばせていただきますの」
男二人が見守る中で、オリヴィアとマーガレットはきゅっと手を握り合った。
仕立て屋の女主人は慣れた目付きで、オリヴィアの全身をすばやく観察した。
オリヴィアの黒髪はつややかに輝いており、天使像がそのまま息を吹き返したような繊細な顔を華やかに飾っている。彼女はどちらかといえば小柄で、加えて華奢であったが、胸元は形よく豊かに肉付いていて色気を感じさせる……。
マーガレットはいわゆる美女と呼ばれる女たちを数え切れないほど見てきたが、オリヴィアは間違いなく、その中でも屈指の愛らしさを備えていた。
それも、磨けばもっと輝く種類の美しさだ。
実力のある仕立て屋の主人として、これ以上の客はいない。久しぶりに腕が鳴るのを感じて、マーガレットは満足げに微笑んだ。
「さ、まずはその変わったスカーフを取ってくださいな」
へんな形に胸を覆っている馬車の張り布について、マーガレットはしげなく却下を言い渡し、オリヴィアの首からそれを取り上げた。
大胆なレース使いのドレスに包まれたオリヴィアの胸元があらわになり、マーガレットはさらに目を輝かせる。
ローナンは満足げな笑みをもらした。
エドモンドはぎりりと歯軋りをした。
「では、お座りになって。どうぞスケッチをご覧になってくださいな。流行のものから伝統的なもの、貞淑なつくりのものもあれば大胆なものまで、何でもありますわよ」
意味ありげに片目をつぶって見せたマーガレットは、茶色い革張りの椅子に座ったオリヴィアの膝の上に、いくつものドレスのスケッチを束ねた冊子を広げる。
二人の男は、彼女たちの後ろに立ったままだ。
楽に足を崩しているローナンに対し、エドモンドはまるで、縄張りを守る狼のようにあたりに目を光らせながら入り口に立ち塞がっている。
オリヴィアは特に衣装にうるさい人間という訳ではなかったが、それでも都会育ちだから、目は肥えている方だ。そのオリヴィアから見ても、マーガレットのデザインはひじょうに垢抜けていて、上品なものばかりだった。
ぺらぺらとスケッチをめくっていくと、いくつか気に入ったものがあったので、オリヴィアはそれを引き抜いた。
「これが素敵だわ。どうでしょう?」
そのスケッチを覗き込むと、マーガレットはあからさまにしかめっ面をした。襟が厚く、顎までしっかり肌が隠れる種類のドレスだった。
「まあ、オリヴィア! これではあなたの美しさがすべて隠されてしまうわ。お若いのだから、こんな重苦しいドレスは駄目よ。あなたに似合うのはたとえばこちら……」
そう言うと、マーガレットは腰がきゅっと締まった古典的な型のドレスを一枚選んだ。もちろん胸元は肩に沿って大きく開けている。
──かなり、大きく。
「すけるような薄い布を何枚も重ね合わせて、これを作りましょう。襟元にレースをつけると、きっとあなたの白い肌が際立ちますわ」
「でも……」
それこそまさに、エドモンドが危惧している種類のドレスではないか。
オリヴィアは渋り、「では、こちらはどうかしら」と言いながら、もう一枚別のスケッチを仕立て屋の女主人に渡してみせた。
「マイ・ディア! なんてこと!」
マーガレットは叫びを上げた。
「もしあなたに目が三つあって、おでこに口が付いていたとしても、このドレスは差し上げられませんわ! こういった形は後家になった大女が仕方なく着るのですよ!」
そして、マーガレットは自分が描いたスケッチをその場で破り捨てた。
背後でローナンが笑い出すのが聞こえて、オリヴィアは振り返って彼をねめつけた。義弟はそれも面白がるばかりで、たいした抑制にはならない。
続いて、オリヴィアは恐る恐る入り口に立ったままのエドモンドをうかがったが、彼は店の中のやりとりよりも扉の外に気を取られているようで、こちらを見ていない。
(も、もう……っ)
結局そのあとに、またいくつかのスケッチがマーガレットから提案され、その中で最も貞淑だと思えるものを二つ、オリヴィアは注文した。
マーガレットはぶつぶつと文句を呟いたが、これ以上、この先、上客の一人になる可能性のある伯爵夫人の決定に逆らうことはしなかった。
「でもいつか、あなたの為に最高のドレスを作らせていただきたいわ」
選ばれたスケッチを横にどけながら、マーガレットは言った。
「そうですわね……お世継ぎができて、お腹が大きくなる前に」
すると、一同がしんと静まり返り、ついにエドモンドは窓から振り返ってオリヴィア達の方を向いた。
