第14話 ジン

 言うのは簡単だったが、難しい障害がいくつもあった。

 最大の問題は尾行する当人のナーディヤが全くの素人である点だ。盲目のサービトが補助できる事にも限度がある。結局良案は浮かばず、一先ず街を歩いての予行演習をすることで話が纏まった。


「おや、今日も外出ですか?」

 ヤークートの声がした。サービトは思案を中断して、二階に上がってきたばかりのヤークートに顔を向ける。

「色々と見て回りたいそうです」

「それはよろしいことです。今日は直線通りで観兵式が行われるので覗いてみては如何ですか? 旦那様も参列されています」

 サービトはこの国の言葉は大方理解できてきたが、それでも聞いた事のない単語だった。


「観兵式?」

「軍人たちのお披露目ですよ。直線通りを中心にして飾り立てられ、さながらお祭りのように賑わいます。人が多いので煩わしいようであれば近づかない方がよろしいでしょう」

 いつもと人の動きが違うのなら尾行にも影響がありそうだ。祭りほどの騒がしさとなれば聴覚だけでナーディヤを追うのも難しい。

 ヤークートが立ち去り、間もなくナーディヤが現れた。尾行への影響を考えて腰に下げた鈴は外してある。

「行きましょう」


 すぐに外出した。布地市場のような常設のスークを歩いて回り、適当な通行人を対象として尾行の練習を行っていく。

 本来、尾行は一人で行うものではない。複数人で交代しながら行うものだ。しかしナーディヤが誰も頼れない以上、一人で適切な距離を保ちつつ対象を追うしかない。ナーディヤが見て取れる情報を全て話し、サービトがそれを元に判断する。それを繰り返して不要な情報の伝達を減らしていき、ある程度はナーディヤだけで判断できるよう訓練する。

 観兵式の影響か普段より人通りが少なかった。店主たちの熱気も下がり、観兵式が大本であろう騒がしい喧噪が遠くからでも聞こえてくる。


「待って」

 不意に、ナーディヤが呟いた。

「いた」

 その視線の先に、店主から金を受け取り肩で風を切って歩いている男がいる。店主はその背に向かって何度も頭を下げ、肩を落として店内に消えた。


「顔に見覚えがある。追いましょう。練習もしたから大丈夫よ」

 声が急いている。サービトはナーディヤの進行方向に片足を割り込ませた。

「焦らないでください」

 一度、ナーディヤが深呼吸する。

「……ありがとう。良くないと思ったら直ぐに止めて」


 その止めるべき時とは今ではないのか。

 サービトは判断に迷った。しかしこれが明日明後日でも同じように迷うだろう。それならいつ行動に移っても同じだ。

「分かりました。無茶はしないでください」


 尾行を開始した。サービトには対象が遠すぎて足音は聞こえない。たまに響く恫喝や笑い声で位置を認識するので精々だ。ナーディヤを信じるしかなかった。

 ナーディヤが足を止めたら自分も止まり、歩き始めたら自分も足を動かす。それを何度も繰り返し、時たま遠くからナーディヤを護衛している男にも警戒を怠らず、買い物客を装ったりもした。


「誰かと合流した。仲が良さそうに話しているわ。仲間かも」

「その仲間の視線に気を付けてください。俺たちと目が合えば尾行は中断です」

 その時は知らないふりをして護衛の男と合流する。揉め事になるかもしれないがナーディヤは守られる。その後尾行は再開できるかは不明だが、身の安全には変えられない。

「いえ、大丈夫みたい。周りを警戒している雰囲気はなさそうよ」


 遠くから一際沢山の音が混じった喧噪が流れてきた。観兵式が行われている直線通りに近づいているのだろう。それに人が吸い寄せられ、周囲の人通りも極端に減ってきた。

 尾行を中断するべきか。サービトの中で迷いが生まれる。

 二人の姿形はニカブを着た少女と目元までターバンを巻いた大男だ。群衆に紛れていれば意外にも馴染むが、ぽつねんとすれば目立つことこの上ない。一度頭の片隅にでも引っかかれば終わりだ。


