第13話 始まらない調査

 ナーディヤが腰に下げた鈴の音を頼りに、サービトは布地専門のスークに足を踏み入れた。

 途端、嘘のように熱さが消えた。露店が並ぶ定期市と違い、常設のスークには天井が備わっている。激しい日光と無縁のスークには扱っている物が物だけに女性客が多く行き交い、子供の声もそこここから飛び交っていた。最初の聞き込みをするには丁度良い牧歌的な雰囲気だ。


「……す」

 出掛かった声が一度止まり、意を決したようにナーディヤが再度口を開く。

「すみません。ムフタスィブの代理人、あるいはその助手について話を聞きたいのですが」


 髭を短く切りそろえた店主は反射的に商品に伸びた手をひっこめ、ナーディヤの後ろに立つ大男のサービトを二度見した。

「はい?」

 警戒心が顔に浮かぶが、一瞬で商売人の笑みに変わる。

「良い生地を揃えていますよ、お客様。こちらの商品はどうですか?」


「客ではありません」

 ナーディヤが言うと、店主は辺りに視線をやって客足を確認する。しかし生憎周辺に客の姿はなく、その口角が少し下がった。

「お嬢さんがそんなことを知ってどうするんで?」

「知りたいのです。ムフタスィブの代理人かその助手が不正を働いています。知っていることがあれば教えてください」


 店主の視線が泳ぎ、心もちその声が小さくなる。

「そのニカブの生地を見たところお嬢さんはいいとこの娘だろ? 悪い事は言わないから大人しくしときな。それがお互い一番良い」

「何かあるのですね?」


 その時、背後で足音が鳴った。それをサービトが捉えた瞬間、店主も素早く反応した。

「良い生地を沢山取り揃えていますよ!」

 店主の視界からナーディヤの姿が完全に消えている。これ以上は無駄だろう。ナーディヤは躊躇うように重心を左右に入れ替えた後、鈴を鳴らして歩き出した。


「犯人を捕まえた方が早いんじゃないですか?」

「駄目よ。悪人が一人とは限らない。全員炙り出してから報告しないと、却ってお父様の邪魔になるわ」

 今の店主のやり取りが見えていないだろう別の店に行き、また同じように話しかける。

「客じゃないんだから話すことはないよ」


 似たような反応だが、嫌がっているというには声に純粋な固さがあった。嫌悪感より警戒心や猜疑心といった感情が滲んでいる。反応速度にしても、切り捨てるというより受け入れて考え込むような間が開いていた。


 諦めて再び別の店に向かう。


「このスークを取りまとめている人に直接話を聞いては?」

「確かにムフタスィブとは別にスークの責任者はいるけれど、悪人と組んでいたら最悪よ。簡単には聞けない」

 また同じようにして聞き込みをするが返答は同じだ。体良くあしらわれて肯定も否定もはぐらかされる。その反応が答えと言えば答えだが、言質が取れなければ何の意味もない。

 しかし、ナーディヤの足音はむしろ力強くなっていた。スークの出口が近づき、籠っていた喧噪が外に抜けていく。


「これで確信したわ。ここに悪人はいない」

 言った途端、ナーディヤの足取りが早くなった。足早にスークを出て直線通りの西側に向かっていく。

「元々そうだろうとは思っていたの。でも強請の現場をここで一度だけ見たことがあったから否定しきれなくて。でもこれで分かった。悪人がいるのは基本的にジャービヤ門で開かれるスークだけで、彼らの活動範囲はかなり狭いと思う。そしてそれは恐らく、関わっている人の少なさも示している」


 ジャービヤ門で開かれている青果市の賑わいは落ち着き。陽射しだけが盛んに地面を焼いていた。ナーディヤたちが足を踏み入れた頃には客を追い返す店も出始めていて、残って商売をしている店の方が目立つようになっている。


「いたわ、行きましょう」

 辺りを見回していたナーディヤが鈴の音を鳴らして動き出す。ロバの背に売れ残り品を載せて帰る店主を追いかけて、野菜市から十分に離れたところで今までと同じように声を掛けた。


「聞いてどうすんですか?」

 この店主も他の人間と同じように周りを気にしていた。しかし、反射的にそういった反応を見せただけのようで声の調子は平然としている。

「告発しようと思っています」

「告発ねえ……」

 店主はターバンで両眼を隠したサービトを見やり、ロバの手綱を引いた。

「まあ歩きながら話しましょうよ。ぼっ立ちは目立ってしょうがない」


 店主に続いてナーディヤたちも歩を進める。

「ムフタスィブの代理人の助手、まあチンピラどもが好き勝手してるのは事実です。スークの隅でこそこそやってるもんだから、責任者も気付いた時には手遅れで打つ手がないのが現状ですよ。というか俺は、責任者もその仲間なんじゃないかと疑ってます。で、それを証言してくれってことですか?」

