第17話 過去が語られる
「おはよ、ベン。約束は守ってよね」
厩に入るなり声をかけると、一つの房の中から黒い頭が覗いた。
「まさかほんとに来るとは。まだ馬の世話があるんだ。おれの仕事は乗馬講師じゃなく厩番なんでね」
十メートルほど距離を開けて見張っている無言のサミュエルのことは気にせずに、ベンのいる房の前に立って笑みを浮かべた。
「別に馬を優先されたからって暴れたりしない。そのかわりあなたが世話するのを見ててもいい?」
彼は手を止めもしなかった。
「邪魔をしなけりゃな」
ベンは汚れた藁を一輪車にのせて新しい藁を敷き、水と飼い葉を与えたあと、言葉を囁きかけながら馬にブラシをあてた。
シャツは彼が腕を動かすたびに、肩の部分がぴんと張って今にも裂けてしまいそうだ。
彼は次の房でも同じことを繰り返し、そのまた次も同じ行動をしたが、人それぞれ個性があるように、馬に合わせて触れ方や話し方を変えていた。
「馬は何頭いるの?」
純粋な好奇心から尋ねた。
「今は二十六だが、孕んでるのが何頭かいるからな」
後ろで手を組んでベンの仕事ぶりを観察していた。
「それをあなた一人で面倒みてるの?」
「たいていはな」
ベンの髪とシャツはすでに汗で湿っていた。
「この国の人って働き者だとは思ってたけど、すごいわね。私もお手伝いしましょうか?」
彼はじっと私を見つめていた。表情からは何を考えているのかわからないが、恐らく私には何もできないと思っているのだろう。
「甘く見ないで。言ってくれれば何でもするわ。汚れた藁をどこかに運ぶんじゃない? 私が運んでいく。どこへ運べばいい?」
ベンは私の腕を見下ろしてから、厩の一番奥を顎で示した。
「それほどまで言うなら。あっちに行けばわかる―藁が捨てられてるからそこに積んどいてくれ」
ルシアは大きく頷き、一輪車に手をかけた。
ぐっと押しても車輪はびくともしなかった。驚いてベンに目をやると、彼は口元を小さく痙攣させていた。
藁がこんなに重いとは思わなかった。馬の排泄物が付いただけで、どうしてこんなに重量が変わるわけ?
だが諦めるわけにはいかない。後ろではサミュエルが私の粗捜しをしているのだからなおさらだ。
全体重をかけて踏ん張ると、車輪が一回転だけした。
「やった!」
喜びのあまり小さく声をあげたが先はまだ長い。ベンが言った場所までは、少なく見積もっても三十メートルはある。
ベンは仕事の手を止めてルシアの様子をうかがっていた。
手を振って笑みを見せた。
「こっちは任せて。あなたはあなたの仕事をしてて」
疑わしそうな表情を浮かべて肩をすくめると、彼は馬の世話に戻った。
一歩進んでは取っ手を離して休憩するものだから、あっという間に抜かされてベンはずっと先の房に行っていた。
ベンは一度に多くを運べるよう大きな一輪車を使っている。そこに山のように積むから私にとっては逆に効率が悪い。せめて四分の一の量にすれば、ずっとスムーズに進むことが出来るだろうに。
それでも何とか進み続け、残りはあと半分だ。
だが力を入れ続けたために手は震えている。スカーフを外して湿った髪を外気にさらした。
「もうやめていいんだぞ」
ベンがすべての馬の世話を終えてそばへやってきた。
「だめ。私がやるって言ったんだもの」
ベンは腕を組んで私の髪を眺めた。
「馬には種類があるのを知ってるか? 荷をひくためにいるやつ、人を乗せるやつ、姿を魅せるためのもいる」
「私は観賞用だというの?」
「荷馬ではないな―」
彼は口調を変えて言った。
「細い体でよく頑張ったさ、そいつはおれに任せろ。馬に乗る前にへばっちまう」
肩を落としてサミュエルを振り返った。遠くにいるから細かな表情までは見えないが、意地悪な笑みを浮かべているように見えなくもない。
