第11話 失望される

 町の人々はみな熱心に働いていた。馬がゆっくりと歩みを進める中、通りすぎる人々はいったん頭を下げてはそそくさと仕事にとりかかる。町の中心には私がこの国にやってくることになった噴水が、水しぶきを跳ね上げていた。

 「ねえ、あっちに行きたい」

 ミッチェルを振り返って噴水を指差したが、彼は見向きもしなかった。

 「それでどうする、また溺れるのか?」

 「溺れたくて溺れたんじゃない。ねえ、調べれば帰る方法がわかるかも」

 彼は口を引き結んで馬の頭を噴水とは反対の方向に向けた。

 「向こうに市場がある。行ってみたいだろう」

 「別に。噴水が…」

 彼の表情を見て口をつぐんだ。何を言っても気持ちは変わらない。市場にだって行きたいわけじゃないだろうに、噴水以外のものに興味を向けさせられるなら何だってかまわないのだ。頑なになるのには理由があるのだろうか? 彼は元の世界に戻る方法を知っていて、それを隠しているの?

 いずれ一人で見に来よう。難しいが何とかなるだろう。

 にぎやかな声が聞こえてきて市場に近づいているのがわかった。途中で馬を厩に預けたので、そこからは並んで市場まで行った。元いた世界ではスーパーにしか行ったことがなかったから、野菜や肉、スパイスといったようにそれぞれの種類ごとに売られているというのは新鮮だった。

 「すごくにぎやかなのね」

 「活気づいていて当然だ。それが市場というものだからな」

 あっちもこっちも人でごった返していて、いろんなもののにおいが交じり合っていた。それでもルシアの目には魅力的に映った。

 「まるで子どもだな。あまりはしゃぐと転ぶぞ」

 ミッチェルは頭を振りながらも笑っていた。手を大きな手に包みこまれると、懐かしさがこみ上げてきた。

 人と手をつなぐのはいつ以来だろう。そのぬくもりと安心感を忘れるほど昔なのは確かだ。

 「ねえ見て」

 ミッチェルをカラフルなキャンディーが並んだテントの下に引っ張っていった。渦巻きの棒つきキャンディーや、瓶に詰まった丸くて小さいキャンディーが、奥深くに埋もれていた幼心をくすぐる。

 「お嬢ちゃん、キャンディーは好きかな?」

 店主の男はまばらになった黒い髪と豊かなひげを蓄えたおじいさんだった。お嬢ちゃんなんて言われる歳でもないが、彼から見れば仕立て屋の女主人だってお譲ちゃんだ。

 「甘いものはなんだって好きよ」

 にっこりしながら答えると、おじいさんは瓶に入ったキャンディーを差し出してウインクした。

 「キャンディー好きに悪い子はいない。さあ、これをあげよう」

 慌てて空っぽの両手を振った。

 「私、お金持ってない」

 「お金はいらないよ。わしにも孫がいるんだ。遠くに住んでてなかなか会えないんだが、ちょうどお譲ちゃんと同じ歳くらいの可愛い娘でね。まあ、お譲ちゃんには敵わないが」

 はっはっはっと愉快そうに笑うおじいさんに、とっておきのスマイルを向けてありがたく瓶を受け取った。

 「ありがとう。友達と分けて食べます―あの、失礼でなければいいんですが、お孫さんはおいくつですか?」

 「うん? 今年で二十になる」


 

 「ほかの人間には愛想を振りまくんだな」

 「何、文句ある?」

 腕に抱えたキャンディーの瓶が、歩みにあわせてカラカラと軽快な音を奏でる。

 「甘い蜜には飽きたって言ってたじゃない」

 「それはそうだが…」

 ミッチェルは眩しさに目を細めて正面を睨んだ。

 「そろそろ戻ろう」

 彼はほかの人よりも背が高いから、人ごみの中でも先を見通せる。彼が何を見たのかは知らないが、それを私に見せたくないと考えたのは明らかだ。

 触るなと言われれば、触りたくなる。見るなと言われれば見たくなる。それが人間というもの。

 つまり、ミッチェルに戻ろうと言われれば進みたくなるということ。

 「いや。まだテントは続いてるもの」

 「もうだいたいは見ただろう。これ以上進んでも売ってるものは似たり寄ったりだ」

 大きな目標の前では少々の犠牲は仕方ない。ミッチェルの手の安らぎを放棄し、さっと彼に背を向けると人ごみを縫って進んだ。

 「くそっ、ルシア! 戻って来い!」

 背後からミッチェルの怒声が追いかけてきたが、すぐに市場の活気に飲み込まれた。彼は大柄だから人ごみの中で自由に動き回るのは不可能だ。だが私は違う。小さな体で人々の間をくぐり抜け、足早に進んだ。目立つ髪も覆っているから、彼は私を見つけるのに苦労するだろう。

 白いテントの波はあと二つになっていた。彼が何を見たのであれ、それはもうすぐ現れるはず。

 テントが途切れると人通りもまばらになった。

 彼は何を隠そうとしたの?

