第24話 襲撃者たち

「どうしよう」

 フブズ屋を出た途端、ナーディヤがため息交じりに呟いた。その足取りはおおよそアル=アッタール邸に向いてはいるが、スークに寄ったり交差路を曲がり続けて元の道に戻ったりと遅々として進まない。


「護衛を説得するのが先じゃないんですか?」

「それは……ない。無理」

 無理なら仕方ない。ナーディヤにとって使用人が一番怖いのだろう。いや、今となっては無用の警戒なのは分かっているが、過去の悪夢がそれを拒否している。


「ズールはほかにいないんですか?」

「いる。それも郊外の方がズールの活動は活発だけど伝手がない。それに向こうは私を信用しないだろうし、私も彼らを信用できない」


 本当なら、サービトは行き詰ったこの状況を喜ぶべきなのだろう。ナーディヤの調査が止まればハラーフィーシュのスルタンに全ての時間を注げる。しかしどうして、共に打開策を考えている自分がいる。それを、サービトは他人事のように疑問に感じていた。


 アル=アッタール邸が近づいてくる。大通りを離れて道は狭くなり、両端にそびえる民家が暗い影を落とす。


 悲鳴が上がった。

 女の声だ。ナーディヤが辺りに素早く視線を巡らせる。


「行きましょう!」

 ナーディヤの駆け足に続き、サービトは来た道を戻って別の脇道に入る。近くで女が助けを求めている。微かに男が笑っている。


 違和感があった。アル=アッタール邸の近くはクトゥブのお蔭で治安が良い。白昼堂々人が襲われるのは初めてのことだ。何かおかしい、サービトは警告しようとして、しかし現場に着く方が早かった。


「止めなさい!」

 ナーディヤの声に、男たちが手を止めた。騒ごうとした女の口が即座に塞がれ、一人が向き直ってナーディヤを睨みつける。

「お楽しみ中だ。邪魔すんじゃねえ!」


 たじろいだようにナーディヤが後ずさった。その前に、サービトは進み出る。

「何人いますか? 武器は?」

「四人、全員素手だと思う。勝手に動いてごめんなさい」

「問題ありません。下がってください」


 ナーディヤの足音が遠くなる。男の一人が大笑いした。

「なんだよその頭! 前見えてねえじゃねえか!」

 他の連中も笑い出した。サービトはターバンを上にずらし、目を開けた。何もない眼孔を見せつけ両手を構える。


「気にするな。十分戦える」

「舐め腐りやがって。おい!」


 砂擦れの音が良く透った。三人が近づいてくる。その後方で激しい砂擦れの音。さらに一人が歩いてくる。もう一人が走り去っていく。女を逃がしたのだろう。そうまでして戦うつもりか。男たちはサービトを囲むように広がっていく。


 敵のおおよその位置は把握できた。正面に一人と左に一人、右の二人の内一人はサービトの背後を取ろうとさらに足を動かしている。サービトは素早く腰を落とした。男たちが反応して砂擦りの音を立てる。それで、男たちの位置を確定させた。


 サービトは駆けた。正面の男に突っ込んでいく。一気に身を屈め、男の顎をかち上げた。綺麗に捉えた。意識はないだろう。残りの連中がサービトに向かってくる。

 一人、二人、三人、四人、足音が多い。


「上よ!」

 ナーディヤの声が響いた。あちこちで重い足音が何度も鳴る。屋根の上から何人もの人間が飛び降りてきた。それに気付いた時にはサービトは取り囲まれ、身動きが取れなくなっていた。

「警告した筈だぜ。大人しくしておけってな」


 罠だったか。

 サービトはナーディヤを心配したが、ウトバが近くにいる筈だ。最低でも逃がすぐらいはできるだろう。今危険なのはサービト一人だ。躰を固めて攻撃に備えた。

「言っても分かんねえなら拳で分からせるしかねえよなあ?」


 背中を蹴られた。横から殴られる。前から顎を打ち抜かれた。意識が揺れる。対処しようにも敵が多く、音も煩い。足を払われた。サービトは地面に転がされ、盛大に頭を蹴り飛ばされた。無数の蹴りが躰に食い込んでくる。