当のマーガレットは慎重にエドモンドの視線を避け、じっとオリヴィアを見ている。オリヴィアは顔色を曇らせ、唇をわずかに開いたまま無言でマーガレットを見つめ返していた。
──エドモンドはすぐに行動に出た。
「マダム」
長い足を有利に使い、たったの二歩で店内を横切ると、エドモンドはオリヴィアのすぐ横に立った。
「心配はいらない。彼女はどれだけ子供を産んだ後でも、細身なままだろう」
エドモンドの手がオリヴィアの肩に触れた。
いや、触れただけではない。彼の指はオリヴィアの肌に食い込んでいて、痛いくらいだった。
「私たちは近く、何人もの子供をもうけるだろうが、彼女は変わらない。姿も、声も、形も、何もかも」
──エドモンドは宣言した。
息を呑んだオリヴィアは、思わず隣に立つ大きな影を見上げた。
エドモンドは誇り高く顔を上げて大地を守る獅子のように、毅然とした態度で仕立て屋の女主人を見ている。
驚きを隠せなくて、オリヴィアはもう一度息を呑み、呼吸をはやらせた。
どうして……。
エドモンドが意図したのは、ただオリヴィアの名誉を守ることだけだ――。それは分かったけれど、彼の声で確かに紡がれた言葉は、オリヴィアの心を揺さぶるだけの力があった。
たとえ、嘘でも。
嘘だと分かっていても。
エドモンドの手がオリヴィアの肩を滑り、そのまま彼女の手を握るにいたると、もう呼吸を続けることさえ難しくなってくる。
身体の芯が疼いて、このまま彼の腕の中に倒れてしまいたいような衝動に駆られ、苦しくなる……。
「ノースウッド伯爵……」
オリヴィアが声を漏らしても、エドモンドは毅然としたままだった。
そんな二人の姿をじっくりと眺めながら、マーガレットは満足そうに微笑んだ。
しかし、それはただの微笑みではなく、これから起こる波乱を一人だけ知っているという優越感からくる、満足と好奇心の微笑みでもあった。
──エドモンド・バレットは意志の強い男だ。
彼はそういう風に生まれ、そういう風に育ち、そして今ではその鋼鉄の意志をもって、この可愛らしい新妻を守ろうとしている。
禁欲を誓うこの男と、快楽を求めるあの男が、小さくて美しい伯爵夫人を奪い合うさまはなかなか見物だろう……。
マーガレットは素早く立ち上がると、
「そうでしたわ……もう少しで紹介が遅れるところでしたわね。今日は、実はもうお一方、お客様がいらしていますの」
と言いながら、店の奥へ進んだ。
マーガレットの仕立て屋は細長い造りになっていて、奥へ入ると分厚いカーテンに仕切られた採寸室があり、デザインを決めた客はそこで寸法を測る仕組みになっている。
普段はぴったりとカーテンで閉ざされた空間だったが、マーガレットが紺色の仕切りに近付くと、それは小気味いい音をシュッとたてて、ひとりでに大きく開いた。
そして、一人の男の影が現れた。
「やあ、エドモンド」
──と、都会風のアクセントが聞こえた。
そして、
ベージュのベストで華やかに上半身を固めた金髪の男がカーテンの影から進み出て、不自然な斜めの角度に構えると、白い歯を見せてニヤリと笑ってみせた。
「そして──レディ・ノースウッド、お目にかかれてこの上ない幸せです。僕はヒューバート・ファレル卿。どうか以後、お見知りおきを」
エドモンドのダーク・ブロンドとは違う本物のプラチナ・ブロンドを輝かせながら、ヒューバート・ファレルは華麗に登場した。
「ヒューバート? なぜお前がここに──」
エドモンドが立ちはだかろうとする前に、ヒューバートは素早くオリヴィアの前に躍り出ていた。
それはまるで計画されていたような無駄のない動きで、カーテンの陰から出てきてオリヴィアの手を取るまで、三秒とかかっていない。
オリヴィアは微笑む暇さえなかった。
「美しいレイディ」
ヒューバートは両手を使って、オリヴィアの自由な方の手を取った。
驚きに目を見開いているオリヴィアを覗き込んだヒューバートは、また不自然な斜めの角度に首を曲げると、白い歯を見せて微笑んだ。
「隣人のよしみとして、どうかこの口付けを受け取っていただきたい。僕はサウスウッド伯爵でもある──ノースウッドのすぐ南にある、豊かな領地の領主です」
そしてオリヴィアの白い手の甲に口付けを落とした。
──まるで宣戦布告のように、それは嫌な音を立てた。
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