目の黒いうちは体を張って言論の自由を守る――田原総一朗インタビュー第3回

有名テレビディレクターという立場を捨て、フリーのジャーナリストとなったのが43歳。以来40年以上にわたりフリーランスとして現場の最前線に立ち続けている田原総一朗が今思うこととは。田原総一朗というキャラクターをより深く知ってもらうため、88年の歩みを振り返る全3回のインタビュー、最終回です。 f:id:kadokawa-toko:20220223215211j:plain

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相手の懐に飛び込んで取材したうえで批判する

――テレビ局時代から雑誌に寄稿をされていたんですね。

田原:はじめはちょっとした記事だったが、東京12チャンネルで仕事を干されたのを機に時間が有り余るようになったので、本格的に取材したノンフィクションを書いてみようと思い立った。

 そうして書いた連載が、後に単行本化され10万部を超えるベストセラーになった『原子力戦争』だ。現在でもそうだが、原発に批判的な番組を作る際の常道は、原発を批判する側の人たちを中心に取材する。しかし『原子力戦争』では、原子力推進派の内部深くに立ち入って取材し、そのうえで批判的な記事を書いた。

――相手の懐に飛び込んで取材するのは、テレビディレクターとしても十八番でしたよね。

田原:『原子力戦争』の中で、反原発の住民運動に対抗する広報活動を電通が仕切っていたことを暴露した。そのせいで東京12チャンネルに電通から「こんな記事を書くディレクターのいるテレビ局のスポンサーはやらない」と圧力がかかった。会社から「連載をやめるか、会社を辞めるかだ」と通告され、ついに僕は東京12チャンネルを辞める決心をした。だがその後すぐに電通に直接取材を申し入れて『電通』という本も書いている。別に電通が嫌いだというわけではない。同じように在籍中はよく問題を起こしていたが、それでも好き勝手なことをやらせてくれた東京12チャンネルには感謝している。

――こうして田原さんはフリーのジャーナリストとして活躍することになったんですね。

田原:『原子力戦争』と並んで、ジャーナリストとしての僕の出世作になったのが、『中央公論』に書いた「アメリカの尾を踏んだ田中角栄」だ。首相だった田中角栄の失脚に関して、田中のエネルギー政策がアメリカのオイルメジャーの逆鱗に触れたことを追ったルポルタージュだったが、田中は当時日本一の悪者だったから「なんで今頃田中の味方をするんだ」と周りからの評判は散々だった。

 ところが見ている人はいるもので、作家の丸谷才一などはこの記事を褒めてくれたし、この記事をきっかけに『文藝春秋』などの大御所雑誌からも依頼が来るようになった。

世間から叩かれたことがある人が好き

――当時日本中から叩かれていた田中角栄に対して、世間の風評から離れて改めて向き合おうとしたと。

田原:田中だけでなく、僕は基本的にやられている側の人間が好きなんだね。たとえば堀江貴文や小沢一郎、鈴木宗男、猪瀬直樹といった世間から叩かれたことがある人は特に応援している。あるいは僕を批判する人たちのことも好きだ。一時期僕のことを散々叩いていた佐高信とも本を出している。

 政治家や言論人に対して批判はするが、フェイストゥフェイスで会って話を聞いたら根本から嫌いにはなれない。

 田中の話に戻すと、どうやら田中本人が「アメリカの尾を踏んだ田中角栄」を読んで僕のことに興味を持ってくれたらしく、単独インタビューをすることができた。インタビューは目白の田中邸で行われ、5時間にも及んだ。田中は興奮すると新潟弁になり、ウイスキーを飲みながら何度もタオルで顔の汗を拭っていたことが印象に残っている。

――田中角栄に単独インタビューするなんて、圧倒されてしまいそうです。

田原:本当に困惑したのはインタビューが終わった後だった。田中から封筒を差し出されたが、もちろん中身は金だと一目でわかった。厚さからして100万円はあったろう。これには参った。断れば田中の逆鱗に触れ、今後田中派の政治家には取材ができなくなる。かと言って受け取ればジャーナリスト生命はそこで終わり。

