第10話 町へ連れて行かれる
「サミュエル、ちょうどいいところにきた。ルシアをつれてきてくれないか。今日は彼女も連れて行く」
ひげを剃っているところに浮かない顔をしたサミュエルが入ってきた。
「僕が口を出すことではないが、君はあの女にかまいすぎじゃないか?」
頬に剃刀を当てているために口調が強張った。
「ああ、おまえが口を出すことじゃない」
剃刀を桶の水でゆすぎ、泡の残った顔で笑いかけた。
「どうした、サミュエル。わたしが小娘一人にどうにかされると思うのか?」
「ただの小娘だなんて思っていないくせに。君は伝説にうたわれる女だと考えているんじゃないのかい?」
「ああ…」
剃刀をテーブルに置き、泡をタオルで拭った。実際伝説のことなんて頭になかった。ルシアといるときにほかの事なんて考えられるか?
「『泉に舞い降りし、輝く星抱く乙女、永遠なる幸福と繁栄をもたらすであろう』輝く星とは、まさにルシアの髪のことじゃないか?」
サミュエルは右脚から左脚に体重を乗せ変えた。
「確かに変わった色だな。だけど染めたものかもしれない」
革紐で波打つ髪を縛りながらサミュエルの様子をうかがった。ルシアと伝説を結び付けて考えさせておきながら、それを否定するとはわけがわからない。
「おいおい、最近のおまえはおかしいぞ。どうしたというんだ」
サミュエルはまた体重を乗せ変えた。
「僕は…ああ、あの女は気に食わない。何もかも見透かすようなあの黒い目も、君に対する態度も、女のくせに教育を受けていることも」
サミュエルがルシアに対して抱いているのは劣等感だろう。確かに彼も教育を受けた。だがそれは、彼がミッチェルの父に買われたあとのことだ。いまだにサミュエルが出自を気にしているということが、ミッチェルには悲しかった。
「おまえはわたしの親友だ。それは昔も今も変わらない」
どうやったらサミュエルの気持ちを楽にしてやれるのかわからない。彼の過去を変えることは出来ないし、わたし自身の生まれを変えることも出来ない。今、言えるのはそれが精一杯だ。
「もう出なければ。ルシアを連れてきてくれ」
「その格好は何だ!」
「あなたが女たちにさせてるんじゃない」
ルシアは自分の服装を見下ろした。オレンジのビキニに、黄色いハーレムパンツ、透明のヴェーノ。今日は出かけると言われたから、元気なイメージの色にしたのに。
私室に立った今日の彼は白いシャツに、茶色い革のズボンを身につけ、赤いスカーフのようなものを腰に巻いている。いつもはおろしている肩にとどく髪も、後ろでひとつにされていた。
「出かけると言っただろう―サミュエルもなぜ…」
彼は言葉を切り諦めたように頭を振って、私の腕を掴みドアを開けた。
「来い。ぐずぐずしてたら夜になってしまう」
部屋を出る前にサミュエルを振り返ったルシアの目には、ミエルバお気に入りの本の挿絵に出てくる、シンデレラの継母と重なって映った。
「まさかこれに乗るの?」
「わたしがしっかり抱いていてやる。落としはしないさ」
自分でも嫌になるほど恐怖の滲んだ口調だったから、彼が気づかないはずはない。
安心させるような言葉をかけられても、この大きくて黒い獣は隙あらば下克上を企てるだろう。今にもその硬い蹄で人間の柔らかい皮膚を引き裂き、はらわたを引きずり出すのだ。
「馬は初めてか?」
「そんなことない。動物園にもいたし」
でもこいつとは違った。彼らは人目に晒されても何ともないし、私も遠くから眺めているだけだからかわいいと思った。今、目の前にいる奴は誰かに噛み付くためにいる。近くにいるからその体から発っせられる熱も、フーフーいう鼻息も感じられる。まったくもってかわいさとは縁がない。
「きれいな奴だろう。気は荒いが稲妻のように早い」
「ええ、たしかに美人ね」
ミッチェルが声を上げて笑った。彼の声は豊かで深みがある。もし彼が歌手だったら、多くの女性ファンがつくだろう。
「きれいだとは言ったが、サンダーは雄だ。いつもいい種をつけてくれる」
ミッチェルは種馬の黒い鼻面を撫でた。
「手を食いちぎられるわよ」
「わたしの手に慣れているからな。そんなことは頭の片隅にも浮かばないだろう」
馬に触れるミッチェルの手から目を背けた。
