第28話 慰め、慰められる

 「あんた、名前はなんてんだ?」

 あっという間に日が暮れ、焚かれた火のゆらめきを通してボスの顔を見た。

 「私たちは互いに利用してるだけ。名前なんて知る必要ない」

 視線を外し遠くの空を見上げた。見えるのは星の瞬きだけで人工的な明かりはひとつも見つからない。

 どのくらいミッチェルから離れてしまったのだろう。

 サミュエルから言付けを聞いたなら助けは期待できない。自分だけが頼りだ。だがたとえ逃げ出せたとしても帰り道がわからない。

 沈んだ気持ちで考えた。

 「あんたの旦那はそんなにひでぇ奴だったのか?」

 「なに?」

 火の周りを囲んでいる男たちを見回した。彼らは砂漠で火を囲むなんて日常茶飯事だというように、のんびりとあぐらをかいている。

 「知らねー男に身売りしたほうがマシだと思うほどせっぱ詰まってたのか?」

 ようやく合点がいった。苦し紛れにした作り話を彼らは真に受けているのだ。

 それどころか同情までしているようだ。上手くいけば帰してもらえるかも。

 「いいえ。そんなにひどくはなかった。ただ彼に私のありがたみをわからせたかっただけなの。だから申し訳ないんだけど…」

 ボスが鞍袋から取り出したビンの中身をぐいっと煽り、ダッグにまわした。

 そういえば長い間なにも口にしていない。得体の知れない飲み物を凝視した。

 「それは無理だ。俺たちには俺たちの事情があるんでな」

 「そうさ、俺はあんたを売った金で自分だけの女を買うんだ」

 ダッグの言葉に同意するようにボスが握りこぶしを掲げた。

 あきれて頭を振った。

 無口な男にビンが渡った。

 「あなたにはどんな事情があるわけ?」

 男は液体をたっぷり腹に収めてからルシアの手にビンを押しつけた。

 「女」

 なるほど。そろいも揃って女を買うために別の女をさらったわけだ。

 ビンを火にかざして中身を透かした。水にしては黄みがかっているように見える。

 「これなに?」

 「ウイスキーさ。安物だが酒には違いねぇ。あったまるぜ」

 たしかに日中の暖かさが嘘のように冷え込んできた。

 ビンに口をつけかけたが、ミッチェルのベッドで目を覚ました朝を思い出してやめた。

 二度とお酒なんて飲むもんか。

 「いらない」

 ビンを受け取ったボスが再び煽ってから栓をした。

 「俺たちと同じ酒は飲めねーってか」

 口を拳で拭って続ける。

 「俺は従順な女を買う。何でも俺の言うことを聞く、おっぱいのでけぇ女じゃなくちゃならねー」

 男たちの下卑た笑い声が響いた。

 「ねえ、何か食べ物はないの?」

 「あんたを売ったらうまいもんも腹いっぱい食えるぜ。だが今は寝て忘れるしかねえな」

 男たちの前で横になるのは嫌だった。今のところはなにもされていないが、酒が回れば私が大切な商品だということを忘れてしまうかもしれない。

 「あなたたちは?」

 「そうだな。じゃあ最初はジョルジュが見張りだ。二時間したら起こせ」

 ボスが無口な男のほうを向いた。

 「見張りがいるの?」

 全員が寝込んだら馬を奪って逃げられたかもしれないのに。

 「当然だ。盗賊が出るかもしれねーし、あんたが逃げるかもしれねー」

 「失礼ね」

 気分を害したふりをして、男たちに背を向けて横たわった。

 これ以上渋っても余計怪しまれるだけだ。それに感情を隠すことにももう疲れた。

 背後で男たちが横たわる音が聞こえる。

 体に腕をまわし暗くて見えない稜線を見据えた。すぐに耳障りないびきが聞こえてきたが、ただ自分を抱きしめ続けることしかできなかった。

 どれくらい時間が経っただろう。時間ができると嫌なことばかり考えてしまう。

 無意識に温もりに近づいた。

 「それ以上さがったら尻に火がつく」

 びくっとして動きを止めた。そっと頭だけ動かして後ろを見た。

 知らない間にかなり近づいていたようだ。しぶしぶ火から離れた。

 「ありがと」

 「ずっと震えてた」

 返事はしなかった。無口な男が急におしゃべりになったからといって、その話し相手に選んでほしくなんかない。彼だって私をさらった一味なのだから。

 砂を踏みしめる音がする。

 「新しくないけど洗濯はしてある」

 体の上に薄い毛布がかけられた。向こうを向いたまま男が自分の場所に戻るのを身を硬くして待った。

 何事もなかったように広い砂漠になけなしの静けさが戻ってくると、指先だけ動かして生地をなでた。何度も洗濯されたせいでごわついている。

 だが繭に包まれているように温かく安心感がある。

 「…ありがとう」

 今度は男のほうがなにも言わなかった。

 寝返りを打ってジョルジュのほうを向いた。火をうけて顔に陰影ができている。何を考えているのか一心に燃える炎を見つめていた。

 男がこういう顔をしているときは、慰めが必要なのだ。たとえ相手がそれを認めなくても。

 「大丈夫?」

 「こんなはずじゃなかった」

 「なにが?」

 ジョルジュは頭を振った。

 「妹のために金が必要だった。儲かる仕事があるって、まさか人をさらうなんて知らなかったんだ」

 どんな理由があろうと彼は道を誤った。だが聞かずにはいられなかった。

 「妹さんは小さいの?」

 男の表情が緩んだ。

 「俺にとってはいつまで経っても小さなままだったが、知らない間に成長してたんだな」

 顎が引き締まったことから何かよくないことが起こったのだとわかった。

 「久しぶりに帰ってきたと思ったら、目の周りにあざをこしらえて、妊娠したって。相手の男はどうしたって聞いてもなにも言わなくて。それでも必死で問い詰めて、そしたら…」

 「そしたら?」

 「相手は俺の仕事仲間だった。つい頭に血が昇って気づいたらそいつを殴りつけてた。養わなきゃならない家族が増えるってのに、そのせいで仕事をなくしてしまった」

 少しの間、聞こえるのは眠りについた男たちが奏でる不協和音だけになった。

 もうなにも話す気がないのかと思ったころジョルジュが静かに話しかけてきた。

 「謝っても許されないのはわかってる。でも本当に申し訳なく思ってるんだ。俺はなにもしてやれないが、せめてあなたが、今夜何事もなく眠れるように見守っている。だから安心していい」

 ふさわしい言葉が見つからなかった。状況はなにも変わっていない。それでも心がほぐれていた。彼も少し気が楽になっていればいいと考えながら、踊る炎を見つめているうち、催眠術にかかったようにまぶたが下がっていった。

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