第12話 奪われる
ミッチェルは琥珀の間に私を放り込むとすぐに背を向けた。彼の背中にすがりつきたいのを我慢して、ただこう言うだけに留めた。
「ごめんなさい」
彼は振り返りもせず扉を閉め、ドアの前の見張りに外に出すなと言うのが聞こえた。そのままミッチェルの足音が遠ざかっていくのを暗い気持ちで聞いていた。
彼には聞こえなかったのかもしれない。そうでも思わなければ耐えられそうになかった。
窓に近づいて外を眺めた。白い砂の連なりは途切れることを知らない。動くものはなく、その存在を忘れ去られた一枚の絵画のように見える。
これほど一人ぼっちだと感じたことはなかった。たった一人でこの国に来てしまったと気づいたときにも、こんな気持ちにはならなかったのに。
これからどうしたらいいの。ミッチェルに見捨てられたら、私は本当に一人ぼっちになってしまう。
一粒の透明な雫が頬を伝った。
「ルシア?」
パッと振り返るとミエルバが心配そうな顔で、扉の前に立っていた。慌てて頬を拭い、大げさに驚いた表情を浮かべた。
「どうしてここに?」
ミエルバはいたずらっ子のように口角を上げた。
「ミッチェル様が一人で出て行くのが見えたから、ルシアは戻ってきたのかなと思って覗きにきたの」
「見張りの人がいたでしょ」
「うん。ミッチェル様にルシアを外に出すなって言われたって言うから、じゃああたしが中に入るんならいいでしょって」
「やるわね、一休さんみたい」
いつものミエルバなら、わからないことは納得するまで質問する。なのに今は注意深く私の顔を観察している。
「ルシア、あたしには無理しなくていいんだよ。本当は今、すごく悲しいんじゃないの?」
顔が強張った。自分よりもずっと小さな女の子に甘えるわけにはいかない。
「何でもないの。大丈夫だから」
「嘘。ルシアは嘘が下手だもん。大丈夫なんかじゃないくせに」
ミエルバは唇を震わせて泣きそうな顔をしていた。
「ミエルバ…」
ベッドに腰掛け、隣を叩いた。ミエルバは大人しく隣に座った。体に腕を回して抱きしめてやると、彼女はわっと泣き出した。
「よしよし、大丈夫だから」
「どっ、うしてあたしが、泣いてんの。ルシアをっ、慰めに来たのに…」
「ごめんね、ミエルバ」
ミエルバがようやく顔を上げると、シャツは二大勢力の染みと皺が陣地争いをしていた。
青いスカーフを外してミエルバの顔を拭ってやった。
「ミッチェル様と喧嘩、したの?」
スカーフを渡し、膝に目を落とした。
「私が悪いの」
話し始めると言葉が決壊したダムの水のように溢れ出した。ミエルバは時々頷きながらただ黙って聞いてくれた。
「そっか…。でも怒りが収まったら、いつものお優しいミッチェル様に戻るよ」
そうだろうか。そんな簡単に収まるとは思えないが。それに彼の中には愉快な面と、厳しい所有者としての面が共存している。決してそのことは忘れられない。
「彼は…」
声がかすれたから咳払いして言い直した。
「彼はもう私のことを嫌いになったと思う?」
「まさか。ルシアはまだミッチェル様としてないんでしょ?」
肺から全ての空気を叩き出されたように息が苦しくなった。
「それはつまり、私とするまでは…」
ミエルバが赤くなった目を恐怖に見開き慌てて頭を振った。
「違うよ! ミッチェル様は毎晩ルシアと一緒にいるでしょ。でもベッドに入るためじゃなくて、食事をしておしゃべりするだけ。今までそんな風に夜を過ごす女はいなかったんだよ。それだけルシアは大切に思われてるってこと」
テーブルの上のカラフルなキャンディーを眺めた。
まだ、間に合うだろうか…。
ミッチェルは苛立たしげにボタンを外しシャツを床に落とした。
