I Can't Keep My Eyes Off of You - 1

 『住めば都』とはよく言ったもので、最初は巨大な納屋かと勘違いしたこのバレット邸も、今ではすっかりオリヴィアの心地いい住まいだ。

 特に、何でもかんでも大造りなのがいい。

 オリヴィアの実家は都会風の豪華な建物で、あちこちに高級な家具や繊細な装飾品が配置されていたから、いつも何かを壊してしまわないように気を付けながら動かなければならなかった。

 特に小さい頃……あれに触ってはいけません、これも触ってはいけません、あちらから離れていなさいと雁字搦めだったのを、オリヴィアは苦く思い出す。

 しかし、バレット邸にそんな物はない。

 家具といえば田舎風の頑丈な造りで統一されているし、サロンも居間も食堂も寝室も、広いばかりで余計な装飾はほとんどない。たとえば、子供がすぐ壊してしまいそうなポーセリンの犬とか、クリスタルの大皿とか、蚊のように脚の細い椅子とか。

 唯一価値のありそうな物といえば年代ものの絵画だったが、バレット邸は中世の騎士の城ほどの高さがある。子供どころか、大人だって梯子に乗らなければ手の届かないような場所に飾ってあるので、害はなさそうだった。

 そして庭から広がる見渡すかぎりの自然。

 気まぐれな天気、湿った土、痩せた森……でも、力強い大地。


 朝食後、二階にある寝室の出窓から外を眺めながら、オリヴィアは思う。

 オリヴィアはここが好きだ。

 エドモンドに惹かれるのと同じくらい、ノースウッドにも惹かれる。いや、むしろ、ノースウッドはエドモンドそのものだった。厳しくて素っ気無くて、大きくて素朴で、でも美しいもの。


 ここで彼と生きていけたらいい……。

 いつか、彼の家族になって。

 彼そっくりの子供たちが、この屋敷で笑い声を上げて駆け回っているといい。そこに、オリヴィアも一緒にいられたら嬉しい……。

 オリヴィアはいつからか、そう強く願っていた。


 結婚前の呑気なオリヴィアでは、考えもつかなかったことだ。

 父を喜ばせたくて、結婚に同意しただけのあの頃。

 ただ平和に、いくぶんかの愛情に恵まれて、楽しく暮らせればいいと思っていたあの頃。

 しかし、いつからか、オリヴィアは変わった。

 無邪気な金持ちの小娘はどこかに行ってしまって、かわりに、振り向いてくれない夫に恋をする田舎の伯爵夫人がいる。オリヴィアは感傷的な人間ではなかったし、今でも希望は失っていないが、それでも切ないという想いをうんと学んだ。

 もし願いが叶わず、エドモンドがオリヴィアを実家に帰してしまっても……オリヴィアはきっとノースウッドでの日々を後悔しない。

 悲しむことはあっても、懐かしむことになっても、後悔だけはしないと確信がある。


 ──こんな想いは知らなかった。

 でも、知ってしまったからには、もう引き返せない。


「あら、」

 ふと上を見上げて、オリヴィアは声に出して呟いた。

「カーテンが……ずいぶん汚れているのね」

 出窓に掲げられたカーテンの上部が、すっかりほこりをかぶっているのが見えた。

 気になったオリヴィアは、カーテンの裾を掴んでゆさゆさと揺らしてみる。少し、はらはらとほこりが落ちてきたが、綺麗になるのとはほど遠かった。

(…………)

 カーテンとはどうやって掃除するものなのだろう。

 最上部はオリヴィアの身長の二倍ほどの高さになっているから、当然、手を伸ばしたくらいでは届かない。メイドがハタキを使って掃除するのを見たことはあるが、あんな棒で届く高さではなかった。

 解決策を探し周囲を見回したオリヴィアは、ベッドサイドにいい感じの椅子を見つけて、パッと瞳を輝かせた。

(これに乗ればいいんだわ!)

 オリヴィアはさっそくガタガタと椅子を窓際まで引きずってきて、靴を脱ぐと椅子の上に登って手を伸ばしてみた。が、やはり届かない。小さな敗北を感じて、オリヴィアはきゅっと唇を結んだ。

 ──ま、負けない!

