第22話 守られる

 ベルンは十一才だから注文をとれるし勘定もできるだろう。ルカは六才だから軽い料理を運んでもらうことにしよう。ロイは…。

 琥珀の海に浮かぶ天蓋つきのベッドに寝そべり、開いたノートを睨んだまま鉛筆をかじった。

 ロイは男だから一通り教育を受けている。十六だから店で必要なことは何でもできるだろう―店にいることができるなら。

 彼が忌み嫌っているあの不揃いの目は美しいが厄介でもある。ちょうど私の髪と同じように。

 眼帯をつければどうだろう。片方を隠してしまえば人前に出ても安心だ。だがそうするように強要するのは、彼が考えていることを裏づけてしまうことになるのではないかと怖かった。

 ロイの背中には暴力が刻み込まれている。十分すぎるほどの傷跡に新たな傷を増やすようなことはできない。

 彼らはみな傷ついている。ベルンもルカも体に傷がないからといって、痛めつけられていないわけではない。見えない部分に多くの傷がまだ血を滲ませているかもしれない。これ以上傷つかないように私が守ってあげなくては。

 「おまえはうさぎだったのか」

 頭をめぐらせるとミッチェルが部屋の入り口でゆったりと首をかしげて立っていた。

 「猫だと思っていたのだが」

 彼は近づいてくると噛み跡のある鉛筆を取り上げた。

 「こんなものを食っては体に悪いぞ」

 「考え事をしてたの」

 ミッチェルは彼女に倣ってベッドに寝そべり、我が物顔でルシアの尻に手をおいてノートを覗き込んだ。

 「ときどきおまえが教育を受けていることを忘れてしまう。きれいな字だな。今度から書く必要があるときにはおまえに頼むとしよう」

 ミッチェルの手がそろそろと背をあがってくる。

 「その手をどけてくれないと考えられなくなる」

 「考えなくていい。わたしを感じていろ」

 手が前に回りこみ、うつぶせになっているせいで押しつぶされている胸に触れた。

 「ミッチェル、大事なことなの」

 熱いやわらかな唇が首筋を這っている。

 「心配するな。あの子たちは大丈夫さ。これまでおまえがいなくても十分やってこられたんだから」

 「でも傷だらけ、なの。誰かが盾に―」

 「その誰かとはおまえなのだろうな。だがおまえの盾はわたしだ、ルシア」

 「私は…守ってもらう必要はない。自分で、できる」

 ミッチェルが急にぎゅっと抱きしめてきた。その体で、覆い被さるようにして包み込まれた。

 「わたしがそうしたい。おまえを守りたいんだ。おまえが傷つかないように、痛みを知らなくていいように」

 目を閉じると自分のか彼のかわからないリズムが聞こえる。

 彼はこんなに大きかったんだ。ずっとそばにいたのに私はそれを当然のように感じていた。でも彼の存在は私の中でどんどん大きくなっている。彼は誰よりも優しくて公正で、その大きな心で私たちみんなを守ろうとしている。

 もう抑えることはできない。

 「ミッチェル、私―」

 彼が頭を下げ、唇をむさぼったために愛の言葉が溢れることはなかった。どこまでも優しく、そしてどこまでも激しく唇を合わせた。ミッチェルの髪を握り締めて言葉にできなかった想いを伝える。

 熱情に支配されて二人は互いを奪い、与え合った。同時にのぼりつめたあとの歓喜に静寂が取って代わったころ、安らいだ表情で眠るミッチェルをルシアは見つめていた。

 彼は普段から一人の人間の手には余るほどの優しさや誠意を見せてくれている。

 それなのに私が彼に与えられるのは心だけ。たとえ彼が私に飽きてしまったとしても、そして愛を返してくれなかったとしても私が愛する力を失うことはない。

 ミッチェルがため息を漏らして身動きした。

 つややかな漆黒の髪を撫でて届くはずのない言葉を囁いた。

 「愛してる」 



 「あなたの目は綺麗ね、ロイ」

 ルシアたちはミエルバの部屋でベルンとルカに必要な勉強を教えているところだった。

 「僕の目は変なんです…シア」

 ようやく言い直さずにシアと呼ぶようになった。最初は何度いってもルシア様と呼んでいたのを午前中かけてシアと呼ばせることができた。それならば彼の目を褒め続ければ彼自身そのことを認められるようになるかもしれない。

