Unbreakable - 8
火打ち石を叩いたときのように、二人の男たちの間で小さな火花が散り、こげた匂いが立ちのぼるようだった。
ローナンは頭の片隅で、どちらの方に
──冷静にものを考えることのできる人間と、腹を空かせて頭に血の上った野獣と。もちろん兄が後者だ。
エドモンドは
彼女がローナンの助けを借りて器用に舞踏室を抜けていくのを見て、エドモンドは急速に歩幅を広げてこちらへ近づいてくる。自分を含めたバレット兄弟の長い足をもってすれば、オリヴィアのような小柄な女性がドレスで逃げるのに、追いつけないはずはない。しかし、兄とほとんど身長の変わらないローナンにしても、突進してくるエドモンドを止めるのは容易ではなかった。
なんせ、エドモンドの目は血走っている。
「兄さん、待ってよ」
と、ローナンは身を挺してエドモンドの前に立ちふさがった。
二人の身体がぶつかると、その拍子にローナンはわずかに後ろによろめいて、そばでカクテルをすすっていた老人をもう少しでなぎ倒してしまうところだった。しかしエドモンドはオリヴィアから目を離すことができないようで、礼服に桃色の染みを作ってしまった老人がなにやらぶつぶつと文句を言うのを、完全に無視している。
ローナンは兄の前に立って、両手を胸の前に押し出して彼を止めた。
「義姉上は自由を求めて飛び立ってしまったんだ。兄さんがあんまり頑固に彼女を受け入れようとしないからさ……さすがに愛想をつかしたんじゃないかな」
「いいから、ここをどくんだ」
「そういう訳にはいかないんだよ、ノースウッド伯爵」
二人の男が押し合っている間にも、オリヴィアは軽やかにドレスをひらめかせながら舞踏室から遠ざかっていく。揺れる黒髪が人々の間をくぐりぬけて見えなくなると、エドモンドの顔色が変わっていった。あせりと苛立ちが混ざったような苦々しい表情を隠しもせず、エドモンドは弟を押しのけようとした。
「だ、か、ら」
兄の鍛えられた腕と格闘するのに舞踏会用の礼服は窮屈すぎたが、ローナンは、ここぞという時に風体のために遠慮するほど気取った男ではない。弟を押し退けようとする兄の手と、そんな兄を阻止しようとする弟の腕がからんで、荒っぽく争いあった。
二人の大柄な男がからみ合っていれば、嫌でも目立つものだ。周囲の目が自然と二人の兄弟に集まりはじめて、小さなざわめきが起こりはじめる。
今夜のような舞踏会で、野蛮な騒ぎは御法度だ。
楽しいことになりそうなのは確かだったが、しかし、ローナンは今ここで兄と格闘を始めるわけにはいかなかった。かといって兄を通すわけにもいかない。なんとか暴れようとする兄の両腕をつかまえたローナンは、力を込めて兄を押しとどめながら言った。
「こんなのは長続きしないんだってば、兄さん、分かってるくせに意地を張るから面倒なことになってるんだ!」
ローナンの言葉に、野犬が低くうなるような声を歯の隙から漏らしたエドモンドは、強引に相手の腕を振りほどいた。そこで近くにいた婦人がきゃっと声を上げて後ずさったので、それを側で見ていた若い青年が色めきだった──血気盛んな年頃独特の、勇敢なところを見せてやろうという野心に火がついたらしい。
青年は、勇んでエドモンドの肩に片手を乗せようとした。
「失礼だが、伯爵、婦人たちの前で乱暴な真似は控えて──」
青年は若者らしくそれなりに立派な体格をしていたが、いかんせん相手が悪いことに気づいていなかった──あるいは相手と、タイミングが、ひじょうに悪いことに。
今のエドモンドは機嫌を損ねた馬よりも質が悪い。そう、まるで、駿馬が邪魔者を蹴飛ばそうとするような勢いで、エドモンドの身体は反応した。さっと青年の手がエドモンドの肩から浮かされたと思うと、そのまま青年の全身が弧をかくようにして空中に舞い、どさりと派手な音を立てて落下したのだ。
それはまさに落馬した人間のそれに近く、抵抗する間も、悲鳴を出す暇もないほどの急な展開だった。