ルシアと別れたあと再びサンダーに跨り、ひたすらに駆けた。だがいくらそうしたところでルシアの裏切り以上に、己の愚かさが心を蝕むのをとめることは出来なかった。
「あの女は気に食わないと言っただろう?」
サミュエルが静かに入って来た。
「一人にしてくれないか? 今はおまえと問答する気分じゃない」
「あの女がもう二度と、君を煩わせないようにしようか?」
その言葉にキッとサミュエルを睨みつけた。
「ルシアに手を出すな。彼女はわたしのものだ」
「だけどあの女は君に何ももたらしたりしない。伝説は所詮伝説なんだ」
サミュエルがどう言おうと、彼女の存在価値はそんなちっぽけなものではなかった。少なくともわたしから逃げ出すまでは。
「出て行け。このままではおまえを傷つけてしまいそうだ」
サミュエルは引き際を心得ていた。扉を開けてつんのめったかのように足を止め、馬鹿なことはしないでくれとだけ言うと、静かに彼の前から姿を消した。
ベッドに腰掛け、両手に顔を埋めた。そこでためらいがちなノックが聞こえ、彼は吼えた。
「ほっといてくれと言っただろう!」
「ごめんなさい。でもどうしても、会いたかったの」
パッと顔を上げた。
「ルシア。どうしてここに…見張りはどうした」
彼女はそっと扉を閉め、後ろで手を組んだままそこにもたれた。
「お願いしたら出してくれた。いつも夜はあなたの元へ行くのを知ってるから」
「今日は向こうで食え。おまえといたくない」
一瞬ルシアが怯んだように見えた。それでも真っ直ぐに彼を見つめ、震えがちな声で言った。
「食事はいらない―あなたが…欲しいの」
黙ったままルシアを見返してそばへ寄った。大きな体を屈め、顔を彼女の顔に近づけて息を吸い込んだ。
「何―?」
アルコールのにおいはしない。酔っ払っているわけではないのだ。
「酒は飲んでないんだな」
独り言のように言い、頬に触れても彼女は身動きひとつしなかった。
「本気なのか?」
「ええ」
黒い瞳をじっと覗き込んだ。暗い闇の中に何を隠しているんだ?
「なぜだ。なぜ、急にわたしに抱かれようと思った?」
ルシアの視線が一瞬、揺らいだ。
「…あなたに嫌われたくない。あなたに誤解されたままじゃいやだったの。私の初めてを捧げれば、信じてくれると思ったから」
ルシアから離れた。
「お願い、拒絶しないで」
ルシアの目は必死だった。ここで拒めば、一日中居座っていた胸の痛みが和らぐだろうか? だがルシアを傷つければ、あとで自己嫌悪に陥るのは目に見えている。
それに差し出されたものを受け取って何が悪い。ずっと望んでいたものだ。一度やってしまえばルシアへの渇望感もなくなるはずだ。そうすれば理性を取り戻して、不始末にもっと冷静に対処できるようになる。
「服を脱げ」
ベッドにとって返し命令を下した。
「灯りを―」
「口答えするのならここで終わりだ」
ルシアはきゅっと下唇をかんで、シャツのボタンを外し始めた。
部屋の照明は、数本の蝋燭と窓の向こうで黄昏に染まる自然光だけだが、じっと見つめているために手が震えているのもわかった。
「はやくしろ」
ルシアはシャツに続いてスカートも床に落とし、下着だけの姿で立っていた。
「全部脱ぐんだ」
ルシアがあまりにも強く唇を噛むので、血が出てしまうのではないかと思った。
ぐったりとルシアの上に倒れこんだ。
耳元でやわらかい息遣いが聞こえる。ぼうっとした頭でどかなければと思った。彼女を押しつぶしてしまっている。
「そのままでいて」
身を起こそうとすると、首に回された腕に弱々しいながらも力がこもった。
「重いだろう?」
体を回転させて抱きしめたまま横に寝転がった。
「大丈夫だったのに…」
「おまえの大丈夫はあてにならない」
