第30話 許される

 ミッチェルは立ち上がり、小さな体を目一杯伸ばしているルシアをそばに引き寄せた。

 「ほかのことはさておき、ルシアに手を出したのは間違いだったな。自殺願望があるとしか思えない。わかっているのか? わたしがだれであるのか」

 ミッチェルの顔を凝視して、事の重大さに気づいた男の脚がふらついた。

 「ああ…なんてこった」

 ルシアがあからさまに注意を引こうとして目の前に立ちはだかった。

 「ミッチェル、たしかに彼は罪を犯した。だけど情状酌量の余地があるでしょ? 妹さんに罪はないんだし、もとはといえば彼女に乱暴した男がいけないんだもの」

 よく動く口と手を止めるために、肩に腕を回してそばに引き戻した。

 「大人しくしててくれ。わたしは鬼か? おまえに教えてもらわなくても、慈悲の心は持ち合わせている」

 無意識に肩に置いた指先でリズムを刻んでいた。

 「ミッチェル―」

 「考え中だ」

 兄の癖を知っているベンが代わりに答えた。心の中で感謝しつつ思考をさまよわせた。

 手ごめにされた妹のために金が必要だった兄、か。まったく…。ルシアが弱そうな話だな。

 「このままじゃ年が変わるまでに宮殿が人で溢れかえってしまう」

 ルシアの肩が期待にぴくっとした。

 「それって、呼んでもいいってこと?」

 「ああ。子どもが生まれるまで住まわせていい」

 「ありがとう! それなら妹さんも面会に行けるし…良かったわね、ジョルジュ」

 ジョルジュはまっすぐにミッチェルと目を合わせた。

 「ありがとうございます。本当に、言葉では言い尽くせないくらい感謝しています。マリアンへの寛大なお申し出、ご恩は一生忘れません」

 「そう思うならしっかり罪を償うんだ」

 ジョルジュは深々と頭を下げた。

 そのあと彼は手を縛られ、近衛隊と共に牢屋に向けて遠ざかっていった。

 「悲しいわね」

 自分の存在を思い出させるため、さらに体を密着させた。

 「罪人に惚れたか?」

 「そうじゃなくって。もし彼にお金や地位があったら違ってたのかなって」

 何気ない言葉に反応してしまう自分が嫌になる。

 王になるため最初に身につけた無表情の仮面を引っ張り出したが、彼女の慌てた声を聞く限り、その前に表情を見られてしまったようだ。

 「ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃ…。あなたにはあなたの苦労があるのはわかってる」

 「気にしちゃいないさ。わたしには思い悩むなんて贅沢は許されないからな。彼の妹を迎えにいくまで、おまえはそわそわして落ち着かないんだろうし」

 自分でも子どもの強がりのように聞こえた。子ども時代なんてもう思い出せないほど昔のことなのに。

 「おれが行くよ」

 ベンが腕に布を巻きながらのんびりと名乗り出た。

 「おまえが?」

 「こんなにわくわくしたのは久しぶりなんだ。女を捜しにいくのもいいかと思って」

 布がずれた拍子に痛々しい生傷が覗いた。

 「ベン! 弾があたったのね。何で言わないのよ。座って」

 ルシアの頭越しに、言うことを聞いたほうがいいと口の動きで伝えた。世話好きの女というものは、怪我人をつつきまわさずにいられないのだ。

 ベンは大人しく腰をおろしたが、残念なことに口を閉ざしていることはできなかった。

 「かすっただけさ。たいしたことない」

 ベンの視線を追って振り返ったルシアに睨みつけられた。

 「あなたたちみたいな図体の大きい男は必ずそう言うのよね。何で銃を向けられても避けなかったわけ?」

 ベンは懲りずに肩をすくめたため、ぶたれるはめになった。

 「馬に乗りながら、それも人質を気にしながらとなると、標的に当てるには相当な技術が必要だ。まったく。銃に飛びつくのは、本人にとっても周りの人間にとっても、危険だと知らないのか?」