彼の言葉の裏には『おまえもわたしの手を知れば、抵抗しようなんて考えなくなる』という私への思いがあることはわかっていた。
「私は違う」
「そうかもな―さあ、本当にもう行かなくては」
彼は信じていない。
言い続ければそれが真実になるのではないかという淡い期待を抱いているが、彼の誘惑に私自身いつまで耐えられるか、耐える必要があるのかわからなくなっていた。毎晩、彼と食事をともにし、一日の出来事や考えを語り合っていると、肉体だけでなく彼の内面にも惹かれていく。
ウエストを掴まれ黒い獣の上に抱えあげられた。
彼はさっと後ろにまたがると、腕を回して手綱を握った。
「もっと力を抜かないと、帰るころには痣だらけになるぞ」
重い荷物を背負っているにもかかわらず、大きな獣はミッチェルの合図で軽々と駆け出した。
馬が跳ねるたびに、ミエルバに借りた小さなノースリーブのシャツから、胸が飛び出しそうになった。上からミッチェルが覗き込み、正体不明の感情がこもった声で呻いた。もっとも理解したいとは思わなかったが。
「町に着いたら真っ先に服を買わなければな。そんなにボタンを開けてたんじゃ、風が吹いただけでシャツが開いてしまう」
「だから上まで止められないんだってば」
彼にわざとそうしていると思われるのだけは避けなければならない。
胸は窮屈だが顔に風を感じ、彼のぬくもりに包まれている今はとても自由で爽快な気分だった。
宮殿の窓から見た世界は砂ばっかりだったのに、どうして緑豊かな森があるのだろう。ふつうなら砂漠の真ん中にこんな国があること自体不思議なことだ。きっと砂漠を旅する者のオアシス的存在なのだろう。
町に出るまで私たちは話をしなかった。その必要も感じないでただ風を切る音と、馬の荒い息遣いだけに会話させていた。
先に降りたミッチェルに馬から降ろしてもらったあとも、波にまれていたかのように体が揺れている気がした。
「王様、いらっしゃいませ」
ミッチェルの姿に気づいた仕立て屋の女主人らしき人物が、深く頭を下げつつ出てきた。
「今日は何かご入用でございますか?」
「ああ、彼女に乗馬服を用意して欲しいんだが、馬を任せられるか?」
「もちろんでございますとも。さあ、お入りください」
女主人は店の中にいる少年に声をかけ、馬の世話をするように言いつけた。その母親然としたきびきびとした口調から、彼は息子らしいとわかった。
店の中ではワンピースやスカーフ、エプロンなどが売られており、いたってふつうの仕立て屋だったが、リボンやフリルのあしらわれているものはなく、異なっているのはサイズと染め色の違いだけだった。
「お嬢様、こちらへいらして下さい。上等なものは裏に置いてあるんですよ」
ミッチェルはと振り返ると、ぶらぶらとスカーフを手に取っていた。
彼女に言われるまま店の奥へとついていき、四角い部屋に入れられた。
「服を脱いでいただけますか? サイズをお測りしないと」
「ああ、ええ、その…もちろん」
ブラウスのボタンを外しながら、ちらりと女主人に目をやった。彼女はこれを見たらどう思うだろう。ここの女たちはブラをつけていなかった。そもそも存在を知っているのかすら怪しい。だけど薄いブラウスを着るのに何もつけないわけにはいかなかった。脱ぐ必要があるとも思わなかったし。
「恥ずかしがらないで、さあ」
メジャーを手に急かされ、なるようになれとブラウスを落とした。
「まあ、これは何ですか? どこか異国のお着物なのかしら?」
「ええっと…そうです。ブラと言うんだけど、胸を守るためのものなの」
ここで内緒の話をするように声をひそめて付け加えた。
「年をとったときに、胸がたれないようにね」
まあと言ったきり、彼女はじっとブラに見入っていた。その構造を学び、売り出せないかと考えているのだろう。近くにいるから顔の造作や目尻に走る皺までよく見えた。彼女は三十の後半だろう。
彼女が観察している間に深いスリットの入ったスカートも下に落とした。
「あの、用意が出来ました」
「あっ、申し訳ございません」
女主人は恥ずかしそうに笑い、仕事に取り掛かった。
「はい、お疲れ様です。では服を取ってきますね。お好きな色はございますか?」