 そのまま真っ直ぐ進み続けたが、もう何も売っていないし、町の喧騒からはどんどん離れていく。

 時間が遅いわけでもないのにあたりは薄暗くなり、建物は朽ちかけていて、レンガ壁の破片があたりに散らばっている。何かがにおったような気がして鼻をひくつかせると、汗のすえた臭いと、排泄物の臭いがした。

 一瞬足がすくんだ。けれど何も見つけられないままミッチェルの元に戻るわけにはいかない。戻った後で何が待ち受けているのか、考えうる最悪の出来事を思い浮かべてみれば、心の慰めになる手柄を上げずに、のこのこ帰ることは出来ない。

 その思いだけを支えに進み続けると、男の野太い声と甲高い悲鳴が聞こえた。

 目は現実を直視しようとはしなかった。家畜か何かのように檻に入れられた生き物の前で、さまざまな人間が目を光らせていた。

 檻の中にいるのは薄汚れて骨ばった人間だった。わずかな擦り切れた下着と手枷だけを身に着けて、落ち窪んだ暗い目を客のほうに向けている。

 客は裕福そうな身なりの者や、町にいるふつうの平民の格好をしている者もいる。彼らは一様に卑しい笑みを浮かべ、商品を品定めしていた。

 檻に入れられた人間の所有者が裕福そうな男に目を留めた。

 「お客さん、こいつはどうですか?」

 主人は隅に縮こまった少年の、手枷につながる鎖を引っ張って、客の近くに寄せた。主人は檻の隙間から手を入れると、乱暴に少年の尻を掴んでいやらしい笑みを浮かべた。

 「まだ未使用でして」

 考える前に体が動いていた。

 今すぐあの男の汚らわしい手を、少年の体から引き剥がしてやりたかった。

 だが二歩進んだところで後ろから手が伸びてきて口を塞がれた。声を限りに叫んだが浅黒い手に邪魔されて、空しく擦れた声が漏れただけだ。必死に脚をばたつかせても長いスカートが絡みつくだけで、男に打撃を与えることが出来ない。

 私も売られるんだ。あの檻に入れられて、薄汚い客の目に品定めされ、乱暴な男の手に触れられるんだ。

 「大人しくしろ。わたしだ」

 ミッチェル…?

 「こんなことをしてただで済むと思うなよ」

 彼は怒っている。いや、正確には激怒している。恐ろしいほど落ち着いた声色に背筋が凍った。

 口を塞がれたまま、一人通った道を半ば引きずられて戻り、ようやく市場の喧騒が聞こえるところまできた。

 口を覆うミッチェルの手が離れたあとも、喉が詰まって声が出なかった。琥珀色の瞳がこれほど冷たくなるとは思いもしなかった。感情のない琥珀色の瞳に見下ろされていると、どうしようもなく不安に、泣きたくなるほどの悲しみが襲ってきた。私が彼をこうしたんだ。

 「ミッチェ―」

 「黙れ。わたしが間違っていた。おまえを外に連れ出すなど…。所詮おまえはわたしから逃れることしか考えていなかったんだ」

 違う。そうじゃない。

 だが反論を口にする勇気もなく、手をつないでひやかしたテントの前を、今度は腕を引っ張られ俯いたまま戻った。

 「お譲ちゃん!」

 顔を上げるとキャンディーをくれたおじいさんが手を振っていた。どさくさに紛れて瓶を落としてしまったのではないかと思ったが、不思議なことにそれはまだ腕の中にあった。ルシアはただ弱々しい笑みを浮かべただけで、また下を向いた。顔を上げていて、冷たい琥珀色と出会うのを恐れていた。

 あのとき彼は目を細めて先を見ていたわけじゃなかった。頭の中にある映像を見ていたのだ。市場のずっと先に奴隷市があることを知っていたから、私を近づけまいとした。

 どうして彼は奴隷の存在を黙認しているの? ミッチェルは王だ。王は全ての国民の幸せを確保しなければならないんじゃないの?

 気づけばまるで蜃気楼であったかのように市場の喧騒は消え、気の荒い種馬の前だった。

 馬に抱えあげた彼の手つきは乱暴といってもよかった。でもそのことは気にならなかった。私がいけないことをしたのだから、彼は怒って当然だ。それよりも出来れば触れたくないと彼が思っていることの方が、ずっと深く心に突き刺さった。

 ミッチェルは後ろに飛び乗ると、私から出来る限り離れてすぐに馬を走らせた。振り落とされないように、瓶を抱えていない方の手で鞍を掴むのに必死だった。

 行きと同じように二人とも黙っていた。だがそれは重苦しい沈黙だった。

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