第20話 奴隷市でふっかけられる

 「いいか、もう一度確認するぞ」

 「いいわ」

 上手く言いくるめたルシアは満足げに揺れる馬の背でミッチェルにもたれかかった。

 今日もいい天気だ。空はどこまでも高く青い。そよぐ風がさわやかな緑のにおいを運んでくる。

 「ちゃんと聞くんだ、ルシア。あそこはただでさえ危険な地区なのだから」

 「心配しないで。わかってるから」

 「本当に?」

 ミッチェルの声色はとても信じられないと言っている。

 意識して声を低く出すように努めた。

 「ああ。まずは話し方に気をつける―今は男なんだからな」

 奴隷市へ行くのに男装をすることになった。その方が危険に遭いにくいと、一歩も引かぬ構えでミッチェルが言いはったから。

 彼はふっと笑った。

 「上手だ。だがよほど気をつけないと気づかれてしまう。おまえには硬い部分が一個もない。抱くにはいいがどこもかしこも丸すぎる」

 ミッチェルの視線がハンティングキャップに押し込まれた太陽色の髪から、銀縁の伊達メガネに移りベストに隠されたふくらみに落ちた。

 宮殿を出る前にミッチェルに綿密な身体検査をされた。

 胸にきつく布を巻いてブラウスを着ただけでは彼の厳しい検査をパスすることはできず、その上にこの馬鹿げたベストを着せられた。

 わさび色のハンティングキャップに銀縁メガネ、マスタード色のベストを着てねずみ色のズボンを履けば、がり勉少年のいっちょあがりという訳だ。

 「これじゃまるで知ったかぶりの生意気少年みたいじゃない」

 「もう女言葉に戻ってる。生意気なのはもともとだろ」

 「悪かったな。あんたは落ちぶれ領主って感じだ―ねえ、この話し方、着いてからにしてもいいでしょ。喋りにくい」

 ミッチェルは鼻の下の付け髭を指先でなでた。金メッキのチェーンが付いた片メガネが太陽にきらりと反射する。

 どこをとっても安っぽい。

 「例えるのが上手いな―今から練習しておいたらぼろが出ないだろ」

 「生意気な少年と安っぽい貴族って逆に目立つんじゃない?」

 「ああいった人間は金さえ手に入れば相手が誰だろうと気にしない。だからこそ弱みを見せてはいけないんだ。容赦なくつけこまれる」

 「わかった」

 「くれぐれも無茶はしないでくれ。いいな、けっしてわたしのそばを離れてはいけない」

 「わかってる」

 手綱を握る彼の手に手をかぶせた。大きさが違いすぎて全てを包み込むことはできないが、彼を安心させたかった。

 「―ミッチェル? 私、感謝してるの。あなたのおかげで知ったこともいっぱいあるし、一人きりでこの国に来てしまったけど、一人ぼっちじゃないって思えた」

 口角をあげていてもミッチェルの顔は強張っていた。

 「やめてくれ。まるで別れの言葉みたいじゃないか」

 目を閉じて馬の歩みに身をゆだねる。揺りかごのような優しい揺れではない。体の芯から揺さぶられるような感じ。それでいて不快なんかじゃなく、自分もまた自然の一部だと思わせるような揺れ。

 「どんな人間を買うか決めてるのか?」

 ミッチェルの口調は不自然なほど明るかった。きっと不安な気持ちを押し殺しているのだろう。

 「ええ。女の子を一人と考えてる」

 いまだに人間を買うという考えはしっくりとこない。

 自分が全ての奴隷を救い出してやれるわけでないことはわかっているが、たった一人でも安全な暮らしを与えてやれればと思うのは身勝手なエゴなのだろうか。結局私は檻の前にたむろしている人間と同じなのかもしれない。

 「それはいい。ハーレムに入れておけば安全だ。男となると男色でない限り仕事が限られるからな」

 「あぁ…」

 ミッチェルにはまだ話していなかったが、買った子をハーレムに入れるつもりはない。ミッチェルには悪いが、それはただこっちの檻からあっちへと違う檻に移されるのと同じことだ。

 ミッチェルが声をひそめた。

 「ここからは歩いていく。わたしのそばを離れるな」

 