「何色でもいいです。サイズが合えば」
頭を下げて女主人がいなくなると、ほっと息をついた。いくら女同士といえど、他人の前で服を脱いでくつろいでいられるほど、この世界に慣れてはいなかった。
ようやく女主人が手に服をもって現れ、ありがたい重みに身を包まれると、恐ろしいほどの安心感が駆け巡った。
「お似合いですよ。さすがは王様だわ―でもこれは頂けませんね」
女主人が頭に巻きつけられた黒いヴェーノを外そうと手を伸ばした。
「それはそのままにしておいてくれ」
後ろからミッチェルの声がして振り返ると、彼は部屋の入り口で壁にもたれていた。彼が部屋にいるだけで温度が急上昇した気がする。
「かしこまりました―ほかに御用はございますか?」
彼女はミッチェルに口答えすることもなく、従順に頭を下げた。
「これも頂こう」
ミッチェルは手にしていたさまざまな青に染まったスカーフを振って見せた。
「ありがとうございます」
店を出ると少年が馬の世話をしていた。
「ありがとう」
ミッチェルがポケットから小さな銅貨を取り出し少年に投げると、彼は頭を下げて店の中に戻った。
馬上に抱え上げてもらおうと向き合ったが、彼はじっと私の全身を眺めていた。
「可愛い?」
彼が何も言わないので、からかうよう聞いてみた。
「いや。おまえにその言葉は似合わないな」
目をそらし、町を眺めるフリをした。別に傷ついたわけじゃない。彼にどう思われようとかまわないのだから。
「従順な女は可愛気があるが、甘い蜜にはもう飽きた。わたしには激しい女の方が合っている。強情なおまえをわたし好みに屈服させてやるさ」
彼は店の横手の隙間に私を引っ張り込んだ。
「ちょっと、いくらなんでもこんなとこで―初めてはベットでするんじゃなかったの?」
ミッチェルのあたたかな息が首筋にかかり、ぞくりとした。
「ミッチェル…」
「初めてわたしの名を呼んだな。おまえの中に入るときにも名を呼んでくれ」
口を塞がれ、舌が入ってくるのを受け入れた。一際激しく唇をこすりつけられたかと思うと、彼はさっと身を引いた。
「何で…?」
頬を赤黒く染め、荒い息を繰り返しながら彼は目をつぶった。しばらくそうしてから、ベルトの間に挟んでいた青いスカーフを抜き取り、私の顔の前に突きつけた。
「こんなことをするつもりじゃなかった。ヴェーノをとれ」
震える手で頭に手をやり、手こずりながら結び目を解いた。はらりと金茶色の髪が肩にたれかかり、辺りに花の甘い香りが漂った。
彼は片手で顔をこすってから、スカーフを私の頭に巻いた。
「これでいい。あの女が言うように、黒はおまえには似合わない」
まだぼうっとしたまま、彼を見上げていた。
「こんなもののために私を引っ張り込んだの?」
「そうだ。こんなところでおまえと体を交えると思ったのか?」
「だって、あなた触ったじゃない」
「挑発されれば乗るだろう。おまえはその気だったじゃないか」
「私は…」
確かに彼があそこで止めなければ、私は彼に身を投げ出していた。抵抗しようともせずに、こんな裏道で、誰に聞かれるともしれない場所で。
「どうして…」
何が何だかわからない。私はそんなに意志が弱かったのだろうか。
「ルシア、おまえは美しい。聞いているか? わたしを見ろ」
ミッチェルは私の頬に手を当てて、目を合わさせた。
「綺麗だよ。ルシア」
「うるさい」
ミッチェルは左の口角だけを上げた。
「それでこそわたしの女だ」
「あなたの女なんかじゃない。私は私だけのものよ」
髪を梳こうとして、スカーフに邪魔をされた。
「どうしてこんなの被らなきゃならないの? 誰も被ってなんかないじゃない」
「おまえの髪は目立ちすぎる。人目に晒せばいつか面倒を引き起こすだろう」
「なら黒く染めるわ。煩わしいったらありゃしない」
「だめだ。神が与え給うたものを―」
「粗末にするのは罪だ」
彼が口にする前にあとを引き取った。
「もう聞き飽きたわ」
ミッチェルの目は輝いていた。琥珀色が薄暗い場所にいるために、いつもより暗く深く見えた。
「早く行きましょ。あなたの馬、どっか行っちゃうわよ」
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