 「知るわけないでしょ。私はそんな危険な場所で育ったわけじゃないんだから」

 不意にルシアが息をのんだ。

 「ベンを殺しちゃうところだったなんて」

 ルシアに抱きつかれてベンがひっくり返った。

 「うわっ…。困るよ、ミッチが見てる。仲たがいさせたいのか?」

 そう言いながらもベンの手はルシアの腰、それも尻に触れそうな場所におかれている。

 「おいベン、そろそろ離れろ。おまえという奴は…」

 ベンがルシアを抱いたまま起き上がった。

 「当分会えないんだし、別れのあいさつだよ」

 そっと彼女を押しやった。

 「ミッチのそばに戻るんだ。おれはマリアンを探してくる」

 だがルシアはベンの膝にまたがったまますがりついた。

 「でも消毒しなくちゃならないし、包帯だって毎日変えなきゃ。今すぐじゃなくても、傷が治ってからにしたら? だって―ミッチェル!」

 ベンの表情がいよいよ苦しげに曇るのを見て、ルシアを抱き上げた。もし双子でなかったとしても、ベンの気持ちには気づいただろう。

 弟はルシアに惚れている。

 誰でもわかりそうなものなのに、彼女は気づいていない。卑怯かもしれないが知らないままでいてほしい。

 「ずっと乗っかっていたら傷に障る」

 そんなことくらいで傷が悪化するわけもないのに、ルシアは申し訳なさそうにミッチェルの胸に顔をうずめた。

 「そうね」

 声がくぐもって聞き取りにくい。

 「じゃあ、おれ行くよ。できるだけ早く連れてくるから」

 「気をつけてな」

 怪我をしていても彼はいつもと同じ優雅さで馬に飛び乗った。

 「じゃあな」

 ベンが馬に合図を出そうとした瞬間にルシアが顔を上げた。

 「早く戻ってきてよ。乗馬講師の職を解いた覚えはないんだから」

 声に涙の気配を感じた。

 「わかった。約束する」

 「あと、これ持ってって」

 「金?」

 ルシアがポケットから取りだした袋にベンは眉をひそめた。

 「金くらい自分のがある」

 「違う!」

 腕の動きに合わせて金属のぶつかる音が苛立たしげに響いた。

 「彼女に。自由にできるお金がある方が安心できるでしょ」

 「わかった」

 ベンが金を受け取るとルシアは顔を背けた。

 「もう行って」

 ベンは片手を挙げて別れを告げ、どんどん遠ざかっていった。

 その間、確認したわけではないが、彼女もベンの姿を目に焼きつけているのだとわかっていた。

 「行ってしまった。もともと落ち着きのない奴だ。今回は長いこと留まっていたほうさ」

 「慰めてくれなくていい。今日はいろいろあったんだもの。泣かせたくないなら優しくしないで」

 空を見上げた。

 明るくなるまで小一時間ほどだ。

 「優しくするな、か。おまえといると変わった経験ばかりだな」

 面白くなさそうな笑い声が聞こえた。

 「さらわれた女を追って砂漠を爆走するとかね」

 「そのあと砂まみれになって愛し合うとかな」

 「なんですって!」

 ルシアが手足をばたつかせた。

 ようやく彼女の顔をまともに見た。

 よかった。涙が乾いている。それどころかこころもち頬が赤くなっているような気もする。わたしのアイデアにそそられたのだろうか。

 「大丈夫だ。おまえが上になれば砂なんて気にならないさ」

 彼女のためらいを取り違えたふりをした。

 「そうじゃなくて。外だし、人も…」

 彼女が自分の目で確かめている間、じっと待っていた。

 「とっくに帰した。ここにいるのはわたしたちだけだ」

 地面に敷いたマントの上に寝転がって誘った。

 「問題はなにもない」

 ルシアがゆっくりと近づき、かたわらにひざまづいた。

 「私、どうしたら…」

