第17話 城塞への侵入

 昼間の揉め事などどうでも良かった。それより重大な問題が発生している。


「まともなジンはいないのか」

 呆れるしかない有様だった。


 勝手気ままなマジュヌーンたちは、大人しく潜伏するどころか暴れに暴れた挙句、たった一日で三割ほどが殺されていた。この調子なら俺がいくら増やしてもマジュヌーンが全滅するのに五日と掛からない。


「まあまあ、いいじゃねえか。お蔭でマムルークとやりえるのは分かったろ?」

「……まあな」


 アスワドの言う通り、悪い事ばかりではない。

 暴れるマジュヌーン相手に一般人が対処するのは不可能だった。マムルークたちが鎮圧に乗り出したが、それでも数人掛かりで苦戦していた。安全に事を運んでいたのが理由だろうが、それでも幼い頃から軍事教育を受けてきたマムルークですらマジュヌーンの相手は厳しかった。


「奴らを陽動に使う。その間に城塞に侵入するとしよう」

 アスワドが噴き出すように笑い声を飛ばした。

「いいね、賛成! でも気を付けろよ。ジンを殺せるのはジンだけだが、人間に憑りついた後は別だ。人間の躰が死ねば憑りついたジンも死ぬ。まあその前に抜け出せればいいわけだが、そう簡単にはいかない。抜け出す前に躰と一緒に死んじまうなんてのは良くある事だ。やり直しはできないと思えよ」


 友達が死ぬというのに冷たい奴だ。アスワドにとって他のジンは本当に友達なのか。それともジン同士の関係性とはそういうものなのか。気にはなったが問い詰めるほどの事でもなかった。


「決行は早い方がいい。今から行くぞ」

 俺は街の北西部に向かった。道すがら野犬のように腹を出して寝ているマジュヌーンに命令を出し、他のマジュヌーンを一か所に集めさせた。城塞の中には兵舎があり、それなりの数のマムルークが詰めている。近くでマジュヌーンたちが騒ぎを起こせば蟻のようにわらわらと飛び出してくるだろう。


「合図を出せ」

 一人手元に残したマジュヌーンが遠吠えを発する。犬よりも野太い声が夜に響き渡り、返事をするように方々から遠吠えが返ってくる。そして、一斉に鳴き止んだ。


「行っていいぞ」

 言うが早いか、手元にいたマジュヌーンが夜の街に消えた。静まり返っていた街が騒がしくなり、暗闇に明かりが増えていく。遅れて人の声がぽつぽつ聞こえてきて、火の手が上がったのか纏まった明かりが勢いよく広がっていく。


「マジュヌーンだ! マジュヌーンが出たぞ!」

 誰かが城塞の門前に駆けこんできた。ぴったり閉じられた城門はぴくりともせず、そうしている間にも助けを求める群衆が集まってくる。俺はそれに紛れて城塞に接近した。


「うるさいぞ!」

 ようやくマムルークが城門の向こうから声を出した。しかし開いているのは小窓だけで、そこから人を近づけさせないよう槍の先端が飛び出している。


「俺たちを見捨てるのか!」

 その声を皮切りに、マジュヌーンへの恐怖がマムルークへの怒りに転化する。群衆はマムルークを非難し、一人、また一人と城門に石を投げ始めた。

「黙ってろ! すぐに動けるわけねえだろうが! 黙って待ってろボケどもが!」


 マムルークたちも大概だ。不正を重ねるムフタスィブの代理やその助手ほどではないが、マムルークも相当自分本位で動いている。昼間も最終的にマジュヌーンを鎮圧したとはいえ、かなりの被害が出るまで動かなかった。


「マジュヌーンは何体もいるんだ! それも直ぐ傍に! ジャーミィー(金曜モスク)だって襲われるかもしれない! ここだって安全じゃないんだぞ!」

「だから行くっつってんだろ! 黙らねえならマジュヌーンの前にてめえらを皆殺しにするぞ!」


 酷い押し問答が続いた。逃げてきた群衆が門前に溜まっていき、街が昼のように明るく染まる。刺々しい喧噪を生き生きとした遠吠えが引き裂いて、群衆の怒りは恐怖に押し潰されていく。


