流れ着いた意味

第9話 誘惑される

 ミエルバの吸収力はすごかった。まるで乾燥しきったスポンジが水を吸い込むように、ルシアが教えたことを次から次へと覚えていった。

 二週間もするとひらがな、カタカナは読み書きが出来るようになり、漢字は小学校の三年生くらいのレベルなら、読めるようになっていた。

 「あの子はすごいわ。毎日、私が与えた宿題だけじゃなくて自分から進んで勉強してるの。受験生だってあんなに熱心じゃないでしょうね」

 ルシアはテーブルを挟んで彼に向かって微笑んでいた。その笑みはまるで、自分の子を自慢したくてたまらない母親といった風だとグラスを傾けながら思った。

 ルシアにミエルバを任せたのは正解だ。女が学ぶことを全面的に支持するわけにはいかないが、ミエルバは今までにないほど楽しそうにしている。ルシアもやることが出来て毎日充実しているようだ。

 なら何が不満なんだ? 彼は自問した。

 水がはねる音に目を向けると、ルシアがグラスに水を注いでいた。彼女はあの日以来、酒を口にしていない。毎晩、夕食をともにしているが、食べ終えるとルシアはそそくさとハーレムに戻っていく。

 そうだ。問題は一日の十二分の一しか一緒にいられないことだ。わたしには仕事がある。一国の王として疎かには出来ない大切な仕事だ。

 だがルシアといることも大切だろう? 彼女は一人きりで馴染みのない国にいるんだ。この前ミエルバもルシアが泣いていたと言ってたじゃないか。

 「何を考えてるの?」

 ルシアがフォーク片手に眉をひそめていた。

 「何だと思う?」

 ルシアは皿を見下ろし、オレンジを口に入れてゆっくりと味わった。彼には理解できないが、彼女は肉やパンを食べる合間にデザートをはさむ。

 「わからないから聞いてるのよ。だけどすごく―」

 「すごく、何だ?」

 「悩んでるみたい」

 グラスの淵を指先でゆっくりとたどった。

 「おまえが解決してくれるか?―服を脱いでベッドに横たわってくれたら…」

 思わせぶりに言葉を切り、パンをちぎって差し出した。

 「どうしてそうなるの?」

 そう言いながらもルシアは受け取って口に入れた。

 「もう二週間になる。知らなければ耐えるのも容易いが、味見してしまったからな」

 「女が欲しいならいっぱい…」

 「おまえはそれでもいいのか? わたしがほかの女を抱いても、おまえは気にしないのか?」

 王になって最初に学んだ無表情の仮面を身につけじっとルシアを見つめた。本当はどんな答えが返ってくるのか興味深々だったのだが。

 蜜蝋色の髪で顔を隠し、長いことルシアは黙っていた。答える気がないのかと諦めかけた頃にようやく口を開いた。

 「私、サミュエルが女にキスしてるのを見たとき、腹が立った―」

 ルシアはサミュエルのことが好きなのか…?

 彼女は手を組むと強く胸に押し付け俯いた。

 「だけどあなたが、ほかの女に触れているのを想像すると…胸がぎゅって締め付けられたみたいで苦しい」

 いやはや。わたしの女はふとした瞬間、純情な乙女に姿を変える。そんな言葉を男にかけるのがどれほど危険なことか、初心なルシアは気づいていない。困ってしまうほどストレートな想いは、計算しつくされた睦みごとよりもよほど男を刺激する。

 それから手を離しパッと顔を上げると、蝋燭の灯り越しに睨みつけてきた。

 「それであなたが二度と出来ないように、大事なところを握りつぶしてやりたくなる」

 何だかわからない満足感が体を駆け巡って、どうしようもなく体が震えた。

 「笑わないで」

 「笑ってはいない」

 必死にまじめな表情を取り繕った。

 「おまえは初めてだし、ここの暮らしに慣れるまでは待つつもりだったが、おまえだってわたしが欲しいのだからお互い我慢する必要もないだろう」

 「私は別にっ…」

 「わたしが欲しくない、か?」

 パンに金の輝きを放つ、ねっとりとしたバターを塗りつけた。

 「神が与え給うたものを粗末にするのは罪だ、ルシア。恥ずかしがることはない。男を欲しいと思うのは当然のことだ」

 目を見つめたままパンをかじった。

 唇についたバターを舐めとる舌の動きを、ルシアは獲物を見る猫のように目で追った。

 「わたしがおまえの胸に触れたときの感触を覚えているだろう? おまえの甘い口内を探る舌の動きを。わたしの腕に抱かれたぬくもりを、おまえは忘れはしない」

 ルシアは小さく身を震わせた。

 「黙って」

 「長くは待てない。わたしは正常な欲望を持った男だ―そしておまえの初めての男」

 「ごちそうさま。もう戻るわ」

 逃げるように席を立ったルシアの背中に声をかけた。

 「明日は出かける。用意をしておけ」

 ルシアが出て行った後も閉ざされたドアを見つめていた。

 体の結びつきを急ぐわけには彼女に言ったように肉体的な欲求も多くの部分を占めている。だがそれ以上にルシアのためだった。毎夜、王と食事を共にするということはルシアが考える以上に危険なことだ。ハーレムの外でも、中であっても、王の寵愛を受けていると知られれば、ルシアの身に危険が及ぶ。肉体的なつながりがあれば何か困ったことがあったとき、わたしを頼りやすくなるだろう。

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