額にキスをして、湿って張りついた髪を首から払ってやった。
「すまない。もっと優しくしてやりたかったのに」
「十分、優しかった」
そっと唇を重ねて激しい行為を態度で詫びた。
もぞもぞと体を押しつけてくるので、小さく笑って少しだけ身を引いた。
「だめだよ。おまえにはまだ無理だ」
濡れた瞳が懇願していた。
「いつならいいの? 私、あなたに嫌われたくない」
眉をひそめた。
「誰がそんなことを言った? おまえを嫌ってなどいないし、抱けないからといって嫌いになったりしない」
「だってあなたは怒って―」
「確かに怒っている。おまえは自ら危険に飛び込んでいったんだからな」
ルシアの目尻から煌めく雫が転がり落ちた。
「ごめんなさい。でも私、あなたから逃げたかったわけじゃないの。あなたが見たものを私も見たかっただけ―信じてくれる?」
涙の通った跡をゆっくりと指先で拭った。
「ああ」
「本当に?」
「おまえの嘘はわかりやすい。ああ、おまえの言葉を信じる。が、許したわけじゃない」
彼女は神妙に頷いた。
「どうしたら許してくれる? 私を鞭打つ?」
こめかみから手を滑らせ、柔らかな頬を指先でなぞった。鞭なぞ振るえばこの柔肌はすぐに裂けてしまうだろう。
「いや。いまどきどこの国でも鞭打ち刑など行われていない。あれは冗談だ。だが罰を受けずにすむとは考えるなよ」
ルシアは彼の胸に手を触れた。ただ置かれているだけなのに体を興奮が駆け抜けた。
「あのね、ミッチェル―欲しいものがあるの」
その口調に幸福感は消し飛んだ。頬を張られたような衝撃に息が詰まり、ベッドに起き直るとルシアを見下ろした。彼女の赤く輝く髪はシーツに広がり、興奮の余韻で頬はピンクに染まっている。
清らかな女などではなかった。欲しいものを手に入れるために処女を手放すとは。
「くそっ、結局おまえもほかの女と同じだな。何が欲しい、宝石か? 絹のドレスか?」
ルシアは残念そうに目を伏せ、上掛けを胸の上に引っ張りあげた。
「おまえの体ならもう知っているぞ。いまさら恥じても遅い」
ルシアは下唇を噛んで震えていた。
自分の態度でルシアが傷ついていることがわかっているだけに、馬鹿だと思いながらも心が痛んだ。
「何だ? そのためにわたしに抱かれたんだろう。望みのものを手に入れろ」
強く噛みすぎたために唇に血が滲んでいた。
「おい、血が出てる。噛むのを止めろ」
「うるさい、馬鹿野郎! 一番欲しいものはもう手に入れた。あなたが欲しかったからベッドを共にしたのよ、さっきも言ったじゃない。石ころなんかのために処女を捧げるもんか」
ルシアは怒ると口が悪くなり早口でまくしたてる。さっき震えていたのは、涙を堪えていたのではなく、怒りのためだったのだ。
「嘘だと思う? 私の嘘はわかりやすいんでしょ」
「ああ…いや、そのつまり、嘘じゃない。一番欲しいのはわたしだった」
切れた唇を親指でなぞりながら静かに尋ねた。
「宝石じゃないなら何が欲しい?」
ルシアは手を掴んで唇から離させた。
「奴隷」
「何だって?」
「奴隷が欲しい」
頭が混乱してベッドに倒れこんだ。
奴隷だって? そんなものをねだった女は今までいなかった。
腕で顔を覆って考えをまとめようとした。だが頭の中はぐちゃぐちゃで隣には裸のルシアがいる。
「確かにタイミングが悪かったけど―ねえ、聞いてる?」
「ああ。だがもう疲れた。その話は明日にしよう」
体を横に向けると腕の中にルシアを閉じ込めた。顎をルシアの頭の上に、片手を丸い尻の上に休めた。女としたあとでこれほどくつろいだ気分なのは初めてだった。
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