第32話 帰り道が明かされる

 使用人の一人をつかまえて時間厳守だと伝えた後、サミュエルの部屋を覗くと、壁際にガラスの破片が散らばっていた。ベッドにいたサミュエルと目が合ったが、先に逸らしたのは彼のほうだった。

 いつものような棘を感じなかった。きつくお灸をすえられたのだろうか。

 なにも言わずにドアを閉めた。ミッチェルはどこへ行ったのだろう。

 ちょうど通りがかった若い使用人を呼び止めた。

 「ミッチェルを見なかった?」

 「いえ、私はお見かけしておりません」

 「そう」

 「ですが、陛下は戦闘の後などは、兵士たちの労をねぎらいに行かれます」

 「ってことは兵舎ね。それはどこにあるの?」

 使用人は腕に抱えた洗濯物に目を落とし、困ったように身じろぎした。

 「あの、私は仕事が―」

 「私がお連れしましょう」

 年月を経て深みが加わった目の使用人がかってでた。

 前に一度話をしたことがあった。たしか名前は…。

 「親切にありがとう、ジャック」

 ジャックの後に続いて水路のあるパティオを抜け、別棟に赴いた。

 「陛下がいらっしゃるか確認してまいります」

 待っている間に辺りを散策した。

 普段いる場所は白と黄色がバランスよく配色されているが、広いパティオをはさんでこちら側は、白ばかりが目立ってなんとなく厳めしい感じがした。

 「足のお加減はいかがかな?」

 声がしたほうに顔を向けると捻挫の処置をしてくれた医師が立っていた。

 「おかげ様で、もうすっかりよくなりました」

 「それはよかった。ではなにか私に相談したいことでも?」

 「えっ?」

 使用人が戻ってきたために医師の言葉について考える暇がなかった。

 「陛下はおいでにならなかったようです」

 「おや、陛下をお探しかね」

 「ええ。疲れてるくせにどこへ行ったのか」

 医師は優しいおじいちゃんといった風な人懐こい笑みを浮かべた。

 「ジャック、後は引き受けた。また今度チェスをやろう。次は手加減してやらんぞ」

 「なにを言っとる。いつも負けそうになって、ギャーギャー騒いどるのはおまえのほうじゃないか」

 使用人は捨て台詞を吐いて本来の仕事に戻っていった。

 二人のやり取りを観察していたルシアに医師は笑いかけた。

 「あいつはいいライバルなんだ。さぼっているわけじゃないが、お互い暇を見つけては一戦交えるのが楽しくてね。断然チェスの腕前は私のほうが上だが。おっと、歳をとると話が長くなっていけない。そんな暑いところに立っていないで、こっちへいらっしゃい。倒れられては陛下に殺されかねない」

 優しい口調なのに有無を言わせない医師に続いて、涼しい部屋の中へ足を踏み入れた。古いデスクには医師と同じくらい年季が入っていそうな器具が並んでいる。

 「血は平気だろうね?」

 質問の意味を察して頷いた。だが医師がこちらを見ていないのに気づいて声に出して言い直した。

 「ええ。血を見て悲鳴をあげるような、か弱い女じゃないんで」

 「思ったとおりだ。素質は十分にある」

 「なんの?」

 「ここを手伝ってほしいんだ」

 患者の切り開かれた腹の中を覗き込む自分の姿が頭に浮かんだ。ルシアの表情を見た医師が付け加えた。

 「別に無理にとは言わない。ただ患者の相手をしてもらえたらと思ってね。いくらわたしが医師として優れていても、それだけでは十分ではないんだ。身体的には回復しているのに、亡くなってしまう兵士の多いことといったら…。しなびた老人が相手をするよりも、華のある女性に励まされるほうがいいに決まっている」

