【7/10まで開催中】短歌・俳句コンテスト選考委員両名インタビュー③「歌会と句会」

初心者の方も気軽に「第1回カクヨム短歌・俳句コンテスト」にご参加いただくべくお届けしている、選考委員インタビュー。第三弾の今回は「歌会」「句会」について紹介します。合わせて、短歌と俳句ってどう違うの?という疑問にも答えていただいています!

本記事で紹介している内容

▼短歌の部・大森静佳さんに聞いた「歌会のしくみ」について
・歌会のおもしろさについて
・歌会に参加したいと思ったら
・「短歌ブーム」について
・短歌と俳句の違い
▼俳句の部・西村麒麟さんに聞いた「句会のしくみ」について
・句会のおもしろさについて〜高得点に名句なし?〜
・句会に参加したいと思ったら
・俳句と短歌の違い

短歌の部・大森静佳さんに聞いた「歌会のしくみ」について

  ずばり、歌会ではどんなことをやるのですか?

 私が参加している歌会は10人前後でやることが多いのですが、まず、事前に司会の人に一、二首提出します。当日配られるのは1番、2番……と番号が振られた匿名の短歌のリストです。
 歌会によってやり方が違うんですけど、投票をすることもありますね。二首か三首ほど、好きなものを選んで票を入れます。
 次に、司会が票を入れたひとに意見をきいて、票を入れなかったひとには入れなかった理由も聞いて……と議論を深めていきます。人気投票というよりは、ゲーム的な側面もあって、リズムよく進めるために、意見を言いたい歌にあらかじめ票を入れておく、くらいの認識です。

 自分の歌が批評されている時は、作者は黙って聞いているだけで、意見は言わないんですね。作者が自分の意図をいうことはタブーとされていて、ぜんぶが終わったあとに、一番は○○さん、と司会が作者名を発表していきます。

  歌会のおもしろさについて、教えてください。

 歌会は、純粋に短歌そのものと向き合える楽しみがあります。いろんな短歌歴のひとの作った歌を、作者の解説も一切なしに、テキストに添って読んでいく。しかも内容だけではなく、「ここにこの助詞を置いたのはこういう意図じゃないか」というような読み方をするんですね。

  助詞一つに至るまで、議論があるのですね。

 「わたしは」と「わたしが」は、一文字の違いですが、短歌では、些細な助詞や形容詞の使い方、語順が、全体のニュアンスを変えるんですよね。どうしてこれはこう書かれているのか、こう書いた方がいいんじゃないか、「何を書くか」ではなく「どう書くか」をひたすら語り合っていくストイックな時間です。
 自分自身の意識や、作者の存在が消えているような感じで、表現についてあれこれ言っていきます。歌集を読む時とは全然違うおもしろさですね。歌集を読む時は作者がわかっていて、過去の歌を引き連れて読んでいるんですけど、歌会はその一首だけと向き合う。人を読んでいるのではなくて、言葉を読んでいるすがすがしさがあります。その時間が、ゲームとして面白いんですね。短歌の話をすることで、家に帰って、「もうちょっと短歌頑張ろう」というモチベーションにもなります。

  読んでの感想の共有というより、真剣に創作に向き合う、濃密な時間なんですね。

 もちろん、感想や、自分の経験と照らし合わせてのコメントも言うのですが、短歌の表現そのものを深く掘り下げていくことが主旨にはなりますね。

  それでは、歌会に参加したいと思ったら、どうすれば良いのでしょうか。

 歌会自体は全国各地、インターネット上で日々開かれています。既に出来ているグループに一人で入っていくのにはハードルを感じるかとは思いますが、短歌をやっていて、歌会に参加したい、という気持ちがあれば、みんな仲良くしてくれると思うので、恐れずに踏み込んでもらえればと思います。 「塔」「未来」といった、「短歌結社」と呼ばれる短歌の雑誌がいくつも出ていて、各結社では、各地で歌会が開かれているので、見学に行ったり、参加もできます。結社のホームページ経由で、歌会をまとめている方に繋いでもらうのが良いと思いますね。
 それから、オンライン、Zoom等で自由参加で開催されている歌会もあります。これは、Twitterで短歌をやっているひとのアカウントをフォローしていくと、次第にその情報が流れてくるようになります(笑)。SNSで情報収集する、ということですかね。

  インターネット上で短歌が行き交うようになってから、短歌のあり方も変わってきているように思います。昨今の「短歌ブーム」の現象を、どうご覧になっていますか。

 インターネットを媒介とした短歌というのは、今回の短歌ブームより数十年前から存在していて、たとえば「夜はぷちぷちケータイ短歌」というラジオがあったりもしました。とはいえ、短歌総合誌を中心とした従来的な歌壇とネット短歌は、当時は全く別個の存在として受け止められていたように思います。そこから、歌人たちがTwitter上に当たり前のようにいて、フォロワーと短歌の話で盛り上がっているのも日常的、という状況になって、歌壇とネット短歌の境目がなくなってきたな、もっと混沌としているな、という印象は少しずつ受けています。
 短歌そのものというより、歌集の流通のしかたが変わったとは思います。駅の小さい本屋さんでも短歌フェアをやっていたり、歌集を置いている本屋も増えて、短歌をはじめる敷居は低くなっているし、そこにTwitterの果たしている役割も大きいと思います。
 わたしは大学で短歌を教えているんですけど、「短歌を作ったことはないけど、Twitterのタイムラインで流れてくる短歌を眺めるのは好き」という学生さんは多いんですよね。そんな距離感なんだな、と興味深くみています。

