第19話 世話をされる

  「おはよう、ベン」

 昨日と同じように黒い頭が馬房のひとつから覗いた。

 「昼飯を食ってから来いと言ったのに。馬の世話が先だからな」

 「わかってる。お手伝いに来たの」

 彼のいる房の前にはすでに汚れた藁の積まれた一輪車が置かれている。ルシアはミントグリーンのずっと小さな一輪車を押していった。

 「今日はあなたが馬の世話を終わらせる前にすべて運んでみせる」

 ベンは肩をすくめて馬の世話に戻った。

 大きなフォークで自分の一輪車に汚れた藁を移し始めたが、小さいためにすぐにいっぱいになってしまった。

 それを押して汚れた藁の墓場に捨て、また積んでは捨てに行った。ベンの一輪車が空になるまでに三往復しなければらなかったが、実際は運んでも運んでも、汚れた藁が追加されるので空になることはなかった。

 最後の藁を捨てるのと、ベンが世話を終えるのがほぼ同時だった。

 ベンはルシアの全身を眺めて、初めて口角を上げた。

 「汚いな―あんたみたいな女は初めてだ。どこまでも頑固でまったく言うことを聞かない」

 「悪い? 汚さで言えばあなただってどっこいどっこいじゃない」

 腰に手を当ててベンを睨んだ。

 手には知りたくもないものが付いていたが、どうせ服だって汚れてるのだからかまわない。

 「せっかくお昼ご飯を作ってきたのに、あなたにはあげないから」

 琥珀色の瞳が、ドキッとするほどミッチェルそっくりに輝いた。

 「それを早く言え。悪かった、昼飯は何だ?」



 昨日と同じところに腰を下ろしてバスケットを開けた。

 「サンドウィッチか。中身は何だ?」

 ベンは質問の答えを聞く前に大きくかぶりついていた。

 目を閉じて味わっているベンを眺めた。

 「美味いよ。男は料理の上手い女房を持つべきだな」

 「そんなお世辞を言わなくてもあげるわよ。もっとどうぞ、いっぱい作ったから」

 彼がふたつめを頬張っている間に、バスケットからオレンジとミルクの入った瓶、チョコチップクッキーを取り出した。

 ミルクを注いでも彼は受け取ろうとしない。

 「エールはないのか? ウイスキーは? ワインでもいい」

 「ミルク。飲み過ぎは体に悪い」

 「口うるさい女房は勘弁だ」

 ベンは大人しくミルクに口をつけた。

 「心配しないで。あなたの奥さんにはならないから」

 ベンはクッキーを手に取った。

 「おれが厩番だからか? 脚が悪いから?」

 眉を上げてベンの表情を探った。

 冗談で受け流してもいい。だが彼の目は真剣だ。

 「そんなことじゃない。どの仕事だって立派だし、あなたの脚は十分に役目を果たしてるじゃない」

 「でもおれじゃない。あんたは王が好きなんだろ?」

 風がさわさわと草葉を弄ぶ。ベンはルシアの手首を見ていた。昨夜、ミッチェルに縛り付けられて好きなように弄ばれたから、すれて少し赤くなっている。

 顔が熱くなったが事実は事実だ。

 「…ええ。だからあなたに、ミッチェルと仲良くしてほしいと思ってる。彼はそのことで苦しんでるから」

 ベンは鬱陶しそうに髪をかきあげてからクッキーを口に入れた。

 「生まれたのも二分しか違わないし、見た目だってそっくりなのに兄は王になるように育てられた。おれは一応次男だからある程度の自由があったが、彼は勉強に馬に剣術、政治、あらゆることを幼いころから詰め込まれてきた」

 ベンが兄と呼んだ。これは大きな進歩だ。

 「大変だったでしょうね。小さな子が多くを背負って」

 「だろうな。おれはじっと机に向かってるのは性に合わなかった。いたずらをしてるほうが楽しかったし、けんかも強かった」

 「目に見えるようだわ」

 ふっとベンの表情が和らいだ。

 「時々入れ替わったりしたんだ。彼にも息抜きが必要だろうと思って―誰も気づかなかった」

 「今だってみんな気づかないわよ、私以外は」

 ベンはまたクッキーをつまんだ。

 「あんたの目はごまかせそうにないものな。愛する男とただの厩番を間違うはずがない」

 「自分を卑下するのは―」

 彼の目を見て言うのをやめた。からかってるんだ。ベンの目は不安げなユーモアに煌めいていた。

 だがすぐに光を失った目を膝に落とした。

 「あいつらが死んだのはおれの責任だ。それを忘れることはできない」

 仲間を失ったことがミッチェルとの確執の原因なら、彼は勘違いしている。

 「ミッチェルから聞いたの。残念だけどあなたの部下は砂嵐にやられた。あなたがいたところで何も―」

 「知ってる。ほんとは知ってたんだ。だが受け入れたくなかった。だから喪失の痛みを彼のせいにし、すべての不幸を彼に転嫁した」

 「別に悪いことじゃない。大切な人たちを失ったばかりだったんだから」

 ベンは頭を振った。

 「おれが兄弟の絆を断ち切った。彼に背を向けることで、絆も失うとは考えもしなかった。だから彼はおれの仕事を奪ったんだ」

 ルシアは焦って言葉を継いだ。

 「ちがうの。それはあなたのことが心配で失いたくなかったから。もしあなたが本当に望むなら、軍に戻れるはずよ。でも…」

 「何だ? 何か言いかけただろう」

 「戻ってほしくない。毎日ベンは無事かなって心配して暮らすなんて私には無理。それに馬たちだってあなたがいなきゃ困るわ。見てればわかる。厩番はあなたにとって天職よ、ベン」

