ユリナの夢(2)
午前十時、動物園のゲート前。
待ち合わせ場所へ行くと、ユリナはすでに到着済みで、俺を待ってくれていた。
白いフリルのワンピース、花柄のカーディガン、桃色のバレエシューズ。
手には編みカゴを持っており、いかにも少女らしい雰囲気だ。
「足立くん、おはようございます」
「おはよう、ユリナ」
「今日はいい天気で嬉しいですね。そ、それじゃ、行きましょうか」
「ああ」
ユリナは相談したい件があると言っていたが、いきなり尋ねるのも悪いから、まずは動物園で緊張をほぐすのが先決だよな。
思う存分リラックスして、会話が弾んできた頃に、さり気なく聞き出そう。
うーん、俺ってジェントルマンだ。
「ユリナは動物園へよく来るのか?」
入園ゲートをくぐった後、何気なく質問してみると、明るい返事が返ってきた。
「はいっ。特にこの動物園は大好きで、時間を見つけては、一人で何度も来てるんです。足立くんはどうですか?」
「俺は初めて来たよ」
「それならわたしが案内しますから、今日は任せちゃってくださいね!」
「はは、そりゃ頼もしいな」
というわけで、デート(だよな?)開始。
いざ実際に見学を始めると、ユリナの案内は確かに的確で、俺達は非常に楽しい時間を過ごせた。
ポニーにニンジンを与えたり、触れ合いコーナーでウサギを抱っこしたり、ラクダに乗って写真を撮ったり。
園内の位置関係のみならず、ショーやエサの時間まで熟知してるなんて、ユリナはこの動物園が本当に大好きなんだな。
そんなお気に入りの場所に、こうしてわざわざ誘ってもらえたなんて、なんというか光栄である。
「足立くん、次はあそこへ行きましょう!」
そこはペンギンエリアだった。
見学者の目の前にペンギンがおり、柵の高さも低いので、手を伸ばせば届きそうな距離だ。
ユリナも非常に喜んでいて、なんだか微笑ましいなぁ……なんて思っていた時、その事件は突然起こった。
「うわっ」
目の前にいた巨大なペンギンが、いきなり浅瀬から水中へダイブして、激しい水しぶきを浴びてしまった。
ぐぬぬぬぬ。
せっかく楽しい気分だったのに、あのペンギンのせいで台無しだ。
心の中で舌打ちしながら、横にいるユリナを見ると。
(おおっ!)
びしょ濡れになったおかげで、白いワンピースが透けている。
薄い布地が素肌にぴったり張りついて、もはや服がその役割を果たしていない。
その奥に浮かび上がるのは、バストという名の立体映像。
ペンギンよ、よくやった。
お前は今日一番の英雄だから、さっきの舌打ちは取り消そう。
(ぐへへ……)
あくまで平静を装ったまま、俺は心の中で、シャッターを押しまくった。
ラッキースケベ万歳。
いや、そろそろ認めるが、俺って実はスケベなんだ。
え、なに、知ってた?
「ひゃっ、わわわ」
ようやく状況を察したユリナは、カーディガンのボタンを急いで閉めて、濡れてしまった胸部を隠した。
それからすごい勢いで、カバンの中を確認する。
「ホッ……よかった、わたしの宝物は無事でした」
「スケッチブック?」
ユリナが取り出したのは、一冊のスケッチブック。
これが宝物だって?
