Unbreakable - 5

 すこし飲み物を求めてさまよっていただけなのに、気が付くと数人の陽気な美女に囲まれていたローナンは、いくつかの面白い場面を見逃してしまっていたらしかった──。


 彼が舞踏室に流れ着いたとき、それは、まさにこれからカドリールが始まろうというときだったらしく、真っ直ぐに並んだ男女の列が互いに向き合っているところだった。男女共に期待に満ち溢れた顔をして横のパートナーと見つめ合い、踊りが始まるのを今か今かと待ち望んでいる。

 ローナンが人ごみの頭越しに首を伸ばすと、カドリールの顔ぶれが見渡せた。

(えぇ?)


 中にはエドモンドがいた。

 オリヴィアもいた。


 彼らはそれぞれ別のパートナーと組んでいるようだったが、カドリールは途中で相手が何度か変わるから、最初の相手以外とも多く踊ることになる。

 兄は、なにか変な酔い方でもしたのではないかと思えるほど恐ろしい形相で、オリヴィアのすぐ前に並んでいた。

 彼の視線の先はまるで当然のように義姉で、こちらは道に迷った小鹿のような瞳をしながら、ダンスの相手を見つめるべきか怒れる夫を見つめるべきかで困っているようすだ。


 ──我が兄ながら、あんな顔をしてカドリールを踊ろうとする人間を見たのは初めてだと、ローナンは妙に関心してしまった。

 いやはや、自分も不機嫌そうな顔をすると、あんな不気味な表情になるのだろうか?

 これは気を付けなければ。

 ローナンはつい片手でパシパシと頬を叩いて、兄につられて自分まで渋面にならないよう心に留めた。


「カドリール!」

 と、どこかから進行役が声を上げたのを皮切りに、独特の軽快な音楽がテンポよく奏でられ始め、カドリールが始まる──。

 ローナンは思わず息を呑みつつ、二人の行方を見守ることにした。


 踊りはまるで儀式のようで、最初から最後まで動きは決まっている。

 しかし、今回ばかりは何が起こるのか予想がつかないような気がして、ローナンは息を潜めた。





 あまり踊りが得意ではないオリヴィアは、騒ぎに興じるよりも壁の近くのすみっこで静かに音楽を聴いている方が好きだった……。しかし、今夜ばかりはそうはいかない。

 なかば強引にヒューバートに誘われたカドリールだったが、なんと前の列のすぐ正面にはエドモンドが入っていて、隣り合って踊る形になっている。

 つまり、エドモンドとも踊ることになるのだ!

 それはとても素晴らしいことに思えた。──彼の表情を確認するまでは。

(わ、私が失敗をするとでも思っているのかしら……!)

 エドモンドはすでに、オリヴィアが彼の靴を踏んづけてしまったのを厳しく叱責するような渋面で、こちらを睨んでいた。

 彼のパートナーは例のヒューバートの妹とやらで、こちらは対照的なほど華やかな笑顔を見せながら、隣の彼をうっとりと見つめている。きらきらの金髪がまぶしい美女で……おまけにエドモンドの瞳の色に合ったドレスを着ていた。

 桃色のドレスに包まれたオリヴィアの胸元が、急にどくんどくんと鼓動をせき始める。


 誰でもいい。

 彼に、近づか、ないで。


 オリヴィアの中に、いままで感じたことのないような焦りが駆け巡った。

 いきなり周囲の空気が薄くなっていくような息苦しさがして、つい、胸元の宝石を片手できゅっと握る。


 ──本当に、私たちは、今夜までなの?

 この宴が終わったら、この踊りが終わったら、この瞬間が果てたら。まるでこの結婚もこの恋も存在しなかったように離れ離れになって、お別れしなければならないの?

 思い出と、切なさと苛立ちの混ざった複雑な思いが、行き場所を求めてぐるぐると胸の中を踊り始めているようだった。


「カドリール!」


 そのせいかオリヴィアは、掛け声がかかり音楽が始まると、皆がいっせいに踊りだす前に最初のステップを踏み出してしまった。

 ヒューバートをふくめた周りの何人かが、そんなオリヴィアをちらりと振り返って、いぶかしげに目を細める。


 それは誰にでも一度はある、タイミングの間違いのようにも見えた……踊りなれない小さな婦人の、ささいな間違い。たった数秒のずれだったのだから。

 しかしまったく同じその瞬間に、エドモンドも最初の一歩を踏み出していた。

 それは堂々とした動きで、まるで、タイミングを間違っているのは彼とオリヴィア以外の人間たちの方ではないかと錯覚させるほどのものだった。

 音楽はすぐにテンポを速め、踊りが始まる。

 するともう周囲も、エドモンドとオリヴィアの最初の小さな間違いに気を払うことはない。

 オリヴィアはあせり、決まりどおりに動こうと相手のヒューバートを見ようとつとめた。ヒューバートは探るような視線でオリヴィアを見つめ返し、踊り慣れた者だけができる軽快な足運びで上手にオリヴィアをリードする。

「誰にでもある間違いですよ」

 ヒューバートはまるで慰めるような口調で、オリヴィアにささやいた。「あとでじっくりとステップを教えてあげましょう。もちろん、個人的に、ね」

 オリヴィアは答えず、ただじっとヒューバートの冷たい青の瞳に見入った。

(いいえ、違うわ)

