あの作品に触れて小説家になれないと思った――田原総一朗インタビュー第1回

2022年4月15日に米寿を迎える田原総一朗。メディア業界の様々なタブーに挑戦してきたジャーナリストである田原総一朗は、実はもともと小説家になりたいという夢を持っていた。田原総一朗というキャラクターをより深く知ってもらうため、88年の歩みを振り返る全3回のインタビュー。第1回はなぜジャーナリストを目指そうと思ったのか、生い立ちから大学卒業までの話を聞きました。

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小説家を諦めさせた二人の天才

――田原さんといえば『朝まで生テレビ!』や『激論!クロスファイア』での弁舌鋭い司会者・ジャーナリストの印象が強いですが、1934年生まれですから、戦中から戦後にかけての「テレビ」が無かった頃に子ども時代を過ごされていますよね(日本の本格的なテレビ放送は1953年からスタート)。当時はどんな子どもでしたか?

田原:僕は滋賀県彦根市の出身で、「三方よし」(「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」)で知られる近江商人の息子に生まれた。実家は製紐、つまり紐づくりを営んでいた。

 子どもの頃は絵を描くのが好きで、買ってもらった絵本やマンガのストーリーを題材に自分でも絵を描いた。忠臣蔵を、松の廊下の刃傷事件から吉良邸への討ち入りまで、連続の絵物語にした時は通っていた幼稚園の教諭に褒められたが、ヤクザものの清水の次郎長を題材に描いた時は呆れられたことを覚えている。

――今でいう「二次創作」ですね。

 小学生でも絵が得意で市や県のコンクールなどで賞を取っていたから、その頃は将来は画家になりたいとも考えていた。

 中学生の頃には小説も書き始めた。小説は高校に入ってから熱中して、「文学会」というサークルを結成した。部室に集まっては文学論議を戦わせ、自分たちの同人雑誌を出したりもした。絵のほうは、高校の美術部に入ってきた後輩が抜群に巧く、彼の作品を見て挫折してしまった。それで「自分には小説しかない」と思うようになった。

――彦根で生まれ育った田原さんですが、早稲田大学に進学されています。これは何が理由だったんですか?

田原:まず、僕は早稲田を卒業したのは一度だが、実は入学は2回している。一度目は二文(第二文学部)、つまり夜間部の国文学科に入学したんだが、3年生の終わりに第一文学部の、同じ国文学科を受け直し、卒業はこちらで卒業している。

 なぜ2回も早稲田に入学したかというと、それぞれ目的が違ったんだね。

 まず、最初に早稲田を目指したのは、僕が好きだったのは石川達三や丹羽文雄といった早稲田出身の作家だったから。文学をやるなら早稲田でやりたかったんだ。でも母は家に近い国公立大学を望んでいたから猛反対に遭った。夜間部に行った理由のひとつはそれで、学費・生活費を自分で稼がないといけなかった。

 昼間は当時国鉄の関連会社で丸ビルにあった日本交通公社(現在のJTBの母体)で働き、夜は大学で学ぶ……ということになっていたが、二文の一限目は午後5時から始まるのに対して、交通公社の終業は午後6時で、仕事が順調に行っても当然一限に間に合わないし、残業があると授業全部に間に合わない。

――今なら大手町から東西線一本でアクセスできますが、当時は仕事終わりに通うのは難しいですね。

田原:二文にまともに通ったのは、入学してはじめの一週間だけ。でも元々作家になるために早稲田の同人誌に加わりたくて便宜上入っただけだから、初めから真面目に授業に出るつもりは毛頭なかった。

――サークル活動に熱中して授業に全然出てこない大学生の話は今でもよく聞きますが、田原さんもそうだったんですね。

田原:昼間は仕事をしているから、執筆をするのは休日の深夜だった。同人誌は3つくらい掛け持ちしていたけれど、不思議とどれも名前は覚えていない。早稲田の同人誌と言えば『早稲田文学』が有名だけれども、僕にはレベルが高すぎて加わろうという気すら起きなかった。

――小説家になるために早稲田に入ったんですよね。「僕にはレベルが高すぎる」って、大丈夫ですか?

田原:全然大丈夫じゃなかった。二文在学中は20作くらい作品を書いたけれど、箸にも棒にもかからなかった。先輩からも「君のような文才のない人間が一生懸命やっても、それは努力ではなくただの徒労だ」と言われる有り様だった。

 そんな時、小さな本屋ですごい作品に出合った。先日亡くなった石原慎太郎の『太陽の季節』だ。当時の僕は恋愛経験が無いので、流行作家の作品を写経のように書き写していただけだったけれど、石原慎太郎は実話に基づいて生々しく、今を書いている。すさまじいリアリティで当時僕や僕に近しい人間が持っていた価値観を根底から破壊した。その場で一気に読んでしまって、「これは敵わない」と思った。同じ頃に読んだ大江健三郎の『死者の奢り』にも、当時としては斬新な文体で衝撃を受けた。石原慎太郎は2歳上、大江健三郎は僕の1歳下。 

 この同世代の2人の作品が決定打になって、作家になろうという夢は挫折した。今のようにインターネットで作品を公開して、誰かが応援してくれれば違ったかもしれないけどね。

 だから当時は、自分の原稿が活字になる日が来るとは夢にも思わなかった。

――小説家の夢を諦めた田原さんですが、交通公社を退社し、早稲田の今度は一文に入り直します。これは何が理由だったんですか。

田原:はっきり言って僕は交通公社ではダメ社員だった。新米の頃は寝台車などの切符を売っていたが、知らない路線や駅が多くあるので先輩に訊くとバカにされる。それで嫌になってついには出社拒否になってしまった。

