第16話 盲目の奴隷に戻って
サービトは欠伸を噛み殺し、前を行くナーディヤの足音に集中する。
定期市で居丈高な態度で店主に接していた男を見つけたのはつい先ほど。尾行してみると、その男がムフタスィブの仕事を受け負っているらしい事が分かった。男は獲物を漁るように定期市を物色し、そこを離れるとフブズ屋が集まる常設のスークに立ち寄った。
「この店のフブズに虫が混じっているとタレこみが入った」
男の唐突な文言に、店員は困惑気味の笑みを浮かべた。
「まさか。うちはどの店よりも清潔な環境でフブズを作ってるんですよ。他の店の間違いじゃないんですか?」
「いいやこの店だ。蠅が何匹も混じっていたらしい。驚いてすぐに捨てたそうで現物はないが調べさせてもらう」
「だったら証拠もないじゃないですか?」
瞬間、男が店員の首根っこを掴んで引き寄せた。
「てめえ下っ端だろ? いいからアタマ呼べよ」
店員を突き飛ばす。その騒動を聞いたのか、店主らしき男が表に出てきた。チンピラと目があうと、その接客用の笑みが消える。
「……いつもの金額で良いですね?」
「こっそり聞いてたな。だったら早く出てきて寄越せよ、馬鹿がよ」
男は店主から金を奪い、足取り軽く上機嫌で去っていく。ナーディヤたちは距離を取り、静かにその後を追った。
男は他の店には見向きもせずにスークを出ていく。その足取りに迷いはなく、どこかの目的地に向かっているらしい。必然、ナーディヤたちも一直線に進んでいく。離れて着いてくる護衛の男がナーディヤの行動を不審に思い始めていても不思議ではない。
「後ろはどうするつもりですか?」
今までは何も言わずに誤魔化す方向でやり過ごしていた。しかし限界がすぐそこに見えているのは当初から分かっていた事だ。果たして、ナーディヤも小さな唸り声を洩らした。
「……考えてはいる」
そう言われるとサービトに返す言葉はない。ダマスクスの常に騒がしい喧噪に耳を澄ませながらナーディヤの足音に着いていく。
喧噪に違和感があった。
喧噪は人々が好き勝手に生活しているからこそ、様々な音が混ざり合って却って特徴のない音になる。しかし今の喧騒にはやけに鋭さを感じる。つまり、人々が同じような音や声を発しているという事だ。
「待ってください。様子が変です」
サービトは言って、足を止めたナーディヤに寄って周囲を窺う。
悲鳴、怒号、走っているような足音。誰かが暴れているのか。少しずつ近づいてくる。追っていた男はそんな事とはお構いなしに遠くなる。
「駄目、見失ってしまう」
「……行きましょう。警戒は俺がします。手を引っ張ってもらって良いですか?」
ナーディヤはサービトの手首を掴んで歩き出した。サービトは意識の全てを喧噪に向け、ナーディヤに誘導されるがままに足を動かした。
声の伝播に滞りはなく、広がる速度もかなりのものだ。馬が暴れ回っている光景がサービトの頭に浮かぶが、一様に騒ぐほどのことでもないと否定する。
そうこうしている間に喧噪が明確な混乱に変わった。何かがどんどん近づいてくる。
「マジュヌーンだ!」
叫び声が聞こえた。地面を突き刺すような足音が自由自在に飛んでいる。道どころか家々を踏み越えている。前方を凄まじい速度で横切ろうとしている。
野太い悲鳴が上がった。
「襲われているわ。私たちが追っていた人よ」
男が必死に抵抗しようと足掻いていた。しかしマジュヌーンの力は強く、男は簡単に組み伏せられた。服が音を立てて千切れ飛ぶ。男が悲鳴を上げて泣き叫ぶ。懐に入っていた金や物が四方八方に飛んでいく。周囲の人間は一目散に逃げ出して、あっという間に群衆が消え去った。
不意に、マジュヌーンが動きを止める。
その隙に男が命からがら抜け出した。ほとんど裸同然で走っていく。マジュヌーンはそれに見向きもせず、男が落とした何かに四つん這いで鼻を近づけた。
「あれが、マジュヌーンなの?」
