盲目でマジュヌーン
第15話 復讐の準備
夜のダマスクスは快適だった。
痛みを伴う強烈な陽射しが消えただけで嘘のように過ごしやすい。それに本来なら暗くて見通せない夜の風景も、ジンの目を通してなら日中と同じように見通せる。
ジンの目──不思議な目だ。
俺はふと疑問に思って自分の眼に触れようとすると、視界に指先が食い込んだ。触覚に反応はない。蘇ったのは視力だけで、眼球は失ったままのようだ。
「俺の目は周りからどう見えている」
故郷の言葉で問うと、アスワドが耳元で答えた。
「普通の人間と同じだ。ちゃあんと目ん玉が二つあるように見えてるよ。腐っても俺はジンだぜ? 舐めるなよ」
それなら、外見から俺がマジュヌーンだとバレる恐れはないか。
「って、そんなことはいいんだよ!」
急にアスワドが騒いだ。その声が静まり返った夜の街に広がっていく。通行人は浮浪者のような怪しい人間が少数いるだけだ。明かりを持った夜警もいるにはいるが、こんな時間に歩いている俺も変人の一人だと処理されて気にも留めないだろう。
「ボズクルトって奴はどこにいんの、結局」
「街の北西に城塞がある。おそらくそこだろう」
ボズクルトがマムルークとして扱われているかは不明だが、観兵式に出ていた以上軍人なのは間違いない。仮に城塞にいなくてもボズクルトを知っている人間ぐらいは見つかるだろう。
「なら今から攻め込もうぜ」
「無理だな。全盛期の俺ならともかく、衰えた今の力でマムルークたちと戦った後にボズクルトを殺すのは不可能だ。あいつは強い」
「ほうほう。なら俺に良い考えがあるぜ。仲間を増やすんだ。で、そいつらに手引きしてもらってその城塞とやらに忍び込もう。それだったら楽に目的の相手と戦えるだろ?」
「言うは易し、行うは難しだ」
アスワドが甲高い声で笑った。
「それがそうじゃないんだな。俺の友達に手伝ってもらう」
友達というのは、当然人間ではないだろう。
「ジンか」
「そうよ! 俺の友達のジンをそこらへんの人間に憑りつかせてマジュヌーンにするんだ。マジュヌーンになっちまえばその人間はもう俺たちジンの操り人形、好きにしたい放題さ」
語るに落ちたな。そう思ったが直ぐに否定した。アスワドの言葉が本当ならとうの昔に俺はアスワドの操り人形になっている。しかし今の俺は、間違いなく自分の意思で動いている。狙いは別のところにあるのか。
「……俺を操り人形にするのがお前の本当の目的か」
「ああ? うん? はいはいはい。そら勘違いだハリル。お前ほどの精神力の持ち主を操り人形にできるジンなんているわけない。どれだけ強力なジンでも不可能だ。最初に言った通り、お前の中で俺を匿ってほしいだけだよ。信じてくれ」
ジンに性別があるのかは知らないが、男にしては高い声に薄っぺらい口調だ。小物の喋り方に違いはないが、嘘吐きと正直の区別はつかない。
「なんでもいい」
騙されているなら対処は気付いた時に考えれば良い。それに利用し利用される関係だ。俺が文句を言えた筋合いもなかった。
「それよりどうすればマジュヌーンを増やせる」
「精神力が問題だな。強いジンならどうとでもなるんだが、生憎俺の友達はみんな弱い。俺と同じでな。強引に憑りついて躰を乗っ取っちまうなんてのは無理無理の無理だ。でも手はある。気絶させるんだ。それならよっぽど精神力が強くない限りはいける筈だ」
他に手はない。俺は適当に道を曲がり、街の奥まった場所に進んでいく。
ダマスクスの道事情は未だに慣れなかった。中央を名前通り真っ直ぐな直線通りが貫き、街を通る道の多くがそこから派生している。それぞれの街区に繋がる道があり、そこから生えた道がそれぞれの区画に浸透していく。まさしく樹のような構造だ。そして末端の袋小路は夜になると入り口の戸が閉まり、上流階級が住むような住宅地では門番が立つ。