 声が聞こえた気がした。足音が入り乱れる。

「立てるか?」

 知らない男の声がした。サービトは誰かに抱き起されそうになり、力を借りながらも自らの足で立ち上がる。

「逃げるぞ。すぐ近くに安全な場所がある」


 肩を貸してくる誰かに導かれてサービトは走った。躰中が痛んだ。骨は折れていない。口に溜まった血を吐き捨てる。お優しいことだ。所詮、警告なのか。やはりマムルークたちの差し金なのか。考えている内にどこかの家に入った。ざわめきが室内にこだまする。


「もう大丈夫。ここは我々のハーンカー(修道場)だ。とりあえず手当てしよう」

「いや」

 サービトは男の肩から腕を退かした。

「ありがとうございます」


 男はサービトの痣だらけの躰を見て眼を瞬かせた。

「頑丈だな。ほかに襲われそうになってたのは仲間だろう? そっちも大丈夫だ。もう少しすればここに来る筈だ」

 ナーディヤは無事だったか。ウトバが仕事をしたのだろう。


「あなたたちは誰ですか?」

「私たちはスーフィー(神秘主義者)だ。リズク教団というスーフィー教団に属して、日々このハーンカーで修行している。近くで悲鳴が聞こえたから助けにいったんだ。見たところ君たちはアミール・クトゥブの関係者だろう?」


「俺は旦那様の奴隷です」

 男は安堵の息を吐きながら笑った。

「やはりそうか。アミールにはこのハーンカーを建てる時にお世話になった。少しでも恩を返せたようで良かったよ」


「サービト!」

 ナーディヤの声が聞こえた。足音が走り寄ってくる。

「ごめんなさい。私の考えなしの行動のせいでサービトを傷つけてしまった」


 悲痛を押し殺し、しかし動揺で上擦った声だった。心配そうにサービトの躰に触れるその瘦せ細った手を、サービトは押さえながら自らも下がった。

「大丈夫です。見ての通り軽傷です。お嬢様が無事で良かった」


 嘘偽りないの言葉だ。ナーディヤの行動は無謀だろう。何を馬鹿な事をしている、そう言う人間もいるだろう。しかし、善意からの行動だ。それが後先考えない粗い行動なら周りの人間が補ってやればいい。

 善意で動く人間が傷付いていい道理はない。そのような人間を守る為に、全てを失った盲目の宦官奴隷サービトが傷付く程度安いものだ。


 ナーディヤがもう一度サービトに謝り、助けてくれた男に向き直った。

「ありがとうございます。お蔭で助かりました」

「いえいえ、当然の事をしたまでですからお構いなく。ご無事なようで何よりです」


 ナーディヤはハーンカーを見回した。ヒジャブを着けた女がやけに多く、男の方が少ないぐらいだ。肌の色も様々で、服装も上等なものから擦り切れた布を纏った者まで千差万別だ。


「随分裾野が広い教団なのですね」

「神を信じる者に違いはありませんから。特に最近は方々から逃げてきた人が多いようで、このように多種多様になりました」

 そこで、ナーディヤは声を洩らした。そこから最低限の礼を済ませてハーンカーを後にして、帰路の途中で護衛との距離を確認してから口を開く。


「逃げてきた人たちで思い出したのよ」

 その声は落ち込んでいた先ほどと打って変わって生き生きしている。予想はなんとなくついた。


「協力者の件ですか?」

「そう。郊外にクバイバートという街区があるのだけれど、そこにイルハン国から逃げてきた異教徒が集まっているの。異教徒を理由に総督は彼らを追い払おうとしたのだけれど、お父様はそこに住む許可を出した。彼らなら私に協力してくれるかもしれない。でも」