 あたりの空気は張りつめている。ぴりぴりとした緊張感が伝わってきて今にも叫びだしてしまいそう。

 汚物のにおいが鼻をつくがそんなことは気にもならない。

 檻の前には人だかりができていて、らんらんと異様な光に目を輝かせた人間の熱気がここまで伝わってきた。

 「何か変じゃない?」

 小さな声でミッチェルに聞いた。彼も気づいているようで緊張を体にみなぎらせてあたりに目を光らせている。

 もちろん彼は王だから数人の男が私たちを護衛している。とはいえミッチェルは注意を怠らない。この危険な地区では何が起こっても不思議ではない。

 「ああ。だがもうすぐわかるだろう」

 人ごみに包まれると背丈で負けるルシアには前の人間が邪魔で檻の中がよく見えなかった。

 バイヤーの興奮を煽るように奴隷の主人―あのとき汚い手で少年の尻を掴んでいた卑しい男―が声を張り上げた。

 「特別なのが入荷してますよ。今日を逃せばめったにお目にかかれない―」

 期待を高めるために主人は間を置いて告げる。

 「怪物です!」

 バイヤーたちは、はっと息を呑んだ。

 皆が主人の言う怪物を見ようとおしあいへしあいしたので、ミッチェルが肘に手を添えて体を支えてくれた。

 何度来たところで胸が悪くなる。見た目が安っぽいミッチェルの服装よりもずっと立派な紳士風の人物も、歯の黄ばんだ薄汚い格好の男も同じ穴のむじなだ。

 見た目が美しいからといって心も綺麗だというわけではない。腐りきった人間であっても顔がいいということは十分にありうる。

 主人が乱暴に鎖を引っ張ると、つんのめった少年が前のめりに倒れた。

 「立て、この役立たずの化け物が!」

 鞭がひゅっとうなって少年の骨ばった背中を打った。肉を打つ重く気分が悪くなる音に観客は沸き立った。 

 「やめなさい!」

 相手を傷つけるためだけの暴力を目の当たりにしてミッチェルとの約束など頭から吹き飛んだ。

 汚い人間たちを肘で押しのけ一番前まで進み出た。

 「おっと坊ちゃん、英雄気取りかい?」

 主人は歯の抜けた大きな口を歪めて笑った。

 ずんぐりむっくりの汚い男。私と背丈はほとんど変わらないのに、奴隷を売って稼いだ金で肥えた腹をベルトの上に載せているから失敗作の雪だるまのようだ。

 「こういう奴は鞭をくれなきゃ理解しねぇのさ」

 もう一度、少年を打ち据えようと身構えた男に飛びついて鞭を取り上げた。

 「なにしやがんだ、このガキ!」

 男が拳を振り上げたが怖くはない。アドレナリンが出ているから、例えぶたれたとしても痛みは感じないだろう―肉の肥えた男だ。拳があたるとも思えないが。

 「彼に手をあげたらただじゃおかない」

 ミッチェルが隣に来てすごんだ。

 男は瞬時に大人しくなりやらしい顔でゴマをすった。

 「まさか、そんな。坊ちゃんが先に手を出したんで。旦那のお知り合いですかい?」

 ミッチェルの顔は引きつっている。彼もこんな人間と同じ空気を吸うのも嫌だと考えているのだ。

 「貸しなさい」

 ミッチェルが手を出すのでやり場に困っていた鞭をありがたく渡した。彼はしげしげと眺めてから数度振った。ヒュッヒュッと風を切る音が静かに成り行きを見守っているバイヤーたちの一番後ろまでも聞こえているはずだ。

 「旦那?」

 ミッチェルは鞭を手にしたままだ。男に返すつもりはない―いや、男がまた暴力を振るおうとしたら躊躇なく振るうつもりだ。

 男もミッチェルの考えを理解したようで、肩をすぼめて檻のほうに向き直った。

 「化け物、こっちにきてお客に姿を見せろ」

 少年は肩を落としてルシアのほうを向いた。

 彼の目はたしかに変わっていた。だが怪物などではない。不揃いだがとても美しいブルーとグリーンの瞳。

 「どうですかい、旦那」

 「男はいらない」

 これ以上ないほど強張った口調だった。

 私も訳知り顔でニヤニヤしている男に吐き気がしてきた。

 「女ですか。なら若いのがいまして…姉妹なんですがね、上のはやられちまってるが、妹のほうは新品で」

 男が引いた鎖の先には女というには幼すぎる女の子が二人いた。怯えきって震えているのが妹だろう。顔立ちは垢と砂埃にまみれてよくわからないが、ほんの四、五才しかちがわないのだろう。それでも姉のほうは男を睨みつけていた。

