第31話 裏切られる
ベッドにおろすとルシアのまぶたが震えた。
「もうひと眠りしていろ」
「あなたは?」
眠気のせいで間延びしたかすれ声の誘惑に、隣に身を横たえられたらどんなにいいだろうと、ほんの一時目を閉じた。
特注サイズのベッドは、百九十センチの体を伸ばしてもゆうに五十センチはあまりある。
「まだやることがある」
自分に言い聞かせるために声に出し、自制心が残っているうちに背を向けた。
「早く戻ってきて。私より疲れてるはずよ」
「大人しく眠っていれば、次に目を開けたときにはお望みの寝顔が見られるさ」
静かに自室のドアを閉め、兵舎のそばにある診療所に向かった。
入り口は開け放たれており風通しが良く、患者を不安にさせる消毒薬のにおいは立ち込めていない。
ドクターは薄くなった後頭部をこちらに向けていたが気配を察して乳鉢から顔を上げた。
「陛下、ご無事でなによりです。ルシアさまの診察に伺いましょうか?」
ルシアを抱えて戻ってきたときの使用人たちの様子を鑑みて、誰かがこのお抱え医師に話したことは容易に想像がつく。
「いや、必要ないだろう。乱暴はされていない」
ドクターが下がってきた眼鏡を押し上げ、目尻の皺を深めた。
「それはよかった。私が聞いた限りでは全身血まみれで、誰だかわからないほど顔が潰れていたらしいので。まあ職業柄なにを見ても驚きはしませんがね」
「わたしはまだ驚くね。どうやったらそれほど尾ひれをつけられるのか」
髪をかき乱した。
いつまでも先延ばしにはできない。
「彼らの具合は?」
ドクターが笑みを浮かべたまま、レンズ越しの目を細めた。それが不愉快な思いをしているときの彼の癖だと知っていた。
「正直言ってひどいですね。彼らのところにご案内しましょう。ユーリは腹を刺されて内臓まで傷ついています。運ばれたときには血を失いすぎていて、今日を乗り越えられるかどうか」
まだ子どもに毛が生えた程度だというのに。
案内されたベッドの傍らに膝をつき、色を失った手をとった。
「ゆっくり休んで早く元気になってくれ」
ひんやりと感じられる手を額に当てて祈りを捧げた。それからユーリの手をそっとベッドに戻した。
立ち上がって隣に並べられたベッドで眠る兵士を見た。
「サイモンは?」
「右肩をひと突きされています。感染症にさえ気をつけていれば命に別状はありませんが、サバイバルナイフでやられたのか筋肉の損傷が激しく、元通り使えるようになるかどうかは彼の回復力しだいです」
ドクターが包帯の巻かれていないほうの肩を揺すった。
「陛下がお見えになったら起こしてほしいと言われています」
兵士らしくすぐにサイモンが目を覚ました。
「眠りこけていたら困るからと、治療中もアヘンチンキを飲もうとしなくて。そういう患者が一番面倒なんですよ。ミスをしたってごまかせやしない」
医師はぼやきながら優しい手つきで包帯の具合を確認し、話しやすいように場所を空けた。
「陛下、申し訳ありません。このような失態を、どうかお許しください。皆様は無事でおられますか?」
強張ったサイモンの肩に手を置いた。
「みな無事だ。だから気に病むな。責めを負うべきはわたしだ。今は体を治すことだけ考えるんだ」
サイモンは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それから、痛み止めは飲むように。これは命令だ」
彼はしぶしぶ頷いた。
「はい、陛下」
頷き返して、最初に抱いた疑問を医師にぶつけた。
「サミュエルも無事か? 頭に傷を負ったようだったが、まさか―」
「いや、彼が一番軽症ですよ。軽い脳震盪を起こしていますが、応急処置が施されていたので私が診たときには出血もありませんでした。血なまぐさい場所は嫌いだと言って、小さな天使と一緒に自分の部屋で休んでいますよ」
控えめなノックにまたまぶたを持ち上げた。壁にかかった時計を見ると、ルカに起きるよう諭されてから十分も経っていない。
一時間おきに起こすようにという医師の嫌がらせのような言いつけを、ルカは一分の誤差なく律儀に守っていた。だがサミュエルはルカの純真な眼差しに耐えられず目を閉じていただけで、一度も眠ってなどいなかった。
手を上げて包帯に触れた。
眠れればどんなにいいだろう。そのまま永遠に目が覚めなかったら、自分の罪を忘れられるのだろうか。それとも死んでなお罰として苦しみ続けなければならないのか。
