第29話 追われる
「起きろ!」
叫び声に驚いて身を起こすと髪が顔にかかった。手で払って視界を確保したが、辺りはまだ薄闇に覆われていて、ぼんやりと輪郭をつかめる程度でしかない。
「なんなの?」
疑問に答える者はいなかったが、すぐにルシアも異変に気づいた。
地面が揺れている。
「地震?」
「静かに!」
大人しく口を閉ざし耳を澄ました。
何か聞こえる。
「くそっ。馬に乗れ」
ボスはひと足先に商品を積むのも忘れて馬を走らせていった。そのあとをダッグが追い抜かんばかりの勢いで駆けていく。
「さあ、はやく」
一睡もしていないせいで目をぎらつかせたジョルジュが、手を椀の形にして馬のそばでしゃがみこんでいた。
目を彼方に転じると、闇に紛れた集団が悪魔に追われてでもいるような猛スピードで近づいてきている。
「急いで。盗賊に捕まったら何をされるかわからない」
ルシアを恐れさせたのは彼の言葉などではなく、また別の誰かに自分の運命が握られてしまうという無力感だった。
椀型の手に足をかけ、馬の背に収まった。すぐにジョルジュが後ろにまたがり馬に命令を出した。
「どこ行くの?」
激しい揺れに振り落とされないようたてがみをしっかりと握りしめた。
「わからない。死ぬ気で逃げるだけだ」
追っ手を確認しようとしたが、彼が邪魔で後ろが見えない。
曲芸士にように体を傾けて覗き見ると、フードと布で目以外が隠されているのがわかるほど黒い集団が迫っていた。
「向きを変えて!」
彼は一瞬戸惑ったがすぐに馬頭を左に向けた。
「向こうを追うだろうか」
わからない。だが獲物の数は二対一だ。
振り返るとやはり追っても二手に分かれていた。こっちはほんの三人だ。
しかしすぐそこまで迫っている。
「くそっ! 捕まるわけにはいかないんだ」
彼は切羽詰ってズボンに挟んであった拳銃を抜いた。
「持ってて」
渡された手綱を慌ててつき返した。
「だめ!」
「しかたないんだ」
彼は振り返って銃をかまえた。
追っての二人は速度を緩めたが、真ん中の男には銃が見えていないのか気にせずに差を詰めてくる。
たとえ敵であっても命を目の前で奪わせるわけにはいかない。
「だめだったら!」
後先考えず銃に飛びついた。
「おいっ!」
もみ合っているうちにバランスを崩した。
デジャビュだ…。
広大な大地に乾いた発砲音が響き渡った。地面に叩きつけられ遠のきかけた意識のすみで、なじみの声を捉えた。
―ルシア!
「どこか痛むか?」
追っての男に抱き起こされた。
答えないでいると男が顔を覆っていた布を外した。
ミッチェルにそっくり。でもそんなはずはない。彼の唇は動いていないのに、さっきからミッチェルの声が聞こえるもの。
―ルシア。ルシア…!
馬が止まりきらないうちに男が飛び下り、そばにひざまずいた。
「無事なのか?」
風邪でも引いているのか声がひび割れている。男の手が触れるのをためらうように体の上でさまよった。
「頼むから何か言ってくれ」
「一回で十分だって言ったのに」
不安そうにミッチェルとベンがそっくりな目を見合わせた。
そんな顔しなくても大丈夫なのに。ミッチェルのそばに戻ってこられた。もう何も心配することはない。
目を閉じベンの腕に身を預けた。
「頼む。殺さないでくれ。俺がいなかったら妹は…。頼む。頼むから」
苦しそうな声にぱっと身を起こした。
「彼を殺したりしないでしょ?」
ジョルジュはうつぶせに押さえつけられていた。
「放してあげて。あれじゃ息ができない」
「ミッチ、シアは大丈夫だ。もう場を仕切ろうとしてる」
ミッチェルが合図をすると彼に自由が与えられた。
少なくとも肺に空気を送り込める程度には。
その間にベンが小さな声で告げ口した。
「シアが連れ去られたとわかって、ミッチは半狂乱だったんだぜ」
「大げさに言うな」
「控えめに言ってるんだ」
ミッチェルが布を外した。ずっと緊張にさらされていたせいで、口元にいつもはない皺ができている。
「心配したんだぞ」
もはや嘘だなとベンが言うのが聞こえた。気にせずミッチェルの首に腕を回してしがみついた。
「すごく会いたかった」
彼の腕が腰に回されぎゅっと抱きしめられた。
「ひどい目にあわされたのか?」
落ち着いた声だったが騙されなかった。奴隷市で捕まった時と同じ押さえこまれた怒りを感じた。
幸い今回はその怒りが自分に向いているわけではない。
「彼は親切だった」
「ほお…親切か。こいつは何をしておまえにそう思わせたんだ?」
腕を解き、絶望のあまりすすり泣いている男を見た。
「話せば長いの。それより彼はこれからどうなるの?」
ミッチェルは男に目もくれなかった。
「とりあえず刑務所に入れて、上手くいけば―」
手を上げて首を切るまねをした。
「そんな!」
「なわけないだろ」
ベンが口をはさんだ。
「それじゃあ―」
ベンが首を振った。
「少なくとも十年は出られないだろう。人さらいは罪が重い」
「立たせろ」
ミッチェルが冷たい声色で命じると、ジョルジュは頭を垂れて運命を受け入れた。
「もういいよ。俺が馬鹿だったんだ。甘い話に引っかかっちまって」
「待ってよ、こんなのおかしい。妹さんのことはどうするの?」
「少しなら蓄えがある。それで…処分すればいい。邪魔な子どもがいなくなれば、あとは何とかなるだろう」
「おい、ルシア!」
ミッチェルの制止もきかず男につめよった。
「ふざけんな! 子どもをおろせば済むと思ってんの? たとえ望んでできた子じゃなくても、そんなことしたら妹さんの心は傷つく。一生、罪悪感を背負ったまま生きていかせたいわけ?」
「なら俺はどうすればいいんだ。どうすればよかったんだよ」
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