 失敗が続いたことで、切符売り場から定期券売り場に回されたんだが、苦学生だった私を見かねて、書き損じた定期券を係の社員が融通してくれたら、それが上司にバレてこっぴどく叱られ、そのせいか今度は駅の案内や旅館の手配をする案内所に異動になった。

 案内所にはよく旅館の人が菓子折を持って売り込みに来るんだが、ある時菓子折と一緒にお金の入った封筒を強引に渡されたことがあって、上司に「こんなものもらいました」と正直に報告したら、大目玉を喰らった。僕が政治家に取材するようになってから政治家などから金を受け取ったことは一度もないが、この時の体験も大きいかもしれない。

 こんな風にとにかく交通公社では失敗続きだったんだが、目指していた作家も断念して、「さて、どうしようか」となった時に頭に思い浮かんだのが、ジャーナリストだった。それには新聞社かテレビ局に入らないといけないから、当然大学を出ないといけない。というわけでもう一度、今度は早稲田の一文に入り直した。

 今回は学費を工面するためにいろいろなバイトをした。業界紙の配達のバイトをやったことがあったが、後に作家の五木寛之と対談した時、彼が僕の前任者だったことも知った。家庭教師のバイトが当たり、生徒が増えたので塾を始めて、この頃は結構懐が暖かった。

戦争の原体験でジャーナリストの道へ

――なぜジャーナリストを志したんでしょうか。

田原:文章を仕事にしたかったというのももちろんあったが、それ以上に僕は戦前の生まれで、国や偉い人たちを信用したらいけないという原体験があった。

――詳しく聞かせてください。

 子どもの頃の僕は軍国少年で、海軍に入ることが夢だった。小学校では「今度の戦争はアジアの国を解放・独立させるための聖戦である。君らは大東亜戦争に参加して、アジアの捨て石になれ。君らの寿命は20歳だと思え」と、繰り返し教えられて、僕も小学生のくせに「いかに華々しく死ぬか」ばかり考えていた。

 小学5年生になると、僕の住んでいた彦根も空襲を受けた。家の前を多くの死者や負傷者が運ばれていったけれど、死ぬことの恐怖は全く無かった。小学5年生の僕がそれなのだから、本当に凄まじい時代で、完全に国家にマインドコントロールされていたんだと思う。

 そんな軍国少年だったから、1945年8月15日に敗戦の告知を聞いた時には、「これで海兵にも行けなくなった。お先真っ暗だ」と絶望した。

 でも同じ日の晩、家の二階の窓から外を見ると、前の晩まで灯火管制が布かれていた故郷・彦根の市街に、煌々と明かりが灯っている。それを見たら昼間の絶望感などすっかり忘れて、「ああ、戦争は終わったんだ。もう死ななくていいんだ」と解放感に浸った。

 夏休みが終わって敗戦後初めて小学校に行くと、教師たちは「この戦争は日本の侵略戦争で、悪い戦争だった。君らは今後、戦争が起きそうになったら身体を張って阻止しなさい」と私たちに説くんだ。戦争中と言っていることが真逆なわけだね。それでいて「自分たちも間違ったことを教えてきた。申し訳ない」の一言も無かったのだから、「こいつら何言ってるんだ。ちょっとおかしいんじゃないか」と。

 1学期までは英雄だった東条英機に対しても教師は悪口を言っている。偉い人の意見が180度変わった経験をしたんで、偉い人の意見は一切信用できないと思うようになった。 f:id:kadokawa-toko:20220223220245j:plain

――世界の見え方が一変する壮絶な体験をされたんですね。

 ただ、別に国が信用できなくてマスコミだから信用できるという話でもない。テレビのディレクターだった1965年、ソ連や北朝鮮がまだ言論表現の自由があり、階級制度もない素晴らしい国だと信じられていた時代にソ連に飛んでモスクワ大学の学生と討論をしたことがある。フルシチョフが失脚したので、学生たちにその理由はなんだと思うかと聞いた。しかし、学生たちは真っ青な顔をして黙ったまま。結局討論は打ち切られた。実際には言論表現の自由がまったくなく、階級制度は米国や英国と比べてさらに厳しい国と分かった。がっくりきた。それで、共産主義・社会主義に対する幻想が一気に無くなった。当時のマスコミの常識は社会主義・共産主義が素晴らしいというものだったけど、嘘ばっかりじゃないか、と。

「北朝鮮こそが地上の楽園であり、韓国は地上の地獄だ」と報じられていた1970年代に、韓国に飛んで韓国が経済成長しているさまを書いたらそれで大糾弾を食らったこともある。

 だから、自分の目で見て、自分で直接人と会って話を聞くことを大事にしている。

――人の話をうのみにせず、自分で見たことを元に、質問を重ねていくのがジャーナリストだと。

田原:思えば中学生の時も、教師に反抗して面白がる「ワル」だった。割に勉強はできたのだが決して「模範的な優等生」ではなく、教師の指導方法が書いてある「虎の巻」を手に入れて、虎の巻に載っていない意地悪な質問をしたり、試験の時にもわざと虎の巻に載っていない正しい回答をして、×をつけた教師をやり込める人間だった。今思えば『朝まで生テレビ!』でやっている司会役の原型かもしれないね。

――「勉強不足なんだよ!」と教師を一喝する田原さんの姿、容易に想像できます。

田原:論戦を挑むわけだから、当然こちらも負ける可能性はある。だが、そのリスクやスリルがあるからこそ論戦は面白い。三つ子の魂百までというけど、今は教師ではなく、テレビで政治家に討論を挑んでいるわけで、噛みつき癖は当時から変わっていないのかもしれない。

(第2回へ続く)

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