ルカが相手も確認せずに扉を開けた。
「あっ、サミュエルのお見舞いに来たの? あたしが看病してるんだよ。だってサミュエルのお嫁さんになるんだもん」
ミッチェルの声が近づいてくる。
「そうなのか? ドクターは天使がついていると言っていたが」
彼はルカが座っていたベッド脇の椅子に腰掛けた。
「大丈夫か?」
「ああ」
心配そうな表情にいたたまれず目を逸らした。
「ルカ、少し外に出ていてくれないか? ミッチェルと大事な話があるんだ。何か食べてくるといい」
ルカが身を乗り出した。
「だめだよ。サミュエルを起こさなきゃならないもん」
無理やり口角を引き上げた。
「君が戻ってくるまで眠らないと約束するから。頼むよ」
ルカは唇を尖らせて部屋を出て行った。
ドアがカチャリと音を立てて閉まると、四方から壁が迫ってくるような気がした。どう切り出そうかずっと考えていたのに、いざそのときが来ると頭が真っ白になってしまった。
舌で唇を湿らせた。
「喉が渇いているんだろう」
ミッチェルがコップに水を注いで差し出した。
「僕がした事を聞いたら世話を焼こうなんて思わなくなる。顔さえ見たくないと思うはずだ」
「そんなわけないだろう。ルシアを守れなかったからといって―」
「はなから守るつもりなんかなかった。彼女が落馬したのも、店が狙われたのも全部僕が仕組んだことだ」
ミッチェルの笑みが揺らいだ。それでもまだ耳にしたことを受け止めきれていない。まだ信じたいと思ってくれている。
「腹帯に切れ込みが入っていただろう。君たち以外には犯人しか知らないことだ」
「ルシアから聞いたんだろう。一緒にいる時間も長いんだし」
「僕らが水と油だってことは最初からわかっていたはずだ。いや、僕のほうが一方的に彼女を嫌っていたんだな。一日一緒にいても、一言も話さないなんてこともざらだったよ」
「だったら店は? 店が襲われるなんて誰にも予想できなかったんだぞ」
強く首を振った。こめかみの傷が脈打って吐き気をもよおした。
「先週三日も休みをもらったよな。その間に僕は何をしていた?」
ミッチェルに答える暇を与えずに続ける。
「そうさ。誰も知らない。国を離れていたからだ。隣国で…男を雇った。誰も傷つけず、彼女だけをさらわせる手はずだった。なのに奴らは欲を出してルカたちも連れて行こうとした」
ミッチェルがコップを握ったままのこぶしを振り上げた。
反射的に目をつぶったが遠くでガラスの砕ける音がしただけだった。
「抵抗できない相手を殴ったりはしない」
ミッチェルの声は穏やかともいえるほどで、突発的な怒りの名残はこめかみから読み取れる脈の速さだけだ。
「本当におまえがそんなことをしたのか? 殺したいと思うほどにルシアを憎んでいたのか?」
濡れて染みになった上掛けに視線を落とした。
「死ねばいいとは思っていない。ただ君の前から消えて欲しかった。だってそうだろ。ただの女のくせに君を敬おうともしない。立場をわきまえるべきなんだ。僕はいつだって君と共に戦ってきたのに、どうして子守なんかしなくちゃならないんだよ。あの女のせいでなにもかもめちゃくちゃだ!」
感情的になったサミュエルは肩を上下させた。
一方、ミッチェルの声は抑制がきいていた。
「満足したか? おまえが嫌っている女は、わたしにとって大切な女なんだぞ。おまえを好いているルカを助けたのはルシアだ。働くことしか頭にないようなこの国の民に、憩いが必要だと言ったのもルシアだ。数え切れないほどいる使用人たちの名前を覚えて、慕われているのもルシアだ。おまえの言うとおりだな。なんて嫌な女なんだ」
意をけっしてミッチェルに顔を向けると、煮え立ったウイスキーのような瞳とぶつかった。その目を見て、心ならずも弁解するような口調になってしまった。
「少し脅してやれば元の世界に逃げ帰ると思ったんだ。どうして彼女に鏡のことを話していないんだ。そうだと知っていたら…」
ミッチェルが突然立ち上がり部屋を歩き回った。理性的な彼が無駄な動きをするとは、よほど心乱されている証拠だ。
「こんなことはしなかったか? ルシアが粗野な男たちに捕まって心細い思いをすることもなかったし、兵士たちが消毒薬のきいたベッドで、生死の境をさまようこともなかったというのか」
ミッチェルの声が震えた。
「奴隷だったおまえなら知っているはずだ。所有される孤独も、重い枷の冷たさも」
