第33話 許嫁が現れる

 建物の中に入ると、ひんやりとした空気が火照った肌を舐めた。長い廊下をさらに駆け、最後の角を曲がったとき、思いがけず訪問者と出会ってしまった。

 「ミッチェル」

 老成した男の射るような視線がルシアを捉えた。

 「周囲に示しがつかないぞ」

 失礼なほど長く留まっている視線に、ブラウスの皺を撫で付けたくて手がうずうずした。

 「申し訳ありません。不測の事態が発生したもので、いつもとは勝手が異なるのです。それで、そちらの方は?」

 男の半歩後ろにいたのと、背丈が子どものように小さかったために彼女の存在に意識が向かなかった。

 「サルバーニュ王国の第一王女であり、おまえの許嫁だ」

 彼女が目深に被っていたフードを外すと、ミッチェルが小さく息を吸い込んだ。

 「リゼと申します。ミッチェル様が覚えていて下さればよろしいのですが」

 リゼは稀にみる美女だった。まだあどけなさが残っているが、歳を重ねればさらに美しさを増すだろうと予想させる顔立ちだった。

 王家に生まれる者にはもれなく美を授けるなんて、神はいったいどういう了見なんだろう。

 ミッチェルはあいかわらず彼女に見惚れている。サンバルト公なる男が見ているから引っぱたくこともできない。

 「お隣の方はどなたですか?」

 自分が話題の中心になっていることに気づいて、ミッチェルを見上げた。

 「ああ。ルシアだ」

 それ以上説明はなかった。私はただの女ってわけね。

 「御髪になにか…」

 冗談を思いついて、ミッチェルが取ってくれたものを早々に奪い返した。

 「ただのストローです。カフェを営んでいるので」

 ミッチェルは口角を上げ、公爵は口元をぴくりとさせたが、王女は変わらずに静かな笑みを浮かべたままだった。

 袖を引っ張って彼に身を屈めるよう促した。

 「私はいなくてもいいでしょ。お風呂に入りたいの」

 彼は難しい顔で視線を這わせるとかすかに頷いた。

 どうせ綺麗な許嫁と、一日分の汚れがたまった私を比較しているんだろう。

 「飯は食ったのか?」

 ミッチェルから顔を背けた。こんなときまで気遣わないでよ。

 ひがみっぽい自分が嫌になる。

 「たらふくね」

 高貴な集団に軽く頭を下げ、ハーレムへ急いだ。

 逃げるのは自分らしくない。

 意識して歩調を緩め、弱気な自分と共に握り締めたままだった藁を投げ捨てた。



 「父さん、ブランデーでもいかがですか。君にはシェリーをお出ししよう」

 ミッチェルの視線は二人を通りこえて、小さくなっていくルシアに据えられていた。

 「どうぞ、リゼと呼んでください」

 目を公爵の腰ほどの高さに転じた。

 愛らしい娘だ。若造ならば笑いかけられただけでのぼせ上がるだろう。

 「わかった。部屋へどうぞ」

 ドアを開けて振り返ると、ルシアが何かを振り払っているところだった。

 あいつはいったい何をしているんだ?

 「ミッチェル様。私、少々疲れてしまって。お部屋で休ませていただいてもよろしいでしょうか?」

 「ああ、もちろん。部屋までお送りしよう」

 「いえ、大丈夫です。殿方には積もる話もおありでしょう。誰かに案内を頼みますから。では、また後ほど」

 リゼのお辞儀はルシアのように投げやりではなく、幼い頃からの躾の賜物だった。

 久しぶりに王として扱われた気がする。それなのにつまらなく感じるのはなぜだろう。

 首を振りながら、先に部屋のソファーでくつろいでいた公爵にブランデーを渡し、自分も腰をおろした。

 「父さんがリゼと結婚なさってはどうです? 独りは寂しいでしょう」

 「そしておまえはあの変わった髪の娘と一緒になるのか?」

 時間を稼ぐためにブランデーをすすった。

 「別に。まだ身を固める気になれないだけです」

 「気の強そうな娘だったな。躾けるのに手を焼くのではないか?」

 初めは自分もルシアを手懐けてやろうと意気込んでいた。だがそれもこれも彼女を深く知る前の話だ。

 なにも知らないくせに、彼女には手綱が必要だといわんばかりの物言いは納得がいかない。

 「人一倍優しい女です。本人にはそんな意識はないのでしょうが」

 公爵は訳知り顔で目を細めた。

 「おまえには幸せになってほしい。だからこそ地位のない娘との結婚は認めない」

 空になったグラスを置いた。

 「わたしは何も言っていないでしょう」

 「サルバーニュ王国は希少な資源を有している。王家の結びつきで同盟はより強固なものとなり、わが国はますますの繁栄を誇るだろう。おまえは王だ。その意義を忘れてはいけない。第一に考えるべきは民のこと、そして国の発展だ」

 その通りだ。王である以上、個人的な感情は二の次だ。

 あれもしまわなければなるまい。

 チェストの上に置いたままのプレゼントに視線をやった。昨日、あれを買っている間にカフェが襲われていたのだ。

 義務を怠って国を破滅させるわけにはいかない。

 「わかっています」

 「どのみち神の御前で誓いを立てるとき、相手は生娘でなければならない。あの娘には無理なことだろう」

 公爵はミッチェルの物言わない目を見返して、哀愁のこもった笑みを浮かべた。

 「おまえの母親も、わたしの言ったことが気に食わないとき、よくそんな顔をしていた」

 「母さんが?」

 母親の記憶といえば、優しく頭を撫でて笑いかけてくれたことくらいしかない。父に対しては、怯えているといってもいいほど従順に見えた母の意外な一面だった。

 「異国の暮らしに馴染めなかったのだろう。おまえが目をかけている娘、あの娘も別の場所からやって来たのではないか?」

 「なんのことでしょう?」

 公爵はしばらくミッチェルの目を見返してから、ふっと笑った。

 「上手くなったな。ときおり、おまえに過度の負担を強いてしまったのではないかと後ろめたくなる。もし彼女が生きていたなら、おまえもわたしも、違う生き方をしていたのかもしれない」

 公爵が手の中でグラスを転がした。

 「あの娘がどうかは知らないが、彼女は異邦人だった。ずっとずっと遠く、地図にも載っていない土地の民」

 「なぜ急に母さんの話を?」

 「彼女は自分の国ではお産で命を落とすことなどないと言っていた。なのに彼女は逝ってしまった。異国の民は体が弱いのだ。おまえにはわたしのように妻を失ってほしくない」

 考えもしなかった要素に身を強張らせた。

 お産で女が死ぬこと自体は珍しいことではない。しかし父さんが言うように、別の世界から来た女が、特別に体が丈夫でないのだとしたら?

 不必要な労を強いて、ルシアを失うわけにはいかない。

 「ご安心ください。エルフレッド王国の跡継ぎは、純粋な王家の血を引くことになるでしょう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

玉座も鏡にゃ映らない しすい @Lucia

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