あくびが聞こえた。閉まった戸の向こうからだ。門番が眠い眼を擦っているのだろう。俺は戸を蹴り上がって飛び越え、向こう側に着地した。門番が目の前にいる。
「誰──」
──顎を殴って黙らせた。一撃で意識の飛んだ門番が戸にぶつかり、力なく崩れて座り込む。アスワドがどうやって鳴らしているのか口笛を吹いた。
「お見事! お前さんに憑りついた俺の眼は正しかった。やるね、俺」
「いいからやれ」
「はいはい。おうい出てこい。俺が、呼んでるぞ」
夜の闇の、さらに月明かりすら当たらない建物の影が濃密になった。影は一点に集まりつつ濃さを増していき、赤ん坊ほどの大きさの塊になる。
「来たな。そいつに憑りつくんだ。若い人間の躰だ。嬉しいだろ」
黒い塊が返事をするように伸び縮みする。それから毛虫が這うように門番に近づき、頭に覆い被さった。途端、その塊が痙攣した。それに気を取られていると塊はどんどん小さくなり、あっという間に消えてなくなった。
門番が、むくりと立ち上がった。
「どうだその躰は。やっぱ若いって大事だよな?」
門番は無言で自分の躰をあちこち触り、俺を見た。にたぁと歯を見せて笑う。
「良い、ですね。さい、こう、です」
たどたどしいのは気になるが些細な問題だろう。
「言うことは聞くんだろうな」
「そりゃ躰まで用意してやったんだ。聞くに決まってる。なあ?」
アスワドが言うと、マジュヌーンになった門番はこくこくと子供のように頷いた。瞬間、俺は門番を蹴りつけた。
門番の躰が戸にぶち当たる。勢い余って戸が壊れ、門番は道の外まで吹っ飛んだ。
手応えはあった。しかしマジュヌーンとなった門番は何事もなかったかのように立ち上がり、好奇心に釣られた馬のように戻ってきた。
「相変わらず頑丈だな」
「おっかねえな。何するんだよ」
アスアドが喚くが、怒りや戸惑いは欠片もない。むしろ楽しんでいるような口調だ。
「従順さを試しただけだ」
「舐めるなよ。そいつはもう俺たちの手駒だ。しかも躰を動かしてるのはジンの方だ。手足がなくなった程度なら問題なく動くぜ」
俺が蹴ったのは腹だ。常人なら胃袋が空になるまで嘔吐し続け、しばらくはまともに動けないだろう。それがぴんぴんしているのだからまさにマジュヌーン(狂人)だ。
「お前は指示があるまで今まで通り門番を続けろ。分かったな」
「は、はいい」
愚鈍に思えるが、最悪囮に使えばいい。これならアスワドの策に乗っていいだろう。
俺はマムルークが過ごしている城塞近くに向かい、適当な人間を襲ってマジュヌーンを増やしていった。そうして夜明けが近づくと、アル=アッタール邸に引き返す。
「男もいいが女もマジュヌーンにしろよ、ハリル。どうせマジュヌーンになれば人間離れして男も女も関係なくなる。だったらどこにでも入り込める女の方が便利だ……って帰ってねえか?」
「今日はここまでだ。チンピラどもの尾行がある」
「は!?」
アスワドが叫んだ。微かに耳鳴りが起こる。
「お前はボズクルトって奴を殺すんだろ? 子供のお守りなんてしてどうすんだよ!」
「俺はこの街を知らない。安全な拠点は必要だ」
呆れ混じりの溜息が聞こえた。
「ま……好きにしろよ。言っとくけど昼は喋らないからな。寝てるから話しかけるなよ」
俺は歩きながら解いていたターバンを巻いていく。普段は目元まで隠しているからこそ、外してしまえばハリルとサービトが同一人物だと分かる人間はまずいない。
「あでも、だからって寂しがるなよ」
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