 オリヴィアの、不屈のリッチモンド家の血が熱く唸りだした。

 再び寝室を見回すと、もう一脚、今度はもう少し小柄な椅子が部屋の隅に置かれていた。

 オリヴィアの脳裏に閃光がきらめき、アイデアが弾けた……一つの椅子で届かなかったら、二つの椅子を重ねればいいんだわ。

 二つでも駄目なら、三つよ。三つでも駄目なら……





 エドモンドは屋敷の前で小作人を集めて、今日の仕事の指示を出しているところだった。

 中央近くの格調ある領地とちがって、田舎のノースウッドは、領地全体が大きな家族の集合体のようなものだ──エドモンドは伯爵で、若くしてこの地の領主だったが、土地の者から搾取するようなことはしなかった。

 村人にとってのエドモンドは、尊敬すべき父親のようなもので、崇めるべき支配者とは違う。

 もちろん税はあったし、領地内の決定はエドモンドが下したが、それでも比較的緩やかなほうだ。税収入はバレット家が着服することなく、全て領地内の整備に使われている。

 まあ、だからこそ、バレット家は裕福にならないのだが。

 それでもこの北果ての土地で、飢え死にする者を出したことがないのは、エドモンドの誇りだった。

 特に今年は……オリヴィアからの持参金で、肥沃なノースウッド・ヴァレーを隣の領地から買い戻すことが出来たから、例年以上に豊かな年になるはずだ。


 ノースウッド・ヴァレー。

 エドモンドの父の代に、隣の領地に盗みとられたも同然だった美しい渓谷だ。


 それもこれも、全てはバレット家の呪いのせいだった。


 エドモンドは、全ての小作人に用をいいつけると、自らも斧を手に取って歩き出した。いくつか放牧を邪魔する危険な枯れ木が見つかったので、それを切り出す予定だ。

 しかし、歩き出したエドモンドを、一人の青年の声が止めた。

「エドモンドの旦那、仕事とは関係ないんですが──」

 新しい柵をめぐらす役目をいいつかった若い小作人が、道具を肩に乗せながら、エドモンドの横を歩いて言う。

「俺たちゃ、最近、旦那の様子を心配してるんですよ。今日もまた顔色が悪いじゃねえですか」

 青年に悪気がないのは分かっていたが、エドモンドはむっつりと答えた。

「及ばない。少し疲れているだけだろう」

「だったら休んだ方がいいんじゃねえですか、旦那。一日くらい休んでも罰は当たりませんよ」

「俺も新婚のころはそんなだったさぁ!」

 遠くから、別の小作人が行儀悪く口を挟んだ。「奥さんがしつこくってね。今じゃ、俺が誘っても見向きもしないくせにさぁ!」

 すると青年は、あぁ、と納得の声を漏らした。

「そ……そういうことですか、旦那! 気が付きませんでしたよ、すみません。こりゃ世継ぎができるのも近そうだなぁ」

「…………」

 エドモンドはさらにむっつりと口を引き結び、何も答えなかった。

 斧を持つ手に、思わず力が入る。

 今朝やっと、数日振りに、オリヴィアから目を離すことに成功したというのに、運命はそう簡単にエドモンドを許してはくれないらしかった。オリヴィア、オリヴィア、オリヴィア。まるで世界が彼女で溢れているようだ。


 あの森でのハーブ狩りから数日が経ったが、オリヴィアの存在はますます強くエドモンドを捕らえて離さないままだった。

 エドモンドは出来る限りの努力をした。

 彼女を見ないよう。

 彼女を忘れるよう。

 しかし、努力は実を結ばなかった。酒をあおってみても、頭を木に打ちつけても、冷水を浴びても。オリヴィアはエドモンドの心の中をすっかり占領して、彼を誘う。

 実際のところ、オリヴィアはいつも通りだった。

 変わったのはエドモンドの方だ。

 朝、オリヴィアは微笑みながらエドモンドに挨拶をしてくる。昨夜の出来事や一日の予定を早口で話しながら、彼の様子をうかがって、必死で気を惹こうとしてくる。

 それは、妖艶に男を誘うような感じとは違い、どちらかといえば小さな子供が一生懸命親の気を惹こうとしているような無邪気さだったが……それが、よけいに彼女の清らかな魅力を際立てるのだった。


 エドモンドは彼女を受け入れたかった。

 エドモンドは彼女を妻にしたかった。本当の意味で。

 彼女を、愛したかった。

 誘惑は四方から襲ってくる。それも四六時中。


 しかし、



 しかし……?


(駄目だ、私は何をしようとしているんだ。彼女を殺すことになるかもしれないんだ──)


 それだけは耐えられない。祖母も母もモニカも失った。

 そのうえオリヴィアまで……?

(駄目だ、それだけは)

 考えるだけで吐き気が込み上げてくる。早く、早く、オリヴィアから離れなければいけない。私は何をしているんだ──。


「お、おい、ありゃあ何だ!」

 小作人の一人が素っ頓狂な声を上げたので、エドモンドはしばし我に返って顔を上げた。

「おい、おい、ありゃあマダムじゃねえのかい! 今に窓から落っこちるぞ!」

 エドモンドは目をむいて、小作人が指差している方を見た。屋敷の二階だ。朝日がガラスに反射していて、すぐには何が起こっているのか分からなかった。

 が──


「オリヴィア!!!」


 エドモンドは大声を上げた。

 自分が、これほど大きな声を出せるとは知らなかった。そのくらい大きな領主の怒声が、朝のノースウッドにこだましたのだった。

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