第24話 謀られる

 「腹帯はちゃんと締めろよ。それから―」

 「わかってるから。ベン、もう仕事に戻って。私が十分、一人で乗れるのは知ってるでしょ」

 ベンはまだそばにいて立ち去りがたそうにしている。

 「慣れたころが一番危ないんだ。注意散漫になる。やっぱり、おれの仕事が終わるまで待ってろ。そうしたらそばで見ていてやれる」

 「えー。あなたの仕事に終わりはないんじゃなかった?」

 ベンが眉根を寄せた。

 「揚げ足をとるな。あんたを見張る時間くらい取れる」

 「ちゃんとやり方は覚えてる。あなたと違って若いから覚えはいいの。さあ、みんな待ってるわよ。早く行ってあげなさい」

 あと一押し。

 ぎゅっと眉根を寄せた。

 「何と言われても私は乗るから」

 ベンはしぶしぶ背を向けたがすぐにこちらを振り返った。

 「いいか、ギャロップはするんじゃないぞ」

 「ベン」

 ため息と共に名前を呼んだ。

 「わかった。サミュエル! しっかり見張ってるんだぞ!」

 ようやく彼は自分の仕事場へと戻っていった。頭を振りながらベンを見送り、ルシアは愛馬スターに向き直った。

 「最近どんどんミッチェルに似てきたと思わない?」

 スターは返事をするように小さくいなないた。

 なめらかな茶色の鼻面を撫でてやる。

 「あなたも早く走りたいのよね」

 慣れた手つきで乗馬の準備を終え、スターにまたがった。

 最初はゆっくりと、少しずつスピードを上げていく。 ふと厩のほうに目をやるとベンがこちらを見ていた。大丈夫だと伝えるために手を振ると、ベンは顔をしかめてちゃんと手綱を握れというような身振りをした。

 笑い声を上げて柵の中を一周する。次に厩を見たときにはベンはもういなかった。

 あんなに馬を怖がっていたのが嘘のように、今では馬に乗るのが楽しくてしかたがない。こうしていると自分が風と一体になったような気がしてくる。サミュエルはベンの言いつけを守り、というよりはミッチェルの言いつけを守り熱心に私を目で追っている。