 「やり方は知っているだろう。おまえがしたいようにすればいい」

 シャツのボタンが外され、むきだしになった胸板を柔らかな手が行き来した。体のわきで拳を握り、彼女に触れないようにと自分に言い聞かせた。

 手が腹を下っていき、触れて欲しい場所の一歩手前で止まった。 

 「ミッチェル?」

 「なんだ」

 「私がはっきり言わなかったから勘違いしてる?」

 手の感触以外のものを締め出そうと目を閉じた。

 「なんのことだ」

 「あなた以外の誰かを、受け入れたんじゃないかって」

 「そんなこと思っていない」

 ルシアの手が離れた。

 「言い方が悪かった。無理やり受け入れさせられたんじゃないかって考えてるでしょ」

 答えをはぐらかした。

 「できれば触れてもらえるとありがたいんだが」

 「なら私の手をとってそうさせたらいいじゃない」

 「嫌ならいい―うっ!」

 股間に男ならではの痛みが走って声を荒げた。

 「わたしを去勢する気か!」

 「私を見もしないからでしょ。気になるなら面と向かって聞きなさいよ」

 むっつりと目を逸らした。

 「さっきも聞いた」

 「さっきは人がたくさんいたじゃない。そんなとこで、私を奪ったのはあなただけだなんて言えると思う?」

 心に希望が芽生え、ルシアの目を見返した。

 「もう少し穏便な言い方でも構わなかったが」

 「口が悪いの。あなただけに伝わるようなほのめかし方がわからなかった」

 言葉遣いの悪さに自覚があったとは。

 「じゃあ本当になにもされなかったんだな?」

 「誓って。だからあなたのセラピーは必要ない」

 「そうか。そうだったのか。ならなにも問題ないじゃないか」

 気の向くままブラウスのボタンを外して素肌に触れた。

 「ほかの男の手が触れてたら、私のこと嫌いになってた?」

 「いや。嫌いにはならない。だが、触れるたびにおまえの苦しみを感じただろう」

 「心配ご無用。あなたに触れられるたびに私は喜びを感じるの。だから触って」



 しばらく後、ミッチェルはぐったりと倒れこんできたルシアを抱きしめ、自分の幸運を神に感謝していた。

 あっという間に終わってしまった行為が名残惜しくて、背骨をなぞるように指を動かすと、身震いに大きなあくびが続いた。

 「眠いか?」

 「少しね。前に私がいるとよく眠れるって言ってくれたでしょ? 私も同じみたい」

 柔らかな髪を愛でながら無意識に言葉をつむいだ。

 「そう言われるのは嬉しいが、目は開けておいてくれ。このままここにいたらカリカリに焼け焦げてしまう」

 今回は守ってやれた。だがいつか、しくじってしまうときが来るかもしれない。

 「ベーコンはカリカリじゃなきゃ焼く意味がないと思わない?」

 そんなことになったら、きっとわたしも父さんと同じようになってしまうだろう。

 「ああ、そのとおりだ…は? ベーコン? いったい何の話をしているんだ」

 「朝食。昨日のお昼からずいぶん時間が経ってるでしょ。なに考えても食べ物と結びついちゃって。まあ、今なら生でもかまわないけど」

 「くそっ」

 ルシアを体の上からマントにおろして起き上がった。

 「そこまで頭が回らなかった。すまない。水くらいしかないんだ。ひどい目に遭わされなかったと言ったじゃないか。知っていたらこんなことしてないでさっさと宮殿に戻ったものを」

 黄色い光が闇を払い始めている。目の前のこわく的な姿を見つめた。

 「さっさと服を着ろ。そんなに白い肌じゃ後で痛むぞ」

 慎み深い彼女のために背を向けて自身の服の乱れを正した。淫らな行いのおかげで皺がひどいが文句を言う者はいない。いちいち言い訳をしなくていいのは、王の特権のひとつだな。