サミュエルはうなだれた。
彼に必要ないのは僕のほうだ。
「許してほしいとは言わない。自分のしたことはわかっている。ミッチェル―僕を殺せ」
彼は背中を強張らせた。
「おまえはなにもわかっちゃいない。わたしは、おまえとならば立場を忘れていられた。でももう、無理だ」
ミッチェルが後ろ手にドアを閉めた。その様子はもっとも大切な友が、心を閉ざしてしまった様子を体現しているようだった。
ドアが閉まりきらずにカチャンと跳ね返った。
「シアー!」
ボロボロと涙をこぼしたルカが駆け込んでくるのに気づき、身を起こしたところに彼女が抱きついた。
「サミュエルが殺されちゃう! 奴隷だから…ミッチェル様が…」
震える小さな体に腕をまわして揺すった。
「ルカ、ルカ、しーっ。落ち着いて。大丈夫だから。ミッチェルがサミュエルを殺すと言ったの?」
赤くなった顔を覗き込むと、涙が次から次へと湧いてきて頬を流れ落ちた。
「わかっんない。サミュエ、ルが、自分のせ、いだって」
しゃくりあげる合間に言うものだからさらに謎が深まった。仕方なくルカの手に視線を移した。
「これ持ってきてくれたの? 私、お腹ぺこぺこだったの。半分こしない?」
ルカは戸惑った表情で握り潰されたパンを差し出した。元はふわふわだったろう物体を二つにちぎって、片方をルカに戻すと早々に自分の分を頬張った。
「おいしい。ルカも食べてみて」
ゆっくり口を動かした後、ルカがぽつりとつぶやいた。
「硬いね」
「どうして硬くなったのか、泣かずに最初から話せる? そしたら何がそんなに悲しいのかわかるから」
ルカは平べったいパンを膝におろした。
「あのね、あたしがサミュエルのお世話してたの。そしたらミッチェル様が、ご飯を食べてきなさいって…あっ、違った。サミュエルだった。ミッチェル様と大事な話があるからって」
言葉が途切れたので相槌を打った。
「だから、パンをもらってきて部屋の外で食べようって思ったの。そしたらお話が終わったらすぐサミュエルのそばに戻れるもん」
ルカの唇がわなないた。
「急いで部屋に戻ったらガシャンって大きな音がして、あたし、すっごく怖かった。なんかわかんないけど喧嘩してるみたいだったし、鏡が…」
「鏡がどうしたの?」
考え込んだルカが顔をしかめた。
「忘れちゃった」
言わなくていいと言ったのに。サミュエルが落馬の秘密を話してしまったのだろう。
ミッチェルが昔なじみの裏切りを、簡単に受け流せるとは思えない。
「二人の喧嘩が怖くて私を探しに来たのね?」
納得がいかない様子ながらルカは同意した。
「心配しなくても、喧嘩したってちゃーんと仲直りできるのよ。サミュエルのところに戻りたい?」
ルカは頷いたがすぐに頭を振った。
「わかんない。でもサミュエルにはあたしが必要なの。ノーシントンだから、時計の長い針が一番上にきたら起こさなきゃだめなんだって。じゃないとずっと起きられなくなるかもしれないって、先生が言ったの」
きっと脳震盪のことを言ってるんだ。銃の台尻で殴られたから。
サミュエルがルカを抱いたまま倒れた瞬間を思い出して身が震えた。
「ルカ、怪我はしてない?」
「あたしは痛いとこないよ」
涙の跡を指で拭ってやった。
「よかった」
赤ん坊を卒業して日の浅い柔らかな肌だ。そこに寝不足の暗い影が落ちている。
「こうしよっか。ルカはおねえちゃんのところでお昼寝する。ゆっくり休んだら、またサミュエルのお世話に戻るの」
「寝ちゃだめだよ。サミュエルを起こさなきゃならないもん」
「ルカがちゃんと寝ないと、今度はサミュエルにお世話してもらわなくちゃならなくなるのよ。寝てる間は誰かにサミュエルを起こしてくれるよう頼んであげるから、ね?」
「わかった。でもちゃんと針を見ててって言ってね。じかんげんちゅだって」
舌が回っていなかったが本人は満足そうに笑顔を見せた。きっとミエルバの教育の成果だろう。女に教育は必要ないなんて言い出した奴は馬鹿だ。
「約束する」
「シアはミッチェル様の面倒を見に行くの?」
思いもしなかった言葉に驚いた。
「まあ、そうね」
ルカは不意に大人びた仕草で髪をすいた。
「男と女は二人でひとつだもんね」
ミエルバったら余計なことまで。変なことは教えないよう言っておかなくちゃ。
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