 途端にナーディヤの声が暗くなる。

「またサービトに怪我をさせる事になる」


 いらぬ心配だった。怪我をするのはサービトの仕事の内だ。何より負った傷など打撲と擦り傷程度でしかない。

「五体満足ですから気にしないでください。それよりさっき襲ってきた連中は、前に俺に警告してきた連中でした。特別な事は言ってませんでしたが」


「……どういう事? 彼らはいったい何者なの?」

 困惑は尤もだった。最大の疑問は、連中は何を根拠に襲ってきたのかだ。


 今まで連中の正体はマムルークの手下だろうと考えていた。しかしあの日以来ナーディヤは表向きマムルークを追ってはおらず、今日行ったことと言えば知り合いのフブズ屋を訪ねただけだ。襲われる理由がない。つまり、その正体はマムルーク以外の何者かだ。


 また、サービトの裏の顔に気付いたわけでもないだろう。それなら刃物であっさり殺されていた筈だ。殴る蹴るで済むわけがない。手心を加えられたことといい、連中が警告しているのはナーディヤの行動と考えていい。


「カターダさんが約束を破った?」

 ナーディヤの自問自答の呟きは、サービトの予想と一致していた。それ以外に連中がナーディヤの行動を知る由はない。


 問題は、誰が連中を差し向けるのかという点だ。

 一番あり得るのは、アル=アッタール家の誰かだ。それならナーディヤの行動を把握し、かつサービトを殴る蹴る程度の警告で済ませる理由が説明できる。だが、クトゥブやヤークートがわざわざそのような手を使う理由がない。一言駄目と言えば、ナーディヤもサービトも逆らえないのだから。


「使用人の誰かなの?」

「心当たりはないんですか?」

 ナーディヤはちらと背後を見やった。ウトバは遠くからナーディヤを護衛、あるいは監視している。一度はサービトに謝罪したが、それが嘘偽りだったのかもしれない。


「あの時、ウトバの様子はどうでしたか?」

「何も知らずに驚いていた、と思う」

 これ以上の判断材料はなかった。いくら考えても進展はないだろう。


「使用人の誰かがお嬢様の行動を良く思っていない。今はそこまでにしましょう。話を戻して協力者の件はどうしますか? カターダの二の舞になるかもしれませんが」


 絶対とは言えないけど、そうナーディヤは前置きした。

「彼らはお父様に恩があるけど、異教徒だから協力関係にはないと思う。少なくともカターダさんが私を断った理由は一つなくなる。でも」


 ナーディヤは押し黙ってサービトの傷だらけの顔を心配そうに見上げる。サービトにその動きは見えないが、不自然な間で勘付いた。

「俺のことを気にする必要はありません」


「私を人でなしにしないで」

「俺は一度死んだ身です。それも戦場で死ねなかった戦士です。お嬢様の大義の為に死ねるなら本望ですから、気にせず自分のしたいことをするといい」


 本心だった。

 決して強い感情ではない。どこかでサービトはそれを求めている、そうなっても受け入れられる、そんな予感がするだけだ。

 だが、後悔はしないだろう。


「嬉しいわ。でもだからこそ、サービトをそんな目に遭わせられない」

「では言い方を変えましょう。お嬢様は行くべきです。大勢の人を助ける為に部下へ死を命ずる。己の立場に責任を覚えているなら、それができるようにならないといけない。部下の命を背負った時、初めて立場や責任というものが心から理解できるようになるものですから」


 全てを守るのは不可能だ。何かは切り捨てなければいけない時がくる。その時に何もできないのは長失格だ。仮に間違っていようとも、長として自らの手で何かを切り捨てなくてはならない。

 そして、そうして行動した結果、サービトはボズクルトに切り捨てられた。


 サービトは、ナーディヤにかつての自分を重ねているのかもしれないと思った。自分が選べなかった道を選んでほしい。どこかでそう思っているからナーディヤに肩入れするのかもしれない。


「分かったわ」

 そう言った時、ナーディヤの足取りが力強くなった。

「行きましょう。お父様に恩のある彼らなら力を貸してくれる筈だから」


 ズールのカターダやスーフィー教団といい、つくづくクトゥブが大人物である事を実感させられる。

 今のナーディヤは悪く言えばその偉大な父親の威光を笠に着ているに過ぎない。カターダが断ったのも突き詰めるとそこが原因だ。所詮、ナーディヤ自身は力のない小娘でしかない。


 そして、ナーディヤはその事を誰よりも分かっている筈だ。

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