  「短歌がバズる」というのもすごいですよね。短歌にはTwitterと相性が良い性質があるのでしょうか。

 Twitter140字ぎっしり書いてあるものより、短歌一首の方が確実にインパクトがあるので、バズりやすいのかなとは思いますね。

  全体として、短歌の広がり方が変わって敷居が低くなった、ということなのでしょうか。

 そうだと思いますね。ただ、これまで孤独に歌を作っていたところが、「バズり」や、歌集が本屋さんに置かれたりで、「どこに向かって短歌を書くか」という歌人側の意識も少し揺さぶられているかもしれません。
 SNSで短歌の世界が開かれたぶん、これまで疑ってこなかった歌集を謹呈しあう文化や、「短歌年鑑」に歌人全員の住所が載せる慣習など、内々で閉鎖的にやってきたことが再検討されつつありますね。

  今回、カクヨムでコンテストを開催して、応募中の作品がいろんなひとの目に触れるわけですが、その中でも「短歌の広がり」が生まれそうですね。

 ハガキに一首書きつけて郵便でポストに出して、選者のところに段ボール箱でどさっと届いて、選者だけが読む、といった従来の短歌コンテストとは大分違いますよね。
 もちろん自分の歌がどう読まれるかは気になるところですが、他のひとの歌を読んで感想を伝えて、コメントしていくこと自体も短歌の面白さの一部だと思います。感想を言うことで、その一首が完成する、というか。

  俳句の部も募集がありますが、短歌と俳句の違いは、どのようなところにあるとお考えですか。

わたしはほぼ俳句は作ったことがないのですが、よく言われるのは「俳句は静止画で、短歌は動画である」ということですね。俳句では、ある一つの場面をどういう風に切り取るかが面白さだと思うんですけど、名詞の比重が高い印象があります。一方で、短歌の場合は名詞よりも動詞がキーになってくるんですね。名詞の面白さだけだと短歌には限界があって、名詞にどういう動詞、形容動詞を加えればいいのか、組み合わせの新しさを見つけ出す必要があるんです。

  なるほど……ありがとうございます。短歌と俳句の違いについては、西村さんにもぜひ、お伺いしてみようと思います!

俳句の部・西村麒麟さんに聞いた「句会のしくみ」について

  ずばり、句会ではどんなことをやるのですか?

 まずは自由帳を切ったり、裏紙をチョキチョキ切って、細長い紙を作ります。「短冊」と言いますが、これに自分の俳句を書いてきて会場で提出するんですね。
 次に、それをシャッフルして、誰の筆跡かわからないように、当番の人が清書します(=「清記」)。「先生の句だから採らなきゃ」みたいなことがないように工夫をしているんです。
 一覧になった俳句をみて、今度は自分が良いと思った句を選びます。(=「選句」)
 選び終えたら、参加者が順番に自分の選句を読み上げていきます。ここで、自分の句が読み上げられた人は、名乗りを上げます。最後に先生の選が明かされて、票が入った句について、句評をします。

 俳句は接待要素が非常に低いんですね。指導者も、今日初めて来たひとも、おんなじ立ち位置で、忖度なしに勝負をする。その平等性が楽しいんですね。社会人になると、損得を抜きにした付き合いって少ないと思うんですが、俳句の世界では、年齢や性別といった属性にとらわれない友人ができる。70、80才になってからでも20代の友人を自然につくれるのが句会のいいところですね。僕の会も80代の人も、20代の人とお酒飲んだりとかします。端から見ると不思議な集団に見えると思いますが、俳句をやっていてよかったな、といちばん感じる部分ですね。

  句会でも俳句の上手い下手はあるかなと思うんですけど、票はバラけるものなのでしょうか。

 けっこうバラけますね。ちなみに、半分ホントで半分怪しい話なんですけど、「高得点に名句なし」というのはよく言われています。みんなが選ぶ、点数がたくさん入った句は、先生は選ばないことが多い。
 高得点句には、要因が二つありえて、一つは「上手だから点がが入った」もう一つは、「共感される要素が多かっただけ」なんですよ。  高齢者しかいない句会に行くと、孫の句が飛び交ったり、誰か友人が亡くなったとか、どっか身体が痛い、といった句に点が入る。あとは犬猫とかも、可愛いから点が入るんですね(笑)。先生はそれだけで選ぶわけではないので。作るのと同時に選ぶ力、「選句力」が試される。この作業が非常に大事で。アマチュアとプロ俳人との差があるとしたら、作る力量の差よりも選ぶ力の差だと思っています。

