Barret's Secret - 2

 スープは珍味だった。

 もっと正確にいえば、それは不味かったのだ。加えてレバー独特のすえたようなにおい。オリヴィアは一口目を頑張って飲み込んでみた。

 こめかみの辺りに衝撃を覚えて、小さな星がチカチカと視界を舞う幻覚を見たが、今思えばそれらはただの前兆にすぎなかったらしい。なかば勝手に手が動いて、二口目を口に運んでみる。

 そして、スプーンの半分ほどを飲み込んだところだった。

 オリヴィアはそのままスープの入ったボウルに吐いてしまった──が、スープは汚物と混じってもあまり違和感のない姿のままだった。

 マギーが「あらまあ!」と素っ頓狂な声を上げて、オリヴィアに布を渡したと思うと、キッチンから飛んで出て行く。

 一人残されたオリヴィアは、吐いてしまったあとの疲れではあはあと肩で息をしながら、呆然と佇んでいた。



 そんな時。

 くすくす……と背後で軽快な笑い声が聞こえたので、オリヴィアは慌てて振り返った。

 すると、キッチンの入り口の扉枠に肩を片方寄りかからせた青年が、オリヴィアの方を見ていた。びっくりして布を握り締めたまま椅子から飛びのいて立ち上がる。急いで口元を拭いたが、自分が他人の前に立てるだけの風采を整えているとは思えない。

 オリヴィアは軽く頭を下げた。

「ごめん、笑うつもりじゃなかったんだ。顔を上げて」

 若く爽やかな声が響いた。

 顔を上げたオリヴィアと、青年の視線が合う。オリヴィアはびっくりして背筋を伸ばした。青年はエドモンドによく似ていたのだ。

 ほどよく日に焼けた肌の色と、緑がかった瞳、逞しい長身に濃い金髪。

 ただ、初対面でも分かるほど、圧倒的に雰囲気が違った。エドモンドは見るからに真面目そうで厳つい顔付きをしているが、青年は逆で、誰とでも気軽に打ち解けそうな穏やかな雰囲気に包まれている。

 印象どおりの柔らかな口調で、青年は続けた。

「君が、兄さんが連れてきたお嫁さんかな。想像していたのと、だいぶ感じが違うけど」

「オリヴィアと申します」

 肯定する代わりに、オリヴィアは名乗った。

 すると青年は満足そうに微笑んで、オリヴィアの隣にあった机からスープ(と汚物)の入ったボールを取り上げ、開いていた窓から勢いよく中身を投げ捨てた。

 まぁ、とオリヴィアは声を上げたが、青年は愛想よく微笑んでいる。

「マギーに悪気はなかったんだ。許してくれると嬉しい。ノースウッドの連中はさぞかし野蛮な原始人だと思われただろうね」

「いえ、そんなことは……驚きましたけど」

「僕はローナン。ローナン・バレットだ。エドモンドの弟に当たるから、賢い貴女なら分かっていると思うけど、貴女の義弟になるみたいだね」

 自分を賢いと思ったことはなかったが、ローナンの言うロジックは理解できた。

 夫の弟。つまり、義理の弟だ。


 ローナンはキッチンの奥に進むと、井戸水の汲まれた樽に木製のコップを入れて、水をすくった。

「はい」

 と言って、微笑みながらオリヴィアに水の入ったコップを差し出す。

 オリヴィアは礼を言うかわりに軽く膝を折って感謝を表し、ありがたくそのコップを受け取った。そのままごくりと飲みはじめると、キンと冷えた水が喉を潤していく。都心では決して味わえないような澄んだ甘味のある水だった。

 厨房の台に寄りかかって腕を前で組んでいるローナンは、そんなオリヴィアの様子を眺めながら微笑を絶やさない。

 なんと。

 オリヴィアはまだ夫の笑顔を見たことがないから、妙な気分だ。

 水を飲み干してから、顔を上げてローナンをあらためてよく見てみる。やはり彼はエドモンドによく似ていて、笑顔でなければ間違えてしまうかも知れなかった。

「どうだい、エドモンド兄さんとは、上手くいっているかな。兄はかなりの堅物だから、退屈でしょう」

「分かりません……その、まだあまりお話をしたこともなくて」

「そうか、いやはや。弟として謝りますよ。兄はどうしようもない無骨な男で。気を悪くしないでしてやってくれるかな」

「それはもちろんです」

 とは言ったが、謝られたことでオリヴィアの気持ちは少しスッとしていた。

 とりあえずノースウッドの全ての男が、エドモンドのように無口であったり、僧侶のような貞操観念を持っているわけではなさそうだと分かったのも、歓迎すべきことだ。

 新しくできた義弟、ローナンは、いかにも愉快そうにオリヴィアを上から下まで観察している。オリヴィアは都会っ子として、そして金持ちの娘として、人から見られることには慣れていたので、リラックスしたままローナンの見たいようにさせていた。

 それにしても何故、誰も彼もがオリヴィアを「想像していたのと違う」と評するのだろう?