微かに、ナーディヤの声が震えている。サービトの腕を引き寄せ、自身もサービトに近寄った。それと同時に、マジュヌーンが発する音が変わった。
「来る」
ナーディヤが言う。サービトは前に出て、ナーディヤの手を振り払った。
「離れてください」
前に出ながらアスワドに故郷の言葉で話しかける。
「言うことを聞くんじゃないのか」
「……寝てんだから話しかけるなよ。というかだからマジュヌーン(狂人)なわけだし。ま、襲われないから大丈夫よ」
アスワドが眠そうな声を出した途端、言った通りにマジュヌーンの足音の行き先が変わった。すぐに遠くなり、辺りに静けさが立ち込める。
ナーディヤがおっかなびっくり地面を擦るようにして歩み寄ってきた。
「今のうちに残されたものを調べましょう」
散らばったチンピラの荷物をナーディヤが調べていく。サービトは後方にいる護衛からナーディヤの姿を隠しつつ、戻ってくるかもしれないチンピラの気配に注意した。
「これは、何かしら?」
ナーディヤが地面に零れた何かに眼を止めた。
「分かる、サービト。色は茶色っぽいけど」
ナーディヤがサービトの手を取り、自分の手に乗せた何かを触らせる。水っぽい糊状のものだ。指で擦り合わせると繊維質のようなざらつきがある。臭いは甘いとも不快とも取れ、どこか鼻を突くような感じがあった。
「ハシシ(大麻)では?」
「ハシシ!?」
ナーディヤが散らばった服の切れ端で急いでハシシを拭う。皮膚まで削ぐように執拗に拭き、さらに土までを掴んだ。
「余計な事はしないでおきましょう。落としたものを拾いに帰ってくるかもしれません」
ナーディヤは掴んだ土を眺め、名残惜しそうに地面に落とした。
「そうね、戻りましょう。護衛の彼にこれを見られるのも良くないでしょうし」
ナーディヤたちは来た道を辿り、護衛に目的を悟られないよう十分な距離を取ってから逃げ出したチンピラの帰りを待つ。
「帰ってきた。お金を拾って、ハシシも気にしているけど諦めたみたい。追いましょう」
尾行を再開する。男はどこかで服を着替えていた。先ほどと比べて足取りは重くなっているが、それでも目的地を目指しているのか迷いがない。
「あのハシシが入っていた入れ物、恐らく瓶だと思うのだけれど、もしかするとあのマジュヌーンが持って行ったのかも」
「マジュヌーンはハシシが好きなんですか?」
「いえ、聞いたことないわ。でもあの人がハシシが入った瓶を持って逃げたのなら、戻ってきた時に零れたハシシを気にしない筈。ああいえ、関係ない話ね。静かにするわ」
大通りを歩いていた男が、初めて道を曲がって枝道に入った。この先道は奥に入っていくほどそこの住人ばかりになり、最後には部外者はいるだけで不審がられるようになってしまう。
「深追いはしないように」
「理解しているわ」
ナーディヤたちも奥に進む。住宅の間隔が狭まり、影が道を覆い尽くす。喧噪もだんだん小さくなり、今まで紛れていたナーディヤたちの存在が急速に浮き上がってきた。
楽器の音が聞こえた。
笛の音だ。太鼓や弦楽器の音も混じっている。催し物が開かれているらしい。男の進行方向から流れてくる。しばらく進むと、その音が漏れてくる建物が分かってきた。
アル=アッタール邸よりは小さいが、それなりに裕福な館だ。笑い声や囃し立てるような声が上がって随分盛り上がっている。その館に、男は我が物顔で入っていった。
「入れませんよ」
「分かっているわ。やっぱり護衛をどうにかしないとどうしようもないわね」
言いながらナーディヤはその館の前を通り過ぎようとする。風も吹いていないのに強烈な匂いが漂ってきた。ブドウとナツメヤシ、さらに慣れ親しんだ頭を浮つかせる香りだ。
「酒の匂いがします」
飲酒は聖典、そして法で禁止されている。
「どうしようもないわね」
ナーディヤは苛立ちを隠さなかった。そのまましばらく歩き、護衛を誤魔化すために適当な家を訪ねて住人と簡単な立ち話をして踵を返す。