 衣擦れの音がしないので振り返ってみると、彼女は変わらぬ姿勢で顔を曇らせていた。

 「服を着ろと―」

 いや、疲れが限界に達したのかもしれない。戦闘が終わったとたんに倒れこむ兵士の姿が思い浮かび、口調を和らげた。

 「自分で着られるか?」

 頭が縦に振られたが、頷くというよりは頭を支えていられずにガクンと落ちたように見えた。そのまま動く気配がないので手を貸してやることにした。

 腕の片側に真新しいあざができている。彼女はその身を犠牲にして子どもたちを守ったのだ。だが自分で言っていたように暴力のありふれた場所で育ったわけではない。わたしが平和な彼女の世界から、危険な世界へ引っ張りこんでしまった。

 ルシアはそこいらの男よりよほど博識だ。だがここではルカのような小さな子どもでも身につけている、生き延びるすべを知らない。生き残るためには他の命を奪うことも厭ってはいられないのだということを。

 その意味で言えば、ルシアは赤ん坊と同じほどに無防備なのだ。

 ブラウスの最後のボタンを止めたまま、留まっていた手に冷たい手が重ねられた。

 「ほんとはね、帰るのが怖いの。私たちを守るために多くの人が傷ついた。私がいたらまた同じことが起こってしまうかもしれない」

 温もりを分け与えるために手を裏返してしっかりと握りしめた。

 「それはおまえのせいじゃない。大切な人を守るのが彼らの仕事なんだ。安心しろ。皆、命に別状はない」

 本当は彼らの具合を確認する時間も惜しんでルシアを追ってきたのだ。だが今までついてきた嘘に比べればたいしたことない、だろう?

 「どうしても納得がいかないというなら、ルカもベルンもミエルバもロイも、おまえが救ったことで釣り合いが取れると考えろ」 

 彼女の勇敢さを強調するために子どもたちの名を連ねた。

 「みんな私が嫌いになっちゃったかも」

 これにはあきれて言葉が出なかった。ようやく絞りだした意味をなさない音をどう捉えたのかは知らないが、ルシアが抗議するように身を乗り出した。

 「だって、せっかくのパーティーを台無しにしちゃったし」

 日差しがきつくなってきた。

 ルシアを引っ張りあげてマントの上からどかせた。

 「倒れるなよ」

 ふらふらと揺れているのを見てたしなめた。

 マントを数回ふって砂を払ってから身にまとった。

 「腹が減ってるからろくでもないことばかり考えてしまうんだ。おまえがこれからしていいのは、たらふく食ってベッドに入ることだけだ」

 ルシアを馬上に抱え上げて鞍袋から取り出した水を手渡した。

 「責めるならわたしにしろ」

 ルシアは強く首を振ってから水を受け取った。彼が出発の準備をしている間に、乾いてひび割れた唇と喉を潤していた。

 飲み終えたのを見計らってマントの前身ごろを開き彼女をくるみこんだ。

 「こんなの着たら暑い」

 帰路に着くよう脚だけでサンダーに合図を送った。

 「大丈夫だ。すぐにわかる」

 ルシアはそれ以上口ごたえしなかった。

 そのうち体にかかる重みが増していき、ついに疲労に屈したのだと悟った。

 「おまえがいるべき場所に帰るんだ。誰も傷つけることのできない安全な壁の中へ」

 眠りを妨げないよう速度を落とし、ひとりごちた。

 「ここ…。安全」

 聞かれてしまったのか? 子どものような寝顔を見つめた後、力の抜けた手から水筒を抜き取った。

 ルシアはわたしのそばが、自分のいるべき場所だと思っている。わたしは彼女を失うのが怖くて、選択肢を与えずにいるような男なのに。

 「許してくれ」

 胸の痛みを鎮めるために吐き出された言葉は、闇の名残へと置き去られた。

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