「駄目!」

 言った途端、ナーディヤが走り出した。観兵式の喧騒に向かっていく。まずい──サービトも急いで後を追った。あっという間に人の往来が膨れ上がっていく。

 音の壁があった。長く、分厚く、ささくれ立った壁だ。そこにナーディヤが突っ込んでいく。寸前、サービトの手がナーディヤの肩を掴んだ。

「もう無理です」

 ナーディヤの躰から力が抜けるのは早かった。しばらく音の壁の前で茫然としたように立ちつくし、肩に置かれたサービトの手を取って振り返った。

「ごめんなさい。今のは良くなかったわね」


 サービトは、返事をするのも忘れていた。

 触れているナーディヤの手が、想像以上に細い。普段の生活や足音の軽さである程度推測はできていたが、実物はそれを超えていた。僅かに肉は付いているが、根本的に骨から細い。病人のようではない。完全なる床に伏した病人の手だ。

「離れましょうか」

 ナーディヤはサービトの手を引いてその場を去ろうとする。我に返ったサービトが足を動かそうとした時「これはこれは」と馴染みのある老人の声が近づいてきた。


「お嬢様も来られましたか。もう少しで旦那様がお見えになりますよ」

 ヤークートの声は祭りの熱気に当てられたように上気していた。ヤークートはナーディヤとサービト、そして二人の繋がった手を見て笑みを浮かべる。

「とてもよろしいことです。知り合いの店の二階を確保していますので、そちらで見物してはいかがですか?」

 未練を振り払うような間が空き、ナーディヤは平静に答えた。

「そうね、案内して」


 近くのフブズ(パン)屋に入り、二階に上がってナーディヤが出窓の凹部に腰掛ける。その隣にヤークートも座り、盲目のサービトは少し離れて立ったまま待機した。楽器の音が喧噪を突き破り、高らかに天まで響いている。


「おい、なあ、おい、聞こえるか?」

 耳元で声がした。男にしては高い声だ。今までに何度か聞いた覚えがある。サービトは辺りに耳を澄ますが、近くにナーディヤとヤークート以外に人の気配はない。

「まあ良いからちょっと部屋の外に出ろよ。話しようぜ、な?」


 ジン。ヤークートの注意を思い出す。

 彼らは暗がりを好み、普段は人の目には見えません。しかし非常に頭が良く、言葉巧みに人を騙したり、暗がりに連れ込んで襲ったり、あるいは人に憑りついて操ったりと、非常に危険です。

 何が狙いかは知らないが、ナーディヤから離れた方が良さそうだ。サービトは二人に気付かれないよう足音を殺して部屋を出た。


「やっと一人きりというか二人きりになれたぜ。これでゆっくり話せるな」

 それは、この国の言葉ではなかった。

 サービトの故郷の言葉だ。俄かに警戒心が膨れ上がる。無意識に手足に力が入った。


「何の用だ」

 サービトも故郷の言葉で答えた。

「いつから俺に付き纏っていた」

「いやいや待ってくれ待ってくれ。俺を警戒するのは分かるよ。俺だって同じ事をされたら警戒する。気持ち悪いよな? でもそうじゃない。助けてほしいんだよ」

 話を聞く気はなかった。ただ、このジンがどこにいるのか分からない以上、話を続けて探るしかない。


「誰かに狙われているのか」

「そうじゃない。俺は平和主義者なんだ。誰にも恨まれるような事はしてない、多分、たぶん。でもな、自慢じゃないが俺は弱いんだ。襲われたらひとたまりもない。即あの世行き。可哀そうだろう?」

「知らないな」

「守ってくれよ。礼もするぜ。とんでもなく良い礼だ。ああいや、面倒な事はしたくないってんだろ? 大丈夫、お前さんの躰を間借りさせてくれるだけで良いんだよ。それ以外は何もしなくていい。どうだ? 悪い話じゃないだろ?」


 都合が良すぎる話だった。ジンが言葉巧みに人を騙すのは本当らしい。

「俺は何も求めていない。他を当たれ」

「眼が見えるようになる。それが礼だ。ときめいたろ?」

「興味がない」

「強がるなよ。眼が見えない生活ってのは苦労ばっかりの筈だ。一度は死のうとすら思ったことがあるんじゃないのか? それがもう一回見えるようになるんだぞ。俺をお前さんの躰に匿うだけで」


 強がりではなかった。例えこのジンを信用しきっていたとしても、サービトは同じように答えるだろう。

「俺は全てを失った。眼だけ戻ってどうする」

「まあまあ最初はみんなそう言うもんさ。とにかく試してみろ。その後ゆっくり考えればいい」




 あの日以来、俺の視界は単純になった。

 盲目の世界は黒一色だと思っていたが、思いのほか様々な色に満ちていた。黒だけでなく青や緑、茶といった普段目にしていた色が点在し、たまに馬に見えなくもない形を取ることもあった。