 結局、一旦封筒を受け取って、その足で麹町の田中事務所に行き、田中の秘書に「私が寄付した形でもよいから受け取ってくれ」と言って返した。

 おかげでその後、他の政治家から金を差し出された時には「田中さんの金を受け取らないであなたの金を受け取るのは、田中さんに申し訳ない」と断りやすくなった。

 のちに野中広務が「官房長官時代、金を受け取らなかったジャーナリストは田原さんだけだった」と言ってくれた。当時はメディアの政治部と政治家がずぶずぶの時代だった。

罪悪感があっても不倫はやめられなかった

――ジャーナリストの矜持を守り、かつ田中角栄の面子を潰さずに済む咄嗟の機転でしたね。

田原:ところが会社を辞めてから1年ほど経ったある朝、目を覚まして新聞を読もうとすると、記事も見出しも読めなくなってしまった。たとえば「行政手続き」という言葉があった時、「ぎょう」や「せい」と読むことはできても、「行政手続き」というフレーズが理解できない。当時『文藝春秋』や『月刊現代』などの連載を毎日朝までかけて書いていたから真っ青になった。

――いわゆる「失読症」になったと。

田原:そこで、チームを組んでいた高野孟や村上節子に、僕が口述した内容を代筆してもらい当座を凌いだ。

 言葉の意味をとることができない状態はその後2ヶ月ほど続き、もう取材のストックも尽きかけていた。これ以上続いたら文筆業を廃業せざるを得なかったが、そのころにはなんとか文が読めるところまで回復し、それからしばらくして原稿もまともに書けるようになった。

 当時1か月に10万字近い文字を書いていたからおそらく疲労が原因だったんだと思う。

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フリーランス直後の仕事部屋

――テレビディレクター時代からの激務が祟ったんですね。ところで先ほど名前が出た村上節子さんは、後の二番目の奥様ですよね。

田原:節子とは東京12チャンネルに勤めていた頃から、今でいう「ダブル不倫」の関係にあった。彼女は元々日本テレビのアナウンサーで、僕が岩波映画時代にアルバイトで日本テレビの『奥さまこんにちは』という番組の構成を担当し、彼女がキャスターだったことが出会いのきっかけだ。

 何でもズバズバ言うしっかりした女性の印象で、彼女のほうも僕が「人間とは何か」みたいな哲学的なことを好んで話すのに興味を持っていた。

 僕が東京12チャンネルに勤めるようになってから共通の知人をきっかけに再会し、それからはちょくちょく喫茶店で会って話をするようになった。それはお互いの生き方を確かめるための論争で、僕は初めて、自分をぶつけられる人間、理解してくれる人間に巡り合った気がした。

 男女の関係になってからも逢瀬を繰り返した。「その日一日、一緒にいて心と体が触れ合えれば、それでいい」と開き直っていた。ホテルを転々とするのが面倒くさいから、千代田区麹町に二人の隠れ家を借りた。仕事の原稿を書くのも、打ち合わせをするのもこの隠れ家でやっていたんだね。

 後にわかったことだが、僕が新左翼系の人間と仲がよかったからか、当時公安の刑事に尾行されていて、この隠れ家の中まで入って写真を撮られていたらしい。当の刑事が、退職する際に僕を訪ねてきて教えてくれた。

――節子さんとの関係は、当時ご家族はご存じだったんですか。

 知っていた。もちろん当時の妻の末子にはすごい罪悪感があったし、節子にも夫と娘がいた。

 何度もやめようと思った。でも、やめられなかった。「破滅してもいい」と思う対象を見つけてしまった。

 僕が東京12チャンネルに在職中に妻の末子が乳がんになり、彼女はその後9年間闘病し、54歳で亡くなった。僕と節子の関係を知っていながら怒らず、最後まで妻の役割、そして母親の役割を全うしてくれた。