「下がれ下がれ! 出陣だ! 道を開けろ!」

 ようやく重かった城門が開いていく。マムルークのお出ましだ。薄片鎧を纏った兵たちが姿を現し、先頭の男が進み出た。


「ダマスクスの民たちよ! もう安全だ。我々がマジュヌーンたちを打ち倒し、この街の安寧を守ろうではないか! さあ、道を開けよ!」


 群衆たちが動くより先に、マムルークたちが前に出た。それに押しのけられるように群衆が下がり始める。だが遅かった。群衆を薙ぎ倒すような勢いで騎士たちが駆け出した。途中からは倒れた人も踏みつけて、我先にと燃え上がる夜の街に飛び出していく。


「どっちの被害がでかいかな?」

 アスワドが笑った。まったく酷い有様だった。百を超えるマムルークの出陣が終わるまで惨状は続き、空どころか大地までもが赤く染まっていく。これでこの街が成り立っているのだから不思議でしょうがない。クトゥブもマムルークを率いるアミールだというから、クトゥブが上手い事取り成しているのだろうか。


 ともあれ、これで城塞は手薄になった。マジュヌーンたちが暴れているのは城塞の東側だ。俺は南側に回って人目を確認し、予め用意していた短剣を抜いた。邪魔さえなければ短剣を突き立てて城壁を上るのは難しくない。


 無事に上がりきり、城塞に侵入する。思ったより小さい規模だ。普段勤めているのは五百人もいないかもしれない。中央には訓練場に使っていると思しき中庭があり、建物は主に北側に固まっている。どれもこれも質素な意匠に留まっていて、城塞と兵舎以外の役割はなさそうだ。この地を治める人間も、おそらく別に置いた住居で暮らしているのだろう。


 俺は城壁の上で目を光らせている兵士の隙を突き、中庭に飛び降りた。城塞と言えども全員が全員兵士というわけでもない。服装が違えども堂々としていれば意外と怪しまれないものだ。俺は中庭を突っ切って北側の建物群に近づいていく。


 マムルークの多くが出払い人影はまばらだった。誰ならボズクルトの情報を持っているのか。小間使いよりマムルークに聞いた方が良いだろう。俺は一人で歩いている兵士に襲いかかった。

 壁に押し付けると同時に膝を突き入れ、腕で相手の喉を押し潰す。それから兵士が腰に下げた剣を奪い、切っ先をその眼に突きつけた。


「騒げば殺す。聞かれたことだけに答えろ」

 兵士は眼を見開いて、首を動かそうと小刻みに動く。頷けないのは俺が首を抑えているからだ。了承したと受け取って、俺は兵士の首を抑えている腕を胸の当たりにずらした。


「ボズクルトはどこにいる」

 兵士の視線が彷徨った。助けを探している、そう判断して俺は頭突きを入れた。兵士の鼻から血が垂れる。


「し、知らねえ」

「元は遊牧民で、成人してからこの国の軍人になった男だ」

「イルハンから亡命してきた奴なのか? だったら知らねえ、所属が違うんだ」

「違う。むしろイルハンとは敵対していた」

「知らねえよ。そもそもこの街にいるのか?」

「観兵式で見た」

「ならこの街にいるのは間違いねえ。あれはこの街の軍人だけが参加してた。でもボズクルトなんて奴は知らねえ。少なくとも俺が仕えるアミールの部下じゃねえ」

「お前の上司の名前は」

「アミール・ターリク。十人長だ」


 駄目だな。こいつからこれ以上の情報は得られない。俺は手早く兵士の喉笛を切り裂いた。吹き上がる血飛沫を避け、音を立てないようにして死体を寝かせる。アスアドがどこか楽しそうに訊ねてきた。


「殺すのかよ」

「それが兵士の本分だ」

 俺は同じように兵士を捕らえ、尋問を繰り返した。しかし答えは同じ、ボズクルトなんて奴は知らない。俺が観兵式で見た誇らしそうなボズクルトは幻だったのかと疑いそうになるが、二十年共にいた男を見間違う筈が無い。