 俳句って十七文字しかないので、今日始めたひとが奇跡の一句を作って、ぼくより上手に作る可能性はあっても、選ぶ方では、初心者はぼくと同じようには選べない。知識もやっぱり要るんです。たとえば、春先になると必ずおたまじゃくしを覗いているこどもの句が出てくるんですけど、それを見て、「これは見たことがある」って即座に判断できるのが、経験を積んだ俳人で、「新しい、斬新だ!」と思ってしまうのが初心者ですね。おたまじゃくしを音符に例えると、ほぼほぼプロ俳人は採らない。
 指導者の句に点が入らないことも多いです。カルチャー教室だとぼくの句にはあんまり点が入らないですね。それはぼくが悪いのかどうか、まあ、傷つくは傷つくんですけど……(笑)。傷つくのも楽しんでいる。指導者であるぼくが、必ず毎日点をかっさらって帰るわけではないところが楽しい。負ける要素がないゲームは面白みに欠けますが、句会では指導者も一緒になって楽しめますね。

  句会に参加したいと思ったら、どうすれば良いのでしょうか。

全員経験者なら3人いれば句会は成り立つのですが、初めての場合は指導者がいたほうが良いですね。そうなると、カルチャー教室か、結社の二択になるんですが、カルチャー教室は場所や時間、先生を選べて、合う合わないで向かないようなら辞めやすいので、まずはこういうところで入門してから、「この先生は」と思うひとに師事すれば良いと思います。

  西村さんの場合は、結社にはどのように入られたのでしょうか?

ぼくは長谷川櫂先生の「古志」という結社に所属しているんですが、いきなり行きました(笑)。高知の大学で、文学友達がいなくて、一人で決めるしかなかったんです。俳句の雑誌が新聞みたいなもので、情報が他になかったんですね。個人的に20年は師事しないと上手くならないんじゃないかな、と思っていたので、若い先生の結社をピックアップしたら、当時は「古志」か小澤實さんの「澤」がそういう意味では魅力的でした。個人的に、厳しいところにいくと上手くなれるんじゃないかという期待感があったので、厳しそうな「古志」を選びました。

  若い先生の方が、感覚が若々しい、みたいなこともあるんでしょうか。

 それは全く関係ないですね。俳句では80歳、90歳でものすごく自在なひともいます。

  インターネットの登場による、俳人同士の交流や、俳句の性質そのものの変化については、どのように見ていらっしゃいますか?

 良い部分としては、今まで以上に、どこに住んでいようが関係なくなったことですね。プロ俳人(雑誌に原稿を載せるようなひとたち)だけではなく、今日はじめたひとでも、インターネット上に作品を発表でき、全く顔も知らないひとからもいいねやコメントをもらえて、やりがいに繋がるのはすごく良いことだと思います。知らないひとから言われると、忖度じゃない感じがしてうれしいですよね。
 一方、俳句として物足りないのは、地域性が薄れてきていることですね。関西に行くと関西らしい俳句があったりだとか、見ている土地や気候ならではの俳句があるはずなんですね。風土の違いも大事にしつつ、いろんな地域の人と楽しく俳句ができればいいな、と思います。
 また、インターネットと同時に、対面の臨場感の大切さにも気づけるんじゃないかと。画面上の便利さと、会った時の楽しみ、どちらも活用して行けたらと思います。

  短歌と俳句の違いは、どのようなところにあるとお考えですか。

 短歌と俳句は兄弟のように並べられていますが、下の句、七七のあるなし以上の違いがあると思いますね。俳句とはまったく違うもの、という感じがするけど、世間の人は文字数がちょっと長い、同じようなものだと思っているんですよね。作り方が全然違うと思うんですが。

  575におさめていく内容は、短歌と全く違いますか。

「私がとても嬉しいと思っている、悲しんでいる」というような、内面を詠むには、短歌のほうが向いているところがあると思いますね。現代の若者の孤独、といったテーマもほとんど短歌のほうかと。俳句でも、詠めるは詠めるんですけど、季語があって、「や」「かな」「けり」とかで、使える文字数があと七文字となると、複雑な内面のテーマはなかなか詠めない。

  内面というより、外のものを見つめていくのが俳句、ということでしょうか。

 そうですね。あと、俳句では「余白が大事」と言われています。余白のない俳句は、自己紹介で自分のことばかり息継ぎもせずに喋り倒すひと、みたいな、キャッチボールができない印象を受けますね。恐ろしいことに、俳句は面白くしようとすればするほど面白くなくなってしまう。逆に、何にも言わないことで、読み手が余白を読み取ってくれるんです。


カクヨム運営スタッフが俳句に初挑戦! 西村さんの主宰する「麒麟俳句会」へ、実際に潜入して参りました。次回、「句会潜入レポート」をお届けしますので、お楽しみにお待ちください。

また、本コンテストでは、短歌・俳句を作ることと同時に、応募された作品を読むことも楽しんでいただければと思っております。本コンテストをきっかけにカクヨムにいらした方も、以下を参考に、カクヨムでの「ヨム」活動に励んでいただけましたらさいわいです。 kakuyomu.jp
▶️インタビュー第一弾「短歌のススメ」はこちら
▶️インタビュー第二弾「俳句のススメ」はこちら

* 「第1回カクヨム短歌・俳句コンテスト」の応募要項

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