 「綺麗よ。美しい。惚れ惚れする」

 「やめて下さい。そんなたわごと」 

 「やめないわよ。あなたが認めるまではね。嫌ならさっさと認めてしまいなさい」

 「ルシア、静かにしてよ。勉強が進まない」

 偉大なる勉強家ミエルバは腰に手を当てて頬を膨らませている。

 「ごめん」

 ルカはにかっと歯の抜けた顔で笑った。

 「あたしは大丈夫だよ。シア、面白いもん」

 「ばかっ、そんなこと言っちゃ失礼だろ。ごめんなさい、シア」

 ベルンは私に気を遣いすぎる。その点、ルカは最初の怯えっぷりが嘘のように子どもらしい。

 ため息をついてロイの腕を取った。彼はピクリとしてから静かに立ち上がった。

 「私たち外へ行ってくる。ここじゃ邪魔になるだけだし」

 「そうして」

 部屋を出てどこへ行こうかと思案した。後ろを振り返るといつものようにサミュエルが距離をおいてついてくる。となるとあそこしかない。



 「ベン!」

 彼は馬の蹄鉄を調べているところだった。顔をあげた彼が一瞬ミッチェルに見えて足を止めた。

 当然でしょ、彼らは双子なのだから。だがどこにいても、何をしていても彼のことを考えてしまう。完全に恋わずらいの症状だ。

 「シア? どうした。ぼんやりして」

 気がつけばベンが顔を覗き込んでいた。

 「大丈夫。なんでもない」

 ベンは眉根を寄せている。

 「何があったんだ? おれのことを見て…いや、いい。いつもの場所で休んでろ」

 それからロイのほうを向いて付け足した。

 「シアの面倒をみといてくれ。おれも少ししたら行くから」

 ルシアが草原に腰を下ろすまでベンはずっと見守っていた。

 「大丈夫ですか?」

 「ええ」

 草の甘い匂いがする。ごろりと寝そべると視界は雲なんて知らない青い空でいっぱいになる。

 「あなたも横になったら?」

 おずおずと寝転んだロイは顔を捻って厩のほうを窺っている。

 「彼はミッチェルじゃないわよ。彼らは双子なの。でも不思議よね。どうして双子ってよく似てるのかな? 私なんてほんの少しで酔っ払っちゃうのに、二人ともアルコールを水みたいに飲んじゃうし、どっちも女好きでしょ。ミッチェルもベンも初めて会ったとき、私のスカートに手を入れようとしたし―」

 「あんたはおれたちよりも、おれたちのことを知ってるみたいだな」

 大きな影に覆われ、驚いて身を起こした。

 「本当はもっと聞いていようかとも思ったんだが、何を言われるかわかったもんじゃないからな」

 ベンは隣に寝そべって腕枕をしてからルシアを探るように見上げた。

 「具合はよくなったのか?」

 「もともと悪くなんかないもの」

 もう一度、寝転がってあおいぬくもりを取り込もうとした。

 「兄に何かされたのか?」

 「何もされてなんかない。いえ、そんなことないわね。とてもよくしてもらってる」

 「おれに気を遣う必要はないんだ。言いたいこと言っちまえよ。いびきがうるさくて眠れないとか、場所も考えずに触ってくるんだとか」

 思わず笑い声を上げた。

 「彼はいびきなんかかかないわ。それに触れられるのが嫌だとしてもあなたには言わない」

 ベンが口角をあげてしんみりと言った。

 「よかった。いつものあんただ」

 ぴりっとした雰囲気にどぎまぎしてロイを見ると彼はわざとらしく目をそらしていた。

 「ロイ、彼はミッチェルの弟のベンよ。ベン、こちらはロイ」

 いまさら紹介するなんておかしいと思いながらも間をつなぐために説明した。

 「よろしく、ロイ」

 「…はい」

 ベンが身を起こしたのに合わせてルシアたちも起き上がった。

 ベンはロイの目をじっと見つめている。

 「さっき見たときは見間違いかと思ったが、色が違うんだな」

 ロイは身をすくめて顔を背けた。

 「ベン!」

 「醜いんです。僕の目は」

 「誰がそんなこと言った? おれは違いを指摘しただけだ、醜いなんて言っていない」

 「言わなくてもわかります。そう思っているんでしょう」

 「おれがどう言ったところで、おまえがそう思ってるんなら同じことだ―だが、言うとすれば綺麗だとおれは思う。シアにも同じことを言われたんじゃないのか」

 「ええ。でもシアはお優しい―」

 「おれは相手の機嫌取りのために嘘を言ったりしない―シアがそうだというわけじゃないが―おれは本当に思ったことしか口にしない」

 ルシアは黙って思案しているロイを見つめた。その目は長いまつげが被さっていても、紺碧の空と緑に萌える草並みのようにお互いを引き立てあっている。

 考える材料は十分に与えた。じっくり考えればいい。答えは自分で見つけるしかないのだから。

 ベンを振りかえって首をかしげた。

 「今日の仕事は終わったの?」

 ベンは肩をすくめた。

 「おれの仕事に終わりはないさ。生き物相手だからな。だが今はいいんだ。あいつらよりもあんたのほうがおれを必要としていたから」

 「いつも馬と比べられるのに怒りがわいてこないのはなぜかしらね」

 ベンは片方の口角だけをあげて皮肉な笑みを形作った。

 「おれが魅力的な男だからかな」

 鼻を鳴らしてその言葉に対する気持ちを表してから、ベンに抱きついた。

 ベンは変わった。冗談を言うようになったし前よりも表情が明るくなった。目に見えて状況がよくなったと感じられるのは嬉しいものだ。

 「ありがと」

 ベンは身を強張らせたがそれも一瞬のことだった。おずおずと腕を回されて抱き返されると、初めて抱きしめられたときのように自然のにおいがした。

 「やっぱりあんた、変だ」

 自然に顔がほころんだ。

 「人は常に変わるものなの。今日の私が昨日の私と違うからといって変だとは限らないわ。その変化は好ましいものかもしれないし」

 ベンがそっとルシアを押しやった。

 「それは誰に対する言葉かな。なぜか人事には思えないんだが」

 彼の膝をぽんぽんと叩いて髪を揺らすいたずらな風を楽しんだ。

 「さあね。明日、また乗馬を教えてくれる?」

 「昼飯つきか?」

 「またクッキーを焼いてくるわ」

 「よし、取引成立だ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る