 私を見張る以外にもっとやることがあるだろうに。

 いくら馬の合わない相手といえど、退屈な仕事を毎日、坦々とこなしているサミュエルをかわいそうに思い始めたとき、何かがちぎれるような異様な音が耳に届いた。

 そのあとはすべてがゆっくりになった。

 体が傾いて、平衡感覚を失った体が地球に引っ張られて落下していくのがわかったが、もうどうしようもなかった。その間、いつもと変わらない青い空をただ見つめていた。

 衝撃を感じる直前、悲鳴が聞こえた気がしたが、すぐに目の前が真っ暗になって何もわからなくなった。



 「入れ」

 ノックの音でミッチェルは几帳面に記された台帳から顔を上げた。

 「失礼します」

 軍服を着ているというよりは着られているといった風情の若い男が、緊張の面持ちで室内に入ってきた。

 「どうした。何か問題でも?」

 青年は直立不動で、モノサシのように真っ直ぐ立っているが、目はせわしなく辺りをさまよっている。

 「いえ、あの、はい。それが…」

 十九ほどに見えるから、恐らく軍に入ってからまだ日が浅いのだろう。

 王と一対一で話すことなどめったにないものだから、彼が緊張するのも無理はない。ルシアももう少しわたしを敬ってくれてもいいのだが。

 「大丈夫か? すごい汗だ」

 「だっ、大丈夫です」

 その言葉と裏腹に、青年のこめかみを暑くもないのに大粒の汗が伝った。

 「それならいいが…。それで何の話だ?」

 青年は唇を舐めて、覚悟を決めたように彼と目を合わせた。

 「ルシア様が、事故に遭われました」

 「何だと!」

 デスクに手のひらを打ちつけて立ち上がると、男はビクリとしてすぐに視線を床に落とした。

 「ルシアの具合は?」

 唸るように言って、事故の原因がこの男にあるとでもいうようにねめつけた。

 「は、はい。私は、その、詳しいことはわかりません。ですが、それほどひどくは…ないかと」

 男の言葉は尻すぼみに終わった。

 途切れ途切れの言葉に口を挟まず聞くには、平常心を総動員しなければならなかった。

 だが怯えた相手をさらに脅しても結果が得られないのは経験から知っている。ずっと歯を食いしばっていたのに、砕けていないのが不思議なくらいだ。

 「本当だろうな? もしおまえが言ったのと少しでも違ったら、首の骨をへし折ってやるからな」

 男は目を見開きおろおろと後ずさり始めた。

 「いえ、あの、多分…」

 ほら見ろ。言わんこっちゃない。

 「どこだ?」

 「えっ?」

 誰がこの能無しをよこしたんだ。

 「ルシアはどこだと聞いている!」

 「ここだ」

 ドアが開き、ルシアを腕に抱えた自分そっくりの人物が入ってきた。

 「ルシア! 大丈夫なのか?」

 「平気。ちょっと馬から落ちただけ」

 ベネディクトが眉をひそめた。

 「馬から落ちるのにちょっともたくさんもあるか。落馬は落馬だ」

 「そんな言い方しないで、ベン。ほんとよ、ミッチェル。足を捻っただけだからすぐに良くなるって、お医者様が」

 宙に浮いたルシアの左足首を見ると真新しい包帯が巻かれていた。

 「今回はたまたま運が良かっただけだ。首の骨を折っていたら今頃は地面の下だぞ」

 ベネディクトの言葉に吐き気がしてきた。

 運が悪ければルシアは死んでいた。

 「ルシアを渡せ、ベネディクト。それからその男を追い出せ」

 ルシアを腕に抱くと、欠けていたものが戻ってきたという安心感に襲われた。

 「あの人にあたることなかったのに」

 「聞いていたのか? あいつが悪いんだ。大事なことをさっさと言わないから」

 「部屋の前で待ってたの。ベンが先に伝えてから会ったほうがいいって言うから…。彼には悪いけど、すごく嬉しかった。私のことを心配してくれて」

 ルシアのほっそりとした手が頬に触れた。

 たしかな体温がありがたい。

 「当然だろう。おまえが事故に遭ったと聞いて、心配で気が狂いそうだった」

 「ミッチェル…」

 目を閉じたルシアにゆっくりと顔を近づけていく。

 咳払いの音でルシアはパッと彼の頬を手で挟んでとめた。

 「おれのことを忘れてるんじゃないかと思ってな」

 ルシアの表情に触れ合いは諦めて顔を引き、ベネディクトをにらみつけた。

 「忘れるわけがないだろう。おまえがついていながらルシアに怪我をさせたことを」

 「ああ、後悔してるさ」

 「言うことはそれだけか?」

 「ちょっと、ミッチェル! ベンのせいじゃない。私が無理を言って、一人で乗ってたんだから」

 「それはつまり、ベネディクトはそばにいなかったということか?」

 ルシアは何度も頷き、身を起こそうとした。

 「そう。ねっ? 彼は悪くないでしょ」

 「じっとしてろ」

 彼女をソファにおろして、ベネディクトと向き合った。

 勢いよくひいた拳を弟の左頬にぶつけた。

 ベネディクトははずみでキャビネットにぶつかり、上にのっていた花瓶が派手な音を立てて割れた。

 「ミッチェル! なんてことを」

 ベネディクトはゆっくり立ち上がると、切れた唇の血を拭った。

 「歳をとって動きが鈍ったんじゃないか?」

 今度はベネディクトの拳で彼が床に倒れた。

 「二人ともやめなさい! 今すぐやめないとぶつから!」

 ルシアはソファの上で怒りに頬を染めている。

 ふと、いざというときに悲鳴を上げるだけの女じゃないことを嬉しく思った。

 体を起こして何度か口を開け閉めした。長い間この痛みを忘れていた。

 ベネディクトが差し出した手を取り、立ち上がった。

 「すまなかった…ミッチ」

 苦しげな口調から今回だけのことを言っているのではないのだとわかった。

 「いや。わたしの方こそ悪かった。許してくれるか、ベン?」

 お互い相手の目の中に自分自身を見た。

 同時にふっと相好を崩すと、離れていた月日を埋めるように強く抱き合った。

 「男ってわけがわからない。さっきまで殴り合ってたかと思うと、急に仲良くなるんだもの」

 ルシアがあきれ顔でこちらを見ていた。

 「わけがわからないのは女のほうだ。自分の倍も重い男をぶつぞと脅すんだからな」

 「だが機嫌の悪い女ほど怖いものはない。そうだろ、ミッチ?」

 「ああ、まったくだ」

 彼女は目を細めて睨みつけている。

 「二対一なんて卑怯よ」

 だが小さく肩をすくめた。

 「まあ、今回は二人が仲直りできたんだから大目に見てあげる。わたしも怪我をした甲斐があったってものよ。大した傷じゃないし」

 「どうした、ベン?」

 彼の顔から笑みが消えている。それは軍隊時代、任務についているときの見慣れた表情だ。

 「シアの怪我は仕組まれたものかもしれない」

 「何だって?」

 ベンが腕を組んでデスクの角に尻を乗せた。

 「シアの悲鳴を聞いて駆けつけたとき、地面に鞍が落ちていたから、最初はしっかりと腹帯を締めなかったんだろうと思ったんだ」

 「ちゃんと締めたわよ」

 ルシアはムッとした顔をしている。自分の非だと思われていたことが面白くないのだ。

 「まあ、聞け。ベンは『最初は』と言っただろう」

 「続けて」

 おっと。ルシアは今、男にとって一番怖いものになっている。

 「だがシアは気を失っているし、とにかく医者に診せるのが先だったからな」

 「気絶なんかしてない」

 ベンは眉を動かしたが聞こえないふりをして話を続けた。

 「でだ、サミュエルに医者を呼びに行かせたあと、医者がシアを見ている間に、馬具を納屋の奥にしまいこもうと思ったんだが―」

 「あら、乗馬はやめないから。落馬したらすぐ馬に乗れって言うでしょ」

 しかめた顔をルシアに向けた。

 「二人してそんな顔しないで」

 つまりベンもわたしと同意見だということだ。

 「その件はまたあとで話し合おう。今はベンが故意に危害を加えられたと考える理由が知りたい」

 「ああ、腹帯がちぎれていた。新しいものだから切れるのはおかしいと思って調べてみると、切れ端がほつれていなかった」

 「どういうこと?」

 ルシアの隣にどさりと腰を下ろした。

 「誰かが刃物で切込みを入れていたということだ」

 「なんで?」

 素っ頓狂な声も、その表情もわけがわからないといっている。

 ルシアの足を膝の上にのせて、足首に巻かれた包帯に指先で触れた。

 そう、なぜなんだ? そこが解せない。

 仮にルシアを邪魔に思う者がいたとして、こんな不確実な方法をとったのはなぜだ。怪我をさせるのが目的だったのか?

 「わからない。だが必ず報いを受けさせる」

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