舞踏会場はあぜんとして、しばしの沈黙に包まれる。
「あーあ……」
と、ローナンだけが小さく呟いたが、それを聞いている者は少なかった。舞踏会はすでに熱く熟しており、人々の血にはたっぷりとアルコールが混じっている。
いくら紳士淑女の皮をかぶっている上流階級の人間たちも、こうなると少しばかり勝手が違ってきて、ほんの一掴みの火付け粉だけで簡単に燃え上がることができるのだった。
「なんと!」
突然、エドモンドたちの周りに出来た人垣の奥から、派手に着飾った太った背の低い老紳士が声を上げた。「私だって若い頃はこのくらい暴れたものじゃて!」
老紳士の頬はいっそ見事なほど赤く染まっていて、自分の年齢も思い出せないほど酔っ払っているのは間違いなかった。
周りの誰かが止めようとするのも聞かず、老紳士は手に持っていた銀飾り付きのステッキをぶんぶんと振り回し始め、それはそのまま隣にいた別の紳士の背中を直撃した。バチンと小気味のよい音がして、背中を突かれた紳士は手にしていた飲み物を落とした。
それを合図にしたように、また別の方向から似たような騒動が始まって、それが波のように舞踏室に広がっていく。
ついさっきまで優雅なカドリールで盛り上がっていた会場は、ものの数分もしないうちに野蛮な闘技場のようなありさまになり、ついにはあちらこちらで血が流れるほどの騒ぎとなっていった。
しかし当のバレット兄弟は、騒ぎを前にして静かににらみ合っていた。
「……この騒ぎに責任があるのが誰とは言わないけど」
あちこちで高価なクリスタルが割れる音がするのを背後に、先に口を開いたのはローナンだった。エドモンドの肩は興奮したように激しく上下していて、視線はしつこいほどオリヴィアが逃げた方角に張り付いたままだ。
「彼女を追いかけるなら、決心をしてからにした方がいい。彼女を妻として受け入れるか、受け入れないのか。そうじゃなきゃまた同じ道化を続けるだけだ。違う?」
笑顔を引っこめたローナンは、真剣な顔をして兄をのぞき込んだ。
エドモンドは固い表情を変えようとはしない。
周囲で起こっている壮絶な騒ぎも、彼の目には映っていないようだった。──なんて頑固な。実の兄を前にして、ローナンはある意味、
とてもではないが、自分にこんな恋は出来ないだろう。
こんな愛はいだけない。
こんな風に、自分を滅茶苦茶に振り回すような。
こんな風に、自分を破滅に追い込もうとするほどの、強い想いは。
壊せないはずのものを壊してしまうほどの、強い強い想いは。
しばらくすると、エドモンドの息が少し落ち着いたものに変わって、そのぶんだけ彼の瞳に浮かぶ焦燥が増すようだった。
「私には、耐えきる自信があった。少なくとも初めは……」
ぽつり、ぽつりと──
小さな少年が告白をするように、エドモンドは不器用に呟きはじめる。
「彼女を愛さないでいられる自信が。愛してしまったあとは、彼女のために別れを選ぶだけの分別を持っていると、信じていた」
エドモンドの筋立った大きな手は、なにかを掴もうとするように宙でぎゅっと握られていて、今にも震えだしそうだった。
ローナンはしばらく黙って兄を見守っていたが、そのやせ我慢をする様子があまりにも痛々しい気がして、ついには肩をすくめながら口を開いた。
「あの盛大な口付けのあとに、もう、後悔しても遅いんじゃないの?」
強烈な拳が飛んでくるのを覚悟していたローナンだが、エドモンドは意外なほどすんなりとその助言を受け入れた。
「そのとおりだ」
ノースウッド伯爵エドモンド・バレット卿の声は確信に満ちていた。
そう、
このバレット家の当主が確信を持ってなんらかの行動をとるとき、そこに迷いがないのを、ローナンは知っている。兄の決心を壊せるものなどそうないのだ。
太陽さえ恐れをなして昇るのをためらうような、
そんな夜が始まるかもしれないのを、ローナンは感じていた。
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