 彼はしばらく黙っていた。 

 「…戻るつもりはない。そしたらあんたが兄を困らせるのを見られなくなるからな―だが彼はおれを許してくれるだろうか」

 「そりゃあもちろん、泣いて喜ぶわ。私がお膳立てしてあげる」

 残ったクッキーを全て差し出した。

 「さっさと食べちゃって。今日こそは馬に乗りたいんだから」



 ミッチェルが輝く笑顔の出迎えを期待して自室のドアを開けると、ルシアは身動ぎひとつせず手足を投げ出してベッドの上でうつ伏せになっていた。さながら壊れた人形のようだ。

 「どうしたっ?」

 慌ててルシアを抱き起こした。

 「ううぅー」

 よかった、死んではいない。

 「何があったんだ? 大丈夫なのか?」

 軽く揺さぶると喘ぎながら目を開けた。ぼんやりとした目が彼を捉えると嬉しそうに細められた。

 「あぁ、ミッチェル。お帰りなさい」

 手で体を撫でまわし、どこも怪我をしていないことを確かめた。

 「寝てたのか。何ともないんだな?」

 「ううん。痛いの、どこもかしこも―まるで馬に乗ってたんじゃなくて、一日中地面を引きずり回されたみたい」

 その言葉にルシアを抱きしめたまま愛好を崩した。自分がそんな経験をしたのは思い出せないほど昔のことだ。物心ついたころには馬にまたがって生まれてきたかのように一人前に乗りこなしていた。

 「それはつらいだろう。ベネディクトにしごかれたんだな」

 「彼は教えるのが上手ね。厳しかったけどゆっくりなら一人で乗れるようになった」

 ルシアが弟を褒めるのを聞いて嫉妬心と共に誇りを感じた。

 「筋肉痛を和らげる軟膏を塗ってやろう。ずっと体が楽になる」

 「うーん」

 顔が否応なくほころんでしまう。きっとだらしのない顔をしているんだろう。今のルシアは人形だ。自分では動くこともままならないから、わたしの好きなように彼女を扱うことができる。

 「よしよし、服を脱がせるからな」

 ルシアを生まれたままの姿にしてバスルームに軟膏を取りに行った。

 戻ってきたときもちっとも動かず、そのままの状態で目を閉じていた。

 「そんなにひどいのか? 明日は奴隷を買いに行こうと思っていたんだが―」

 ぱっと目を開いたルシアが強い光を湛える瞳で彼を射抜いた。

 「行く。私も連れて行ってくれるでしょう? 馬にも乗れるし」

 ぼんやりと瓶の蓋を開け、淡い緑のねっとりとした軟膏をたっぷり掬い取った。あたりにハーブや獣脂などのツンとするにおいが立ち上る。

 「だめだ。おまえは馬車に乗っていく」

 白くなめらかな肩に軟膏を塗りつけ、大きな手で揉みこむと彼女が体を強張らせた。

 「ふうぅー…連れてってくれるんならなんでもいい」

 手を背中に滑らせながら揉んでいくと強張りがほどけるのがわかる。

 いつのまにか奴隷市に連れて行くことを前提として考えていた。はじめはその存在すら知られたくなかったというのに。

 自分の荒れた黒い手とは違う白いやわらかな肌に目が釘付けになる。彼女はどこもかしこも丸くてやわらかい。その心さえも情け深く、どんなことも受け入れて包み込んでくれる。

 こんな気持ちになったのは初めてだ。どんな女を抱いてもすぐに飽きてしまうのに。欲望は癒せても、すぐに空虚な心の存在を思い知らされてしまうから。

 だがルシアは、最初から違った。

 一度抱けばこの胸の疼きも収まると思った。なのに現実は体を重ねれば重ねるほど、彼女がほしくなる。

 その一方でただ抱きしめているだけでもいいと思う。

 彼女に自分の烙印を押したいと思うのに、誰にも触れられないように、どんなものからも守ってやれるように大事にしまっておきたいとも思うなんてわけがわからない。

 ルシアを仰向けにすると謎めいた黒い瞳にであった。

 何を考えているんだろう?

 女たちの望みはいつもはっきりしていた。彼女たちがわたしに求めることはひとつしかない。

 肩のくぼみに顔を埋めて息を吸い込むと、軟膏のにおいとあいまっていつもとはちがうエキゾチックな香りがした。

 「おまえだけだ。わたしにとっておまえは特別なんだ」

 頭を撫でられて、子どもの頃の記憶が蘇った。

 「母さん…」

 ルシアがくすっと笑った。

 「あなたマザコンなの? それとも子どもが先生のことをついお母さんって呼んじゃうみたいなこと?」

 「どっちでもない。母さんのことを思い出しただけだ」

 「お母様は…」

 「弟を産んだときに死んだ」

 そのことを話すつもりはなかった。だからルシアがそれ以上聞かずにただ髪をなでてくれることに感謝した。


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