 「話し相手くらいでよければかまいませんよ」

 「うんうん。暇なときでいいんだ。ここの扉は常に開かれているからね。今は陛下のことが心配だろうし。残念なことにここにはいないんだ。サミュエルの様子を見に行った」

 まるで嵐に巻き込まれたようだ。しかもけっきょくミッチェルの居場所はわからずじまい。

 「サミュエルのところにはいなかったんです。その、少し揉めたみたいで」

 医師が目を細め、手をこすり合わせた。

 「安心しなさい。見当はついている」

 


 「ミッチェル」

 彼が藁まみれの体を起こした。

 「どうしてここにいるんだ。眠っているはずだったろう」

 「あんまり遅いから探しに来たの」

 ルシアは房の中に入った。

 「それにしてもよくここがわかったな」

 「先生に聞いたの。昔から何かあると厩の一番奥に隠れてたって」

 ここで先生と呼ばれる人は医師しかいないのだろう。

 ミッチェルが目を細めた。

 「兵舎のそばまで行ったのか。その行動力がいつか身を滅ぼすかもしれないぞ」

 「私は自分の好きなようにするわ」

 ミッチェルはさらにお小言をくれそうに見えたが、大きなためいきが取って代わった。

 「ねえ、ミッチェル」

 彼の様子はいつもと同じように見える。

 だが感情を隠して平静に振舞うのが常となっているからといって、なにも感じていないわけではない。ちゃんと吐き出さなくては、内から彼を蝕んでいくだろう。

 「なんだ?」

 ためらったのは一瞬だった。心理ゲームは性に合わない。

 「サミュエルのこと、どうするの?」

 彼が藁を撒き散らしながら体を捻った。

 「どうして知っているんだ」

 「考えればわかることよ。知ってる限り、私のこと嫌ってるのは彼だけだもの。人気者よね、私って」

 「気に食わないからといって、傷つけていいということにはならない」

 彼の顔は苦渋に満ちていた。友を裁く役目を、できることなら誰かに任せてしまいたいのだろう。だが責任感が強すぎる彼にはそんなことできない。

 「私は許すわ」

 ミッチェルの苦しみを軽くするためなら、サミュエルを無罪放免にしたってかまわない。

 「わたしには無理だ。それは彼らも同じだろう」

 彼らって誰のことだろう。

 顔に刻み込まれた色濃い疲労に気づいて尋ねるのはやめた。その代わり少しでも癒しを与えたくて手を握った。

 「助けに来てくれてありがとう。予想外だったけど、すごく嬉しかった」

 「何を言ってるんだ。助けるに決まってるだろう」

 「だってサミュエルに言付けを頼んでおいたから…聞いてないの?」

 「どんなやつだ?」

 「噴水に飛び込むつもりだから、あなたに私を追わせないでって」

 ミッチェルが体を震わせた。

 「あいつは必要ないと思ったんだろう。おまえがまだ馬鹿げた考えを捨てていなかったとは。あれはただの噴水、建国の記念に作られたただのモニュメントだ」

 「帰り道じゃないとは言い切れないでしょ。あなただって『聖なる泉』と呼んでいたし」

 「伝承が元になっているんだ。隠していることでおまえを失う危険を冒していたとは。もう秘密はなしだ。いいな」

 なんのことだかさっぱりだが求めに応じて頷いた。

 「おまえは噴水から元の世界に戻ることはできない。だめだ、黙って聞いていろ」

 口を開こうとすると彼が手を上げて制した。

 「だが帰れないわけじゃない」

 ミッチェルは深く息を吸い込むと、聞き取れないほどの早口で呪文を唱えた。

 「一階の広間を抜けて突き当たりを右に曲がりそこから五つ目の部屋に鏡がある。それを使えば戻れる、かもしれない」

 彼は深呼吸し、今度はゆっくり尋ねた。

 「帰りたいか?」

 ポーカーフェイスが得意なくせに、彼の顔にはでかでかとどぎつい蛍光ペンで不安と書かれている。