 それから5年後、すでに夫と離婚していた節子は、不安定な僕の体調を慮る意味もあって僕からのプロポーズを受け入れてくれた。彼女は体調が悪化した僕の面倒を看護師のように看てくれ、また原稿のチェックや番組のダメ出しをしてくれる仕事上のパートナーでもあった。

 1998年に節子の乳がんが見つかった。2000年に再発し、しだいに悪化してついには歩けなくなった。2004年、僕が北朝鮮に取材に行っていた間に節子は亡くなった。彼女は、自分が長くないことをわかっていて、なお北朝鮮への取材にも「行け」と指示した。彼女は最後までジャーナリストだった。

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プロポーズがかなって添い始めた頃

面白い番組づくりのコツは、事前の準備を本番でぶち壊すこと

――現在田原さんの姿を見る機会は、なんと言っても『朝まで生テレビ!』と『激論!クロスファイア』です。この二つの番組はどうやって始まったんですか。

田原:『朝まで生テレビ!』は、当時のテレビ朝日の編成局長から「深夜の番組を作りたいので、アイデアを出してほしい。徹夜の番組がいい」と相談されたことから生まれた。

 その中で僕はいくつかの提案をした。「文化人を使う」こと。予算が無いので、ギャラの高いタレントは使えないからだ。そして、話題性のある内容を扱うこと。ここから、細切れの話題を集めて作る昼間のワイドショーとは逆に、その問題に人生をかけてきた人間が集まって本音むき出しのディスカッションが夜通し繰り広げられる、「朝生」のスタイルが生まれた。

――『朝まで生テレビ!』は、深夜帯の制約から生まれた番組だったんですね。

田原:僕はそもそも「朝生」の企画者であって、番組にはパネリストとしてときどき出演すればいいと思っていた。だから、第一回は「トゥナイト」という番組の司会者だった利根川裕などがリレーで司会をしたし、第二回は筑紫哲也と僕が二人で司会をした。

 そのうちに「やはり決まった司会役がいたほうがいい」という話になり、「言い出しっぺのお前がやれ」ということで僕が司会をすることになった。

 それまで司会なんてやったことは無かったし、実のところ、今でも自分を司会者だとは思っていない。以前は裏方のディレクターとして番組を作っていたけれど、「朝生」では表に出て番組を面白くするディレクター役をやっているつもりでいる。

 最近の「朝生」はリモートでやることも多い。コロナ禍で仕方がないが、議論は手が出るような、相手から殴られる可能性がある範囲でやっているからこそ、緊迫感が生まれるとも思っている。

――至近距離で向かい合うことで議論に迫力が生まれると。

田原:もうひとつの司会番組、BS朝日の『激論!クロスファイア』。この番組の前にはテレビ朝日で『サンデープロジェクト』という番組をやっていた。もともとは「日曜日午前のワイドショー」というコンセプトの番組で、政治討論がメインの番組になるとは企画当初は僕もイメージしていなかった。

 面白い番組づくりのコツは、事前に話し合った構成を本番で全部ぶち壊すこと。

 たとえば、出演する政治家が構成案を見て「ここにはあまり突っ込まないでくれ」と言ってきた場合、「わかった。わかった」と聞いたふりをして、本番では突っ込む。

 相手の立場をよくわかった上で突っ込めば番組が面白くなるし、相手から文句を言われることもまずない。

表現の自由こそが戦後民主主義の基盤

――田原さんは平成の時代、ジャーナリズムを通じて政治に多大な影響を与えました。

田原:実はそれには反省もある。僕はテレビを通じて3人の総理大臣の失脚に一役買っている。

 一人目は海部俊樹だ。当時の自民党の最大派閥・経世会の操り人形みたいな人物が総理大臣でいることをとんでもないと思ったんで、他の派閥に属していた加藤紘一、山崎拓そして小泉純一郎の通称「YKK」を説得し、「サンプロ」に出てもらった。彼らが番組で海部首相の再選に反対したことが波紋を呼び、海部首相の退陣につながった。