「そうです。その時が来れば必ず報復からも守ります」


 店主が溜息を吐いた。

「まずあんたはどこの誰なんだい? 見る限り良い家の娘なんだろうけど、なんでわざわざ子供がこんなことしてんですか?」

「悪人が許せないからです。素性はまだ明かせませんが、必ず悪人を一掃してみせます」

 店主は気怠そうに首筋を掻いた。

「いや罠だと言う気はないよ。女の子にこんなこと言わせるなんて手の込んだ事はしないだろうし。でも女の子に自分の命を預ける気もないですよ。お兄ちゃんか、それこそお父さんはいないの?」


「証言を約束してくださるだけで良いのです」

「それがバレた結果、俺はどうなるんです? 今だってそりゃ嫌だけどさ、商品盗まれたり殴られるぐらいだ。だったら大人しくするよ。それが普通なんだから、普通を壊すために危険なことはしたくない。みんなそうでしょ?」 


 この世界は女の子に優しくはない。

 アル=アッタール家の女の子なら話は別だろうが、クトゥブに迷惑を掛けないよう名を隠しているナーディヤはただの女の子だ。肩を組んで共に戦おうとする者などいるわけがない。布地専門のスークの店主たちが真実を話さなかったのも同じ理由だろう。信用できない人間に漏らす情報など何一つなく、可能な限り関係を持とうとすらしない。


 これがナーディヤの置かれた現実だ。

「俺の名前は出さないで下さいよ。今日は次の市の話をしてた、それだけですから」

 店主との距離が離れていく。店主の歩みは変わっていない。ナーディヤが足を止めただけだ。


「……どうしよう」

 こぼれた小声は無意識だったのだろう。踵を返したナーディヤの一歩目は大げさに力強かった。


 別日の家畜市や奴隷市にも足を運んだ。しかし同じように店主たちに話しかけても結果は見えている。ナーディヤも次の手を考えあぐねているようで、冷やかしのようにスークを歩き回るばかりでただただ時が過ぎていく。


「良いから寄越せよ!」

 笑い混じりの声が聞こえた。店主がチンピラに絡まれているらしい。周りの人間は見ないふりを貫き通し、ナーディヤだけが咄嗟に動こうとする。

「行ってどうするつもりですか?」

 サービトが問うと、ナーディヤは足を止めて俯いた。

「戦う覚悟ができたんなら止めに行くのもいいです。ですがその先の事は考えていますか。単純な危険は勿論、旦那様も無関係ではいられません」


「……分かっているわ」

 鈍い音が鳴った。砂の擦れる音が伸びていく。スークが一瞬静まり返り、笑い声が響き渡った。

「もらってくぜ。俺たちの手を煩わせた迷惑料も込みなんだ。むしろ安さに感謝しな」

 笑い声が去っていく。喧噪が恐る恐る帰ってきた。ナーディヤの腰に下げた鈴が、躰の震えに合わせて音を鳴らす。


「何故こんなことになっているの?」

 ムフタスィブは大人物でも、代理人やその助手は常人に過ぎない。その常人が傍若無人に振る舞える理由は一つしかなかった。


「後ろ盾がいるんでしょう」

「そう……でしょうね。とにかくあの人に話しかけましょう」

 絡まれていた店主はすぐに帰り支度を始めていた。スークからある程度離れるのを待ち、ナーディヤは店主の前に立ちふさがった。


「伺いたいことがあります」

 うつむき加減に歩いていた店主が驚いたように顔を上げる。頬がはちきれんばかりに赤黒く腫れていた。口の端には血の拭いた跡が残っている。

「先ほどの人たちはムフタスィブの代理人か、その助手ですよね? 彼らについて知っていることを教えてください」

 店主は胡乱そうな目をナーディヤとサービトに向けた。

「あんたたちが例の。噂には聞いてるけど何度聞いても同じだ。素性を明かしな。それで場合によっては協力する」


 良くない兆候だった。

 噂が広がるのは時間の問題ではあった。しかし店主たちの間で収まっている間は良いが、そう遠くない内に悪人たちの耳にも入る。悠長にしている余裕はもうない。

「聞かなかったことにしてください」

 サービトはそう言い、ナーディヤに向かって首を振った。意図を察したのかナーディヤは抵抗せず、そのまま店主と別れた。


「どうしたの?」

「もう無理です。ここで諦めるか、悪人を尾行するか、どっちか選ぶしかありません」

「……やっぱりそう思う?」

「手を変えないと何もないどころか彼らに目を付けられます。彼らを捕まえたいのなら一度距離を取り、尾行して直接証拠を集めるしかありません」


 危険な道だ。気付かれれば無事では済まない。ナーディヤを遠くから護衛している男もいる。その全てを躱して尾行するのは苦難の道だろう。


「サービト」

 ナーディヤは名を呼び、その手を取った。

「私はあなたを身代わりにはしない。だから着いてきて」


 それで良い。

 ナーディヤがそう言って突き進むのは初めから分かっていた。その為に自分がいる。サービトは躰の奥底に活力の萌芽を感じ、それに困惑しつつも無意識に微笑を洩らしていた。

「はい、着いていきます」

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