 恐ろしい運命が待ち受けていても踏ん切りがつかなかったのに、こんなに可愛らしい姿を見せられて帰れるわけがないじゃない。

 「いいえ。ここでの暮らしが気に入ってるの。でもどうして帰り方を知ってるのか教えてもらえる?」

 ミッチェルは不安が取り去られたというように、大きく顔をほころばせた。 

 「お安い御用だ。その鏡はなんでも覗き込んだ者に啓示を与えるそうだ。だが必ず良いものが映るとは限らない。仕組みはよくわからないが、自分自身さえ映らないときもあるくらいだ。不思議な力を持った民の嫁入り道具だったらしい」

 「あなたはよく覗くの?」

 ミッチェルは髭の伸びたあごを掻き、大きなあくびをした。

 「まあ、たまにな」

 彼には睡眠が必要だ。だがそう言ったところで大人しく横にはならないだろう。ずるい手だと思いながらも、喉もとのボタンを三つ外し、彼の膝にまたがった。

 思惑通り視線は胸のふくらみに引きつけられている。

 「何をする気だ」

 両手を使い、少しずつ体重をかけて胸を押していく。すでにひじをついた状態の彼に微笑みかけた。

 「疲れを癒してあげる」

 すっかり力を抜いた彼の上に身を乗り出し、はにかみながら頬に口づけを落とした。

 顔を上げようとすると頭を掴まれた。

 「するならちゃんとしろと言っているだろう」

 むさぼるようなキスに唇が焼け焦げそうだ。彼が満足した頃には二人とも息を切らしていた。

 「これくらいしてもらわなければ」

 「やっぱり私には無理そう」

 ミッチェルはルシアを抱いたまま身を起こした。

 「おいおい。自分でつけた火の始末はしてくれよ」

 彼がが首筋に吸い付くと、ファンファーレが聞こえた気がした。

 「何か聞こえた?」

 口をつけたまま、視線だけを上げて彼がにやりとした。

 「おまえの頭の中だけじゃないのか? それほど陶然とさせられたなんて、男冥利に尽きるというものだ」

 殺気立った視線を彼は意にも介さず、侵略行為を進めた。

 いつの間に脱がされたのやら。本当にぼんやりしていたのだろうか。

 「何か言いたいことは?」

 「黙れ」

 彼がにやりとした瞬間、人の気配がした。

 馬を罵る声が近づいてくる。

 ミッチェルはそっと房の外を覗いてすぐに頭を引っ込めた。

 「服を着ろ。出るぞ」

 聞き分けよく手を動かしながら声をひそめて尋ねた。

 「サンバルト公の馬だ。彼がやってくるとは。やっかいごとを持ちこんでなければいいが」 

 スカートについた藁を払っている途中で引っ張りあげられた。

 「行くぞ」

 男に手を引かれて走るのは好きじゃない。

 それが大男である場合は特に。

 彼らはついてくる相手が、自分と同じ足の長さを持っていると思いこんでいる。

 「申し訳ございません!」

 黒毛の馬の歩みに合わせていた御者が、ミッチェルの姿を見て飛び上がった。

 彼は頷いただけだったが、ルシアは通り過ぎざま振り返って叫び返した。

 「あなたは立派よ」

 厩から十メートルほど進んだところで、ミッチェルが顔だけ振り返った。

 「さっきのはどういう意味だ?」

 眉を上げてわからないのかという表情を浮かべると、彼は肩をすくめて前を向いた。

 もちろん彼にわかるとは思わない。

 女は男の限界を知っているから。それでも女の考えることだとないがしろにせず、言葉の裏にある思いを読み取ろうと努力するのは賞賛に値する。

 「あれは何?」

 王宮の門の前に見慣れないものを持った男がいた。ミッチェルはチラッと指差された方向に視線をやり舌打ちした。

 あの形は…ラッパ?

 ははぁ。今の舌打ちは陶然としていた自分に対してってわけだ。

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