さり気なく尋ねてみると、ユリナは頬を赤く染める。
「えっと……はい、今日相談したかったのは、この件なんです」
「そうなのか。ああ、ひとまず椅子へ座ろうぜ」
俺達は濡れてしまった身体を拭いて、自販機でホットドリンクを買った後、動物園の一角にあるベンチに座った。
「実はわたし、絵本作家になりたいんです」
どこか遠慮がちに、しかし決意を込めた顔で、ユリナが切り出す。
「だからよくこの動物園へ来て、動物をスケッチしてるんです。文想学園へ入学したのも、その夢に近付きたいからで、これからさらに頑張ろうと思ってます。その、絵本は基本的に手描きなので、タイピングは苦手なんですが……」
「へえー、絵本作家が夢なのか」
リカルドもそうだったが、ユリナも夢を叶える為に、文想学園を選んだんだな。
そういえばネズミーマウスのイラストも、顔の方向性を大幅に間違えていたが、画力そのものはかなり高かったように思う。
「絵本を描いてる時はすごく楽しくて、時間も食事も忘れちゃうくらいです。最近は新人賞にも投稿してます。でもわたし、ずっと落選続きだから、少しめげてるっていうか……。自分には才能がないと思うと、悲しすぎて夜も眠れません」
「ああ」
「そこで足立くんにお願いですが、このスケッチブックを見て、率直な感想をいただけませんか? お世辞も社交辞令もいらないので、下手だったらそう教えてください。自分では自分の状況がわからないので、誰かの客観的な意見が聞きたいんです」
ユリナはスケッチブックを差し出すが、その手が震えているのは、水に濡れた寒さのせいではなさそうだ。
真剣な眼差し。
キュッと引き結んだ唇。
そこには相当な覚悟が感じられ、スケッチブックを託された俺の方まで、思わず背筋が伸びてしまう。
「わ、わかった。じゃあ今から見るぜ」
「は、はいっ」
相手がこれだけ本気なんだから、たとえどんな内容だったとしても、こっちも本音を言わなきゃな。
それにしても、ユリナの緊張はひどかった。
全身から滝のような汗を流し、呼吸の乱れが原因で激しく咳き込み、一時酸欠状態に陥ったほどだ。
確かに天使のような少女だが、ここで天に召されて本当の天使になってしまったなんて展開は、さすがに俺だって困るからな。
落選続きでも強く生きようぜ、ユリナ。
「うん、全部見たよ」
「ど、どどどどど、どうでしたかっ?」
「俺は絵本には詳しくないけど、全体的には悪くないと思ったぜ」
ユリナが描いた動物のスケッチは、細部の描き込みはやや甘かったが、絵本的なデフォルメだと思えばそれも特に問題ない。
とにかく一枚一枚が非常に丁寧で、込められた愛情が伝わってくるので、見ていて優しい気持ちになれる。
創作物には作者の人柄が滲み出る、それがよく感じられる内容だった。
「でもわたし、落選続きなんですよ?」
「確かにプロはもっと上手いから、今すぐ受賞するのは無理かもな。でもさ、どの絵からも優しさが伝わってきて、見ていて幸せな気持ちになれたよ。それって絵本として、一番大切な部分だと思う」
「そうでしょうか?」
「ああ、間違いない。ユリナの人柄がよく出た作風、俺は個人的にすごく好きだし、方向性は今のままでいいと思うぜ。あとはその情熱を維持したまま、細かい技術をさらにもっと磨いていけば、結果も自然と出るんじゃないかな」
「す、好き、ですか……」
うわ、ユリナの顔が真っ赤になってる。
そういや俺、絵本の作風の話だけど、今「好き」って言っちまったな。
まあいっか。
お世辞や社交辞令ではなく、実際にそう感じたんだから。
「えっと、こんな短い感想でよかったか?」
「はい、ありがとうございます。すごく勇気が出てきました」
照れくさそうに頬を染めつつ、スケッチブックを抱くユリナ。
ああ、羨ましいぜ。
俺もスケッチブックになって、ユリナの胸に、心ゆくまで顔をうずめたい。
「えへへ、足立くんって優しいですね。それにとっても前向きだし、わたしのことを笑ったりしないし、相談相手に選んで正解でした」
「いや、そりゃ褒めすぎだって。とにかく役に立ててよかったよ」
「それじゃこのまま、お昼ご飯にしましょうか。わたしサンドイッチを作ってきたんです」
「おおっ、マジか!」
そんなこんなで、この日のデート(断言!)は、文句なしの大成功。
手作りサンドイッチがたらふく食えたし、ユリナの相談に乗って好感度を上昇させたし、おまけにムフフな脳内写真まで撮影できた。
翌日には風邪を引いたが、プラスマイナスで言うと、もう大幅なプラスだよな。
うーん、満足満足。
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