「今日は諦める。でもあの家には絶対に潜入する。護衛はどうにかして撒きましょう」
ナーディヤがここで引くわけがないのは分かっていた。護衛の男に協力を求めないのも想像できていた。褒められた選択ではない。何から何まで安全とは程遠い危険な道だ。
だが、問題はない。
「着いていきます」
しかし翌日、ナーディヤが自室から出ることはなかった。
「躰が弱いのです、お嬢様は」
そう言ったヤークートの表情は、いつものように穏やかだった。単身で出かけようと一階に降りていたサービトは、金属盆に飲み物を乗せたヤークートに尋ねる。
「無理にでも外出を止めるべきでしたか?」
言いながら、サービトは初めてナーディヤの手に触れた時の事を思い出した。
最低限にしか肉が付いていない骨ばった手は、明らかに病人のものだった。あのような手をした人間が健康なわけがない。当然まともな体力もないだろう。考えなくても分かることだ。
「いえ、こうなるだろうと分かっていながらお嬢様をお止めしなかったのは私です。これほど外出されるのは初めてのことですから、つい見過ごしてしまいました。旦那様に叱られるべきは私なのですから、サービトは気にしないでください」
事情を知っていればナーディヤを止めただろうか、サービトは自問する。
いや、止めなかっただろう。元より危険は承知、外敵であろうが病気であろうがそれは同じだ。ナーディヤがそれらを理解して行動に移った以上、ヤークートのように見守る以外に道はない。
「ありがとうございます。何か用事があれば言ってください」
「でしたらこの大麦水をお嬢様に届けてください。滋養強壮に効く飲み物ですから、こんな時こそ飲んでいただかないと」
サービトは飲み物が乗った金属盆を受け取った。アル=アッタール邸に来て数十日、家の構造も覚えて一人行動するのに支障はない。階段も物を運びながらでも上がれるようになっている。
「サービト、あなたは今まで通りお嬢様と接してください。今回の事を気に病んで態度を変える必要はありません。今のままが良いのです。それに今、街ではかなりの数のマジュヌーンが暴れていると聞きますから、丁度良かったのかもしれません」
「ヤークートさん」
誰かが口を挟んできた。ナーディヤを遠くから護衛している男だ。
名はウトバ。筋肉の上に脂肪の鎧を着込んだような躰に、常に見開いているような大きな眼をしている。
「食糧庫でヤークートさんを探してましたよ」
「丁度サービトのお蔭で手が空いたところです。すぐに行きましょう」
ヤークートが足早に離れていく。サービトは大麦水を運ぼうとして、ウトバが低く声を利かせて囁いた。
「来いよ、話がある」
「……お嬢様に大麦水を届けた後で良いですか?」
「お嬢様は大麦水を飲まない。嫌いなんだ。いいから着いてこい」
ウトバに連れられてサービトは客室に入った。ウトバは後ろ手で扉を閉め、サービトから金属盆を奪い取って基壇に置いた。
「俺はお前が嫌いだ」
否定的な言葉が飛んでくるのは予想できてきた。揉め事は起こしたくない。サービトが返答に悩んでいると、ウトバに胸倉を掴まれた。
「盲目の宦官だか知らないけどよ、俺だけでお嬢様の護衛は間に合ってたんだ」
サービトの顔に唾が掛かる。ウトバは背が高いが、それでもサービトより一回りは小さい。意図的に唾を吐き掛けていた。
「お前なんて端から必要ないんだよ。それなのにお嬢様を連れ回して、挙句の果てにはぶっ倒れちまった。躰の弱いお嬢様が倒れたのはお前のせいだ! 分かってるのか!?」
当てつけに答える言葉はない。黙っていると、ウトバは突き飛ばすようにサービトの胸倉から手を離した。
「これは警告だ。これ以上余計なことはするな。分かったな?」
答える前に、ウトバは部屋を出て行った。
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