 エドモンドは何か、たとえばオリヴィアと正反対の、長身で厳ついブロンドの大女を妻に迎えたいとでも公言していたのだろうか。


「君は料理したことがある?」

 だしぬけにローナンがたずねた。

 オリヴィアは首を横に振る。ローナンは人懐っこそうな笑顔をさらに緩めて、声を上げて笑ってみせる。そして、そばの台に乗っていた折籠の中から数個の卵を拾い上げ、得意そうに肩の高さに掲げてみせた。

「では、僕が君の朝食を作って差し上げましょう、マダム。少なくともマギーのスープよりは美味しいものができるはずだよ」

「ま、まぁ、本当に?」

「それとも君が自分で作るかい?」

「作ったことがないんです。でも、教えていただければ何かできるかもしれないわ」

「そうこなくちゃ。義理の弟姉が一緒に朝食をつくるなんて素敵じゃないか」

「あなたは料理ができるの?」

 いつのまにか、オリヴィアはできるだけ大人っぽい話し方をするのを放棄していた。それが本当は彼女をより可愛らしく見せるのだということを自覚しないまま。

 ローナンはすっとオリヴィアに腕を伸ばし、彼女の手をとるとそこに軽く口付けて、厨房台の前に彼女を誘導した。

「もちろんですよ、マダム、僕の料理は兄さんの料理の次に美味しいんだ」





 エドモンドは鋼鉄の理性を誇っていた。少なくとも、ほんの少し前までは。

 しかし、四日ほど前に妻にしたばかりの少女が──まだ、抱きしめたことさえない幼妻が──妊娠していると知っては、鋼鉄などひとたまりもなかった。

 手に持っていたブラシを地面に投げつけると、厩舎の中の馬たちは興奮気味に足踏みをして怯えたが……知ったことか。


 エドモンドは厩舎を飛び出し、屋敷に向かって大股で進んだ。

 これが、膨大な持参金の本当の理由だったのか? ──こういう罠に貧乏貴族を落とし入れようとする輩がいるのを、エドモンドは確かに知っている。

 おとしいれられたことと、妻に裏切られたことへの怒りは、真面目なエドモンドを激昂させるのに充分な威力を持っていた。

 なぜ。

 オリヴィアを妊娠させるのは、この世で最も避けるべきことの一つだと思い、馬車の乗り降りを助けるなどの必要性からくるもの以外では、指一本触れてさえいなかったというのに……どこの誰だか知らない馬の骨が、すでに彼女を抱いていたというのだ!

 それは屈辱であり、怒りであり、嫉妬だった。

 エドモンドはオリヴィアの元へ急いだが、彼女の前に躍り出たとき、自分が何をするのかは予想さえつかなかった。ただ、彼女の顔を見なければ気がすまない……。そう、心が叫んでいた。



 厨房の前まで来ると、明るい男女の笑い声が、エドモンドの耳に入ってきた。

 若い男女が絡み合って出すような、愉快で明るく、しかし他人には耳障りな笑い声。うち一人の声は、30年以上に渡って毎日のように聞いてきた男の声だ。

 そして、もう一人は……


「違うよ、駄目じゃないか! 卵の殻は食べ物じゃないんだよ」

「でも入っちゃったわ、どうしましょう」

「取ってあげるよ、ちょっとどいてくれ、オリヴィア……」


 弟とオリヴィアが、肩と肩と付きあわせ、笑いながら厨房に立っていた。ローナンの手がオリヴィアの前に伸びる。オリヴィアはそれを楽しそうに笑っていた。


 『ちょっとどいてくれ、オリヴィア』?

 ──私でさえ名前で呼んだことがないというのに!


 エドモンドは比較的広い厨房を、たったの二歩で渡った。


 そして、弟の肩をつかむと、驚きに目を見開く彼の頬ほおを、力の限りに殴りつけた。

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