第八章 最弱のプライド

最弱のプライド(1)

 眠れない。

 いくら寝返りを打っても、まぶたを閉じて深呼吸しても、俺は一向に眠れなかった。

 原因?

 それはもちろん、ユリナに振られたせいである。

(どこで間違ったんだろうな……)

 天井を見ながら自問自答しても、答えなんて見つかるはずもなく、ひたすら時間だけが過ぎていく。

 机の上の時計を見ると、もう深夜の二時だった。

 その横には未完成のまま放置した、書きかけの長編小説が置いてある。

(ああ、小説か……)

 今日はもう眠れそうにないから、小説の続きでも書いてみようか。

 俺はむくりと起き上がり、部屋の明かりをこっそりつけて、小説の続きを書き出した。

「…………」

 いざシャーペンを握ってみると、感情の吐き出し口を求めていた俺に、真っ白な原稿用紙は打ってつけの相棒だった。

 この小説の中でなら、俺は無敵のヒーローになれる。

 学園バトルで勝利できるし、女子にだってモテモテになれるし、俺を笑った奴を悲惨な目に遭わせるのだって簡単だ。

 ああ、その通り。

 小説を書いているこの瞬間、作者である俺は、唯一絶対の神になれるのだ。

(うん、だいぶ進んだな)

 それからというもの、俺は高校生活の合間を縫って、狂ったように小説を書き続けた。

 授業中にプロットを練り、帰宅後はひたすら本文を執筆し、就寝前は布団の中で誤字脱字をチェックする。

 これほど夢中になったのは、生まれて初めての経験で、食事の時間さえも勿体ない。

 そんな生活を続けた結果 期末テストの数日前に、長編小説が書き上がった。

(よし、完成っと! 明日もう一度チェックして、そのまま新人賞へ送ろうか)

 そして迎えた、翌日の放課後。

 早く郵便局へ向かいたかったが、こんな日に限ってウサギ小屋の掃除当番を任され、余計な時間を取られてしまった。

 ウサギ小屋の鍵を事務室へ返し、カバンを取りに教室へ戻ると、そこにいるのは三人の男子生徒。

 例のベンガルトラ事件の時に、俺の悪口を言っていた三人だ。

「よーう、足立」

「前はよくもやってくれたな」

「おかげでセンコーに怒られたじゃねえか」

 相手はそんな因縁をつけてくるが、俺を笑ったのはそっちなんだから、先生に怒られたのは自業自得だ。

 三対一だから怖いけど、強気で対処してやるぞ。

 そう思って相手を睨むと、原稿用紙が視界へ入った。

 ハッとするこちらの顔を見て、目の前の三人がニヤリと笑う。

「お前の力作、読ませてもらったぜ?」

 間違いない。

 奴らが持っているのは、俺の大切な長編小説だ。

「題名が『激烈ワナビ戦』とか、完全にアタマおかしいだろ」

「ワナビって蔑称だろ? 自分から名乗ってどうするんだよ」

「内容も内容だよな。キショくて鳥肌が立っちまったよ。学年一位になって女子にモテモテーとか、願望が透けて見えてマジで失笑モンだわ」

「……!」

 俺は拳を握り締めて、ほとんど何も考えないまま、三人へ殴りかかった。

 絶対に許さない。

 コイツらは人の小説を勝手に取り出して、それを無断で読んだ上に、あろうことか嘲笑の材料に使用したのだ。

 激しいショックと怒り、それに混乱と羞恥心が、俺の腕力を倍増させる。

「ふざけるな!」

 パンチは一人の顔面へ直撃し、バキッという大きな音がした。

 葵先輩には軽く受け流されたパンチだが、どうやらコイツらは口先だけの人間らしく、俺の攻撃をまともに受けて何もできない。

 相手はよろめいて後退するが、その顔はひどく無様で、滝のような鼻血が流れていた。

(ザマア見ろ!)

 ほんの一瞬そう思ったが、それから急に怖くなった。

 相手の攻撃はあくまで口だけだったのに、俺は暴力でそれに応じ、同級生を負傷へ追い込んでしまったのだ。

 この状況を第三者が目撃したら、どう考えたって、こちらが加害者だと思うだろう。

「あ……」

 思わず動揺していると、連中は「覚えてろ!」という言葉を残し、さっさとその場から逃げ去ってしまった。

 幸い原稿は無事で、きちんと枚数も揃っているから、投稿に支障はない。

 しかし一体、何故だろう。

 俺は自力で連中を追い払って、ある意味勝ったはずなのに、心に残った感情は強い恐怖だ。

(い、いや、郵便局へ急ごう……)