ベンはルシアの視線を追って彼を振り返った。
「あいつには何も言わせない。サミュエルは軍隊時代の部下だからおれの言うことは聞く。安心しろ」
しぶしぶ手を離し、一輪車をベンに任せた。
「いい子だ。昼飯を食ったら練習を始めよう」
ベンは軽々と一輪車を押していった。その後ろ姿を眺めるルシアの心は不甲斐なさでいっぱいだった。
草原に腰を下ろしていると、ここがどこだか忘れてしまう。風が通り抜けるたびにあおい草がそわそわと身じろぎし、ルシアの脚をからかうようにくすぐった。
黄金色のパンを頬張るベンを横目で眺めた。
ふとした瞬間、彼の中にミッチェルの姿が見える。今のようにくつろいでいるとき、ベンの無表情の仮面から痛ましさが消えるから。
「何を見てる?」
パンをエールで流し込んだベンは、ハムの塊に手を伸ばしながら尋ねた。
「あなたの顔」
休むことを知らない口は次から次へと昼食を咀嚼していく。
それも当然だ。よく働く大きな体を維持するためには、いくら食べてもエネルギーの補給が追いつかないくらいだろう。
「面白いか?」
ルシアは手つかずのパンにバターをたっぷり塗ってベンに差し出した。
「それはあんたの分だ」
「食べて。あなたはしっかり働いたけど、私は何もしてないもの」
ベンはパンを受け取り半分にちぎってよこした。
「あんただって頑張ったじゃないか。ほかの女ならあんなことしようなんて考えないし、やったとしてもすぐに諦めただろう」
「私だって諦めた」
口にパンを押しこまれた。
「そんなこと言うな。続けることはもちろん勇気がいる。だがやめることにはそれ以上の勇気がいるんだ。おれはあんたを尊敬してるさ―シア」
素朴なパンに濃厚なバターがよく合っている。しばらく味わってから飲みこんだ。
「あなたも勇気がいった? ミッチェルに仕事を辞めさせられたとき」
ベンはエールを注がず、直接瓶から煽った。拳で口を拭い、ぼんやりと遠くを眺めた。
「おれに選択肢はなかった。脚のせいだ。あのときおれは脚に弾が入ったままで、三日間医者にかかれなかった。戦いの最中に、怪我をしたからといって仲間を見捨てることは出来なかった」
彼の目は何も映してはいない。ここじゃない過去の痛みを見ているのだ。
ベンにそっと寄り添った。
彼の意識を妨げない程度に、それでもそばにいることを知らせるには十分なだけ。
サミュエルは風上にいるから、ベンの言葉を盗み聞きされる恐れもない。
「脚が化膿して熱がでた。おれは…それからの記憶がない。気づいたら白いベッドに横たわってて、王におまえの仕事はもうないと言われた」
ベンは驚いたように身を強張らせた。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかったのだ。
赤銅色の手を自分の膝に載せていたわるように両手で包みこんだ。
「おれは選んでなどいない。昔から王は完璧を求めていたのに、おれがミスをしたから仕事を追われた」
ベンの手も日に曝され酷使されたために荒れている―ミッチェルの手と同じように。
「ミッチェルを恨んでる?」
彼の心を波立てなくて静かに尋ねた。
「いや。あのまま軍隊にいたら、おれはここにいなかっただろう。熱を出している間におれの部下はみんな死んだ―サミュエルを除いて」
ベンは手を振り払って立ち上がった。
「悪いが今日は教えられそうにない。明日は昼飯を食ってから来い」
厩に戻っていくベンの後ろ姿を眺めながら、これはデジャビュだろうかと思った。
最後に見た彼の顔は硬く強張り、晒してしまった痛みをまた奥深くにしまいこもうとしていた。
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