 確信を持って、オリヴィアは心の中で呟く。

(間違いだったんじゃない……偶然でもない。ノースウッド伯爵と私は、同じ瞬間に動き出したの)

 ひらり、ひらりと女性たちのドレスがきらびやかに舞い、音楽が軽やかに続き、紳士淑女はカドリールの動きに酔うように踊り始める。

 いくつかの軽いステップのあと、オリヴィアはヒューバートの手を離れて、隣の組の男性と踊ることになった。

 つまり、エドモンドだ。

 オリヴィアが手を伸ばすと、エドモンドは素早くそれを取ってきゅっと握った。それは本当なら、軽く触れるだけの動きのはずだったから、オリヴィアは驚いてエドモンドの顔をのぞき込んだ。


 ──彼はもう、例の不機嫌な顔をしていなかった。

 かわりに切ない緑の瞳が、静かに、でも深みをおびてオリヴィアを見下ろしている。


「ノースウッド伯……」

 しかし、オリヴィアが彼の名を呼びきるまえに、音楽は再び二人を離れ離れにした。

 オリヴィアはすぐにまたヒューバートの手に戻り、エドモンドの手は振りほどかれる。しかし、離れぎわに彼の手が名残惜しそうにオリヴィアの指先を掴んだのに、気付かないはずはなかった。


 どくん、と鼓動がはぜた。


 弦楽器の軽やかな調べが続き、オリヴィアはあらためてパートナーのヒューバートを見なければと努めて顔を上げたが、心は隣で金髪の美女と踊っているエドモンドのことばかりが気になってしまう……。


 こんな形でも、オリヴィアがエドモンドと踊ったのはこれが初めてだった。


 たった一瞬だけ。

 手を繋ぐことができたと思うと、次の瞬間にはもう離れ離れになって。

 でも、しばらくするとまた、オリヴィアはエドモンドの元へ戻っていく──。そんなことが踊りの中で何度も繰り返されて、そのたびにオリヴィアの手を握るエドモンドの力は強くなっていった。

 もうその情熱を無視することはできない。

 くるくると回るカドリールの動きも相まって、オリヴィアは頭のてっぺんから足元までがくらりと揺れるような感覚に何度も襲われそうになりながら踊らなければならなかった。


 ──もし今夜が最後なら。

 お願いだから、ああ、この曲が終わらないで。

 このまま、倒れて、何もかも分からなくなってしまうまで、終わらないでいて。


 音楽はまるでオリヴィアの願いを聞き入れたように延々と続き、二人は何度もすれ違い続けた。


 お互いの右手を合わせて、見つめ合いながらその場を回転する動きがくると、胸の苦しさは頂点を迎えた。

 二人は手を合わせる。

 エドモンドは切ない瞳でじっくりとオリヴィアを見下ろし、オリヴィアもそれと同じくらい感情的な瞳で彼を見上げながら、この貴重な一瞬、一瞬を魂に刻み込もうと、ゆっくりと動いた。

 甘くて、残酷なひと時。

 ヴァイオリンのメロディーまでが、離れ離れになろうとする恋人たちを慈しむように、優しく流れるのだ。そして二人を照らすシャンデリアのきらめき。

 オリヴィアはこのままエドモンドの胸にすがりたかった。

 今なら、エドモンドの胸にすがって泣けば、彼はオリヴィアの願いを受け入れてくれそうな予感がして仕方がなかった。でも、時間は無情にも着々と進み、結局二人はまた離れ離れになる……。


 そして、気がつけば曲は終わりに差し掛かり、最後の瞬間に近づいてきていた。

 二人の手は再び離れ、もうこれ以上……。

 その時、

「オリヴィア」

 オリヴィアは自分を呼ぶ低い声を聞いた。

 それが、エドモンドの声だと理解できるまでに一瞬の間があったが、幻聴とは考えられないほどしっかりとした響きをしていて……間違いようはない。オリヴィアはたまらず、離れそうになるエドモンドの指を探って、まるで駄々をこねる子供のようにきゅっと握ってみた。

 私から離れないで、と瞳をうるませながら懇願して、彼を見つめる。

「だめだ──」

 と、かすれた声でエドモンドが言ったのと、彼の上半身が飢えた野獣のように動いたのは同時だった。

 本来なら、オリヴィアの身体がヒューバートの隣にゆだねられるはずの瞬間、エドモンドの腕が素早くオリヴィアの腰に回り、彼女をくるりと彼の目の前に回転させていた。

「何をするんだ、エドモンド、一体──」

 ヒューバートがそう早口に文句を言おうとする声が背後からしたが、オリヴィアの心にはまったく響かなかった。


 次の瞬間……オリヴィアの唇は、エドモンドに奪われていた。

 とたんに、心臓があったはずの場所に熱い炎が満たされていくような感覚がして、オリヴィアは肢体を支える力を失っていった。

「あ……」

 オリヴィアが小さな声を漏らすと、エドモンドは──オリヴィアの夫は──それを吸い取ろうとするように再び唇を重ねる。

 そして、カドリールが最後の一節を奏でるころまで、妻を離すことはなかった。

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