 その視界が、本当に黒くなった。いや、暗くなった。


「ほら、ターバンを外してみな」

 俺は目元を覆うターバンをずらしてみた。そして、眼を開ける。


 見える。


 壁が見えた。俺の脚が見えた。手も見える。動かした通りに俺の手が動いている。薄い煙越しに見ているような視界だが、間違いなく俺の視力が蘇っている。

「良いだろう? それが見るってやつだ。懐かしいだろ?」


 下らない。その一言に尽きた。


「それがどうした。今更眼だけが戻ってどうする。俺にはもう必要ないものだ」

「まあそう言うなって。色々見てみろよ。今はお祭りなんだろ? ちょっくら見ていけよ」

 自分でも気づかない内に階段を下りていたのは、視覚への執着が残っていたからか。見慣れない様式の内装よりも、足元を見ながら何の苦労もなく階段を下りていく。


 外に出た。人の壁があった。右を見ても左を見てもどこまでも続いている。煩いわけだ。楽器の音が鳴り響き、砂煙を上げて集団が行進している。

 これが観兵式というやつか。歩いている兵士は俺の身長をもってしても分厚い人壁で見えないが、馬上の兵士は余裕を持って見て取れた。


 あれがこの国の軍人──マムルークか。

 着込んだ薄片鎧は容赦なく照りつける太陽の光をそのまま跳ね返すほどに磨き上げられ、その上に着た外套は所属を表しているのか同じ柄で揃っている。先端が尖った鎖頭巾まで光り輝き、一目見ただけで精鋭部隊なのだと窺えた。


 心臓の鼓動が、鼓膜を打った。


「なんか見えたのか?」

 俺の眼は、一人の兵士に吸い寄せられていた。着飾った甲冑姿で馬に乗り、群衆に笑顔で手を振っている男は、そこにいる筈がなかった。いてはいけなかった。


 ボズクルト。


 息が乱れる。熱さから来るものとは別の、ねっとりとした汗が噴き出てくる。しかし躰の芯が寒い。暗い視界がどんどん狭まっていく。

 ボズクルト──お前は何故ここにいる。俺の代わりに一族を率いているんじゃないのか。


「なんだ知り合いでもいたのか?」

 あの時、ボズクルトは外部勢力と手を組んだ。それがこの国──南の奴隷たちだった。


 その結果が、これなのか。

 俺はずっと、ボズクルトは外部勢力と手を結んでも一族の独立を保ったのだと思っていた。だが違った。ボズクルトは奴隷たちの軍門に下っていた。いや、一族の長であるボズクルトがここにいるのだ。軍門に下った程度では済まないだろう。


 嫌な想像が頭を過った。

 ボズクルトに限ってそんな筈が無い。そう否定しようとするが、目の前にいるボズクルトの姿がそうさせてくれない。いつも苦労していたせいか固い表情ばかりだったのが、自分の本当の居場所はここだと言いたげに、柔らかい笑顔で歓声を浴び、満足そうに余所の国の軍人として馬上の人となっている。


 血が巡り、躰が熱くなる。頭が燃え滾り、破壊衝動にも似た激情がふつふつと湧いてくる。

 ボズクルト──お前はそんな奴だったのか。

 一族の為なら、俺は見捨てられてもお前を支持した。兄弟よりも兄弟らしく共に育ったお前の思いを推し量り、選択を受け入れた。


 だが、全てまやかしだったのだな。

 あいつに誇りなど存在しなかった。カラジャと同じ、ヤクブと同じ、誇りなき汚れて腐りきった男だった。


「ジンよ……名前は何と言う」

「人間じゃねえんだ、名前なんてない。でもそうだな、あだ名みたいなものは付けられたことがある。アスワド──そう呼んでくれよ」

「アスワド、お前が何を企んでいるのか、この際問いはしない。俺を利用したいなら好きにしろ。俺もお前の力を利用させてもらう」


 ボズクルトの姿が、カラジャに、ヤクブに重なる。

 あの誇りなき者を殺せ。あの醜い皮を纏った男を殺せ。あの一族の面汚しを殺せ。心の中で何かが獰猛に叫んでいる。ボズクルトを殺せと喚いている。


「おう、好きにしな。これからよろしく頼むぜ、サービト」

「その名で呼ぶな」

 サービトは奴隷の名だ。何も持たない奴隷が何の為にボズクルトを殺す。

「俺はカラジャの子──ハリルだ」

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