 その後無事に投稿を済ませ、家へ帰宅した後も、恐怖はずっと消えなかった。

 担任の豪田先生から、または相手の保護者から、抗議の電話が来るんじゃないか。

 そう考えると気が気ではなく、一日中ビクビクしながら過ごしたが、そういう電話は鳴らなかった。

 そして翌日の朝である。

「……あれ?」

 登校して下駄箱を開けると、上履きの中に、チョークの粉が入っている。

 ハッとして取り出そうとすると、カラフルな粉がその場に舞って、ゴホゴホと咳き込んでしまった。

 そんな情けない俺の醜態を、迷惑そうに見る周囲の生徒。

 犯人は……いいや、昨日の今日だし、考えるまでもない。

「あの、足立くん……?」

 振り向くとユリナがいた。

 彼女の下駄箱は隣りだから、その場に呆然と立ち尽くす俺が、邪魔になっているのだろう。

「あっ、ごめんな」

 ひとまず上履きを戻して、急いで場所を移動すると、ユリナは靴を履き替える。

 次の瞬間、俺の下駄箱を見て、彼女は息を呑み込んだ。

 見てはいけない物を見てしまった、まさにそういう感じの表情である。

(ああ、見られちまった)

 何か大きなものを失った気がするが、しかし同時に、俺の心にはわずかな期待が存在した。

 ユリナはこの仕打ちに心を痛めて、一緒に泣いてくれるかもしれない。

 彼女はそういう誠実な少女だと、振られた今も俺は信じ続けているが、それは浅はかすぎる妄想だった。

「……そ、それじゃ」

 上履きの件にはまったく触れず、逃げるように去って行くユリナ。

 このショックは計り知れない。

 周囲の連中に笑われたって、攻撃の対象にされたって、ユリナがいるなら頑張れる。

 ずっとそう思って歩いてきたのに、今はもう、俺の隣りにはユリナがいないのだ。

(いや、ユリナの他にも、仲間はいるじゃないか……)

 まずアカネ先輩がいる。

 葵先輩やリカルドだっている。

 とはいえ彼らは優等生だから、期末テスト直前の忙しい今、迷惑をかけるのは許されない。

 そこまで情けない男になり下がるのは、自分の小さなプライドが許さなかった。

「…………」

 上履きは救出不可能だから、勿体ないが捨ててしまおう。

 来客用スリッパを履いた俺は、その足で職員室へ向かい、豪田先生に面会を申し込んだ。

 先生はすぐに対応してくれて、職員室の一角をカーテンで仕切って作られた、面談コーナーの椅子へ座った。

「豪田先生、おはようございます」

「おはよう、足立。じっくり話を聞いてやりたいが、始業までそんなに時間がないから、今は短い話しかできないんだが……」

「平気です、すぐに終わる用事ですから」

 拳をギュッと握って、手短に要件を告げる。

「退学届をもう一度ください」

「えっ?」

「以前いただいた分は、破ってしまいました。なので、もう一枚欲しいんです」

「そうか。それならまあ、すぐにでも渡せるが……」

 いつになく歯切れの悪い豪田先生。

「転校を提案したのは確かに私だ。でもな、よくよく考えてみると、あの提案は間違いだったと思うんだ。足立は黒星が続いているが、努力はすごく伝わってくるし、なによりワナビ戦を心の底から楽しんでいる」

「今さらそう言われても……」

 もう何もかも遅すぎる。

 最初は確かに楽しかったが、大切なパートナーと事実上決裂し、クラスの異分子になってしまった今、今まで通りワナビ戦を楽しむなんて不可能だ。

「ああ、何も言うな。一人で苦しかっただろう?」

 豪田先生はごつい手で、俺の背を優しく撫でる。

「最近の足立は、仲が良さそうだった厚木と、ぱったり話さなくなったもんな。そのスリッパの理由だって、だいたい私には察しがつくよ。助けてやれなくて本当にすまなかった。私は担任教師失格だな」

 まさかこうなるとは思わなかった。

 一度は嫌いになった豪田先生が、転校の提案を否定して、俺に手を差し伸べてくれている。

 熱い気持ちが込み上げて、視界が少しぼやけてきた。

 始業のベルが聞こえてきても、豪田先生は少しも慌てず、静かに付き添ってくれている。

「まだ間に合うさ、足立の逆転はここからだ」

「…………」

「いいか、期末テストで取り返せ。他の教科もある程度そうだが、特にワナビ戦の成績は、期末テストの比重が大きいんだ。今までの負けを挽回するチャンスだぞ?」

「……はい」

「よし、それじゃ教室へ行こう!」

 というわけで。

 気分が少し楽になったが、俺にとって最大の問題は、まったく解決していない。

 クラスの連中を敵に回して、ユリナにも見捨てられた今、はっきり言って自信はゼロ。

 ワナビ戦は想像力が大事なのに、この状態で戦わなきゃいけないなんて、一体どうすればいいのだろうか。

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