 姉と目が合うと、彼女は切羽詰った様子で叫んだ。

 「妹を、どうか妹を買ってやって」

 「黙りやがれ! お前なんかが話していいと誰が言った!」

 「あんたこそ黙れ!」

 ルシアは男を睨みつけて怒鳴った。少女のほうを向いて微笑みかけた。

 「どうして妹を売ろうとする。二人一緒のほうがいいだろう?」

 「ここにいるよりずっと幸せだと思うから。あなたなら妹にひどいことはしないでしょ…?」

 もちろん。心の中で答えた。

 彼女には逆境でもめげない強さがある。だが妹のほうは下を向いて震えているだけだ。あの子一人ではここから出してよくしてやっても、とても生きられないだろう。

 「二人とももらう。姉妹を離れ離れにするのは忍びない」

 ミッチェルに相談もせずに勝手に決めてしまったが、彼は怒っているようには見えない。

 「では姉は五十ルリ、妹は百二十ルリといったところでどうです?」

 男の狡猾な表情はけっして忘れられないだろう。

 「ふたりで百だ。そうじゃなきゃ買わない」

 ミッチェルは冷たい光を目に浮かべて一歩も引かない構えだ。

 「それじゃあねぇ…ほかにほしいお客がいるんでさぁ」

 「では結構だ」

 驚いてミッチェルを見た。

 そりゃあ最初は女の子一人だと言ったけど、でもこの子たちを見捨てるわけにはいかない。

 男も困ったようにおろおろとミッチェルを見て唇を舐めた。

 「わかりやした。負けましたよ、旦那。百ルリで売りやしょう」

 ミッチェルは表情ひとつ変えなかった。

 彼はわかっていたのだ。男が折れることを。

 『弱みを見せてはいけないんだ。容赦なくつけこまれる』

 なるほど、そのとおりだ。

 ミッチェルが懐から金の入った袋を取り出す間、ぼんやりと少年を眺めていた。

 彼は肩を落として下を向いている。骨ばった細い体…。ちゃんとご飯は与えられているのだろうか。育ち盛りだろうに。

 「大丈夫?」

 少年は顔を上げなかった。

 檻に近づいて手を差し伸べ、少年にだけ聞こえる声で尋ねた。

 「あなたは何歳なの?」

 「…十六」

 あの子と同じ歳。

 「この子も―彼もほしい」

 思いのすべてをこめてミッチェルを見つめた。

 「坊ちゃんは男が好きか?」

 男のいやらしい笑い声なんてどうでもいい。どう思われてもいい。彼をここから救い出してやりたい。

 ミッチェルは目を細めてまじまじと見つめ返してきた。

 「値段は?」

 男は嬉しそうに笑った。

 「千ルリ。だめですぜ、今度は何を言われてもこれ以下では売れねぇ」

 人間の価値に値段をつけるのに高すぎるということはない。だが周囲のざわめきからそれが法外な価格なのがわかる。

 それでもひくわけにはいかない。

 「お願い…」

 ミッチェルは袋を振って金属音をさせた。

 「金はある。先に彼らを出せ。騙されちゃかなわない」

 男は檻を開けて三人を出したが手枷はついたままだ。

 「金をもらったら鍵を渡しやすよ」

 ミッチェルは袋から金を取り出して男の手に落とした。手元に残ったのは銀貨がほんの数枚だけだ。

 「まいどあり。そいつにそれほどの価値があればいいですがね」

 鍵と奴隷証明書を渡したあと男は少年の体をなめるように見た。

 虫唾が走った。これ以上顔を合わせていたら、本当に吐いてしまうかもしれない。

 「行こう。向こうに馬車を待たせてある」

 ミッチェルに背中を押されて馬車に向かった。彼らは逃げようとせず、大人しく前を歩いていた。そもそもどこへ行くというのだろう。彼らの居場所はどこにもなかったというのに。

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