 二人目の宮澤喜一の時は、「総理と語る」というテレビ番組がきっかけになった。インタビュー前、宮澤首相からは「今問題になっている政治改革の話は無理です。私が今言えば、ぶち壊しになってしまう」と話があったが、僕は「宮澤さんがイヤだと言っても聞きますよ」と食い下がった。インタビューが始まると、宮澤首相は「政治改革は私が責任をもってやる」と発言した。これが大きく報道され大騒ぎになり、自民党が「やらない」という結論を出したことが、宮澤内閣不信任案可決とそれに続く非自民連立政権発足の引き金になった。

――宮澤首相の退陣と細川内閣の成立はすでに現代史上の事件のひとつですが、そこでも田原さんが大きな役割を担ったんですね。

 三人目の橋本龍太郎首相は、1996年の参院選を前に「サンプロ」の党首討論に生中継で参加した。この時僕は、橋本首相が打ち出していた「恒久的な税制改革」が「恒久減税」なのかを問いただした。何度聞いても「私は税制改革をやると言っている」と繰り返す橋本首相に、僕は「国民は首相が恒久減税をやるのか、やらないのか、はっきりした答えを期待している」と重ねて問いかけると、首相は同じ言葉を繰り返し、絶句してしまった。

 汗まみれで、目が上に行ったり下に行ったりしている橋本首相のアップが映り続けたこの放送が反響を呼び、自民党は選挙で惨敗。敗北の責任を取って橋本内閣は退陣した。

――報道が持つ力の強大さ、恐ろしさを感じます。

田原:橋本首相が退陣したことで、僕は「こんなこと、やっていていいのか」と悩んだ。僕は権力を過大評価していた。それまで、権力は真っ向から批判すれば何か別のアイデアを出してくるものだと思っていたが、実際には首相が失脚してしまう。

 「こんなことをやっても政治が迷走するばかりで、この国は変わらない」と思い悩み、これが転換点になって僕は自分の生き方を修正し、権力をただ批判するのではなく、こちらからも対案を出すようになった。後に小泉純一郎や安倍晋三、菅義偉が首相になった際には、メディアを通して批判するだけでなく、本人たちに会って間違っていると思うことは間違っているというし、その際にやるべきだと思うことも伝えている。これは別に与党の政治家に限らない。野党が強くないと国はよくならない。野党の議員にも魅力的な経済成長のプランがないと国民がついてこないと常々言っている。

――88歳を迎えた今も生きる目的は「この国をよくする」ことだと。

田原:幸いこの年では割に元気なほうだが、耳が非常に遠くなった。80代になってすぐ、同じく難聴持ちであるジャーナリストの鳥越俊太郎に補聴器を勧められたときは先延ばしにしていたが、いよいよということで3年前からつけている。補聴器のおかげでずいぶん楽になったが、それでもやはり耳からの情報は以前と同じようにはいかない。講演会なんかでは遠くの方の質問を聞き取ることができないこともままある。足腰も以前と同じとはいかない。

 でも老人だからできることもある。僕は戦争の悲惨さを知っているし、戦後民主主義に守られて自由に表現をして生きてこられたということを強く思っている。昭和の時代にはタブーといわれていた天皇の戦争責任や差別問題についても朝生で扱った。日本には表現の自由がある。昭和の時代に冷戦の現場に行ったり、モスクワや北朝鮮に取材に行っているからこそ、このことは強く思っている。

 今は異論を認めない社会の空気が強まっているが、それでは民主主義が死んでしまう。自分と違う立場の人がいるということを認め、意見が違う人と徹底的に討論する、これが民主主義の基本。そうすれば分かり合えなくても友として生きていくことができる。

 目の黒いうちは日本をよくするため、体を張って言論の自由を守るため、精一杯声を荒げつづけるつもりだ。 (完) f:id:kadokawa-toko:20220224135844j:plain