 俺は建物の暗がりに身を潜め、尋問を中断して思考を巡らせる。

「手がかり一つねえな」

「あり得ない……」

 ボズクルトが具体的にいつこの街に来たのかは不明だ。しかし一人ぐらいは知っていても良いのに、これっぽっちもボズクルトを知る人物が出てこない。


「そういや、マムルークとは別にハルカ騎士団なんてのもいるらしいな」

「なんだそれは」

「マムルークは奴隷出身の軍人だろ? その子供は奴隷じゃないからマムルークにはなれない。ハルカ騎士団ってのは、そのマムルーク二世の為の軍隊だ」

「なら関係ないな」


 ボズクルトが軍人なのは間違いない。問題はその所属だ。

 マムルーク二世でない以上、ハルカ騎士団ではないだろう。しかしマムルークとして扱われているかは分からない。一般的なマムルークは少年時代に連れてこられ、教育を受けて成人した後軍人になる。ボズクルトは俺と同い年、ここに来た時には二十を超えている。例外はあるだろうが、普通に考えればボズクルトはマムルークではない。


「後はベドウィンがいるな。砂漠の民だ。非常時の軍人らしい」

 外部協力者の線か。それならあり得る。城塞にいるマムルークと面識がないのも納得だ。


「無駄足だったな。しかも何人も死んじまった」

 嬉しそうにアスワドが笑いをこぼす。こいつも所詮、好き放題暴れ回るほかのマジュヌーンやジンたちと同じだ。碌な生き物ではない。


 ふと、俺は違和感を覚えた。

 城塞の外がいやに静かだ。夜空を照らす明かりも心なしか弱まり、マジュヌーン騒動が集結したかのような雰囲気が漂っている。

 そんなわけがない。あまりにも早すぎる。昼間のマジュヌーン鎮圧を考えればまだまだ時間が掛かる筈だ。


 俺はマムルークたちが出ていた東門を見やった。数人のマムルークが帰ってきている。おかしい。さらなる援軍の要請を受けて城塞がもぬけの殻になるのも想定に入っていた。それなのに、もう撤収を始めている。


「おい」

 アスワドの声が固い。

「誰か来るぞ、敵だ」


 そんな気配はしなかった。しかし経験が俺の躰を動かし、兵士から奪った曲刀を構えさせた。足音が聞こえてくる。軽い足音。鎧は着ていない。男ですらないのかもしれない。


 炎が、視界に広がった。


 上空から炎が降ってくる。それに視線が奪われ、突っ込んでくる人影への反応が遅れた。違う。人影が速すぎる。人間が出せる速度ではない。そいつが手にした刃が炎色に閃いた。

 金属音が響いた。曲刀で刃を受け止める。その時、人影の顔が見えた。


 女だ。ヒジャブ(スカーフ)に包まれたその顔は、紛うことなく女の顔だ。それに気を取られそうになった瞬間、鍔迫り合いが押し込まれた。

 異常なまでの怪力だった。女どころか人間の力ではない。迫ってきた時の速度も、明らかに人間離れしていた。


 マジュヌーンか。


 状況は不明だが最低限の理解はできた。俺は脚に力を入れ、刃を無理矢理押し返した。東門から似たような恰好の女が次々に入ってくる。全員がマジュヌーンだとすれば分が悪い。


 俺は力を抜いた。対抗する力を失った女マジュヌーンが姿勢を崩して前のめりになる。そこに、蹴りを入れた。どれだけ力があろうが女の体重だ。小石のように転がっていく。


 俺は身を翻した。兵舎を蹴り上がり、北側の城壁の上に出る。すぐ下は水路だ。俺は振り返って女の集団を確認する。十人、二十人はいるか。やはり抗戦は現実的ではない。俺は水路に飛び込んだ。


「驚くなよ!」

 急にアスワドが怒鳴った。目の前が暗くなる。視界を失った──気付いたのと同時に着水した。すぐに視力が戻る。

「奴らを撒くのに力を使った。時間は稼いだがマジュヌーンだとバレちまった。追ってくるぜ」


 問題ない。この水路はダマスクスの生命線であるバラダ川に繋がっている。そこから伸びる水路や暗渠は町中に広がり、地上の道より複雑怪奇だ。しかも夜の水中にいる俺を見通すのは難しい。追跡するのは不可能だろう。


 しばらく泳ぎ続け、街中の水路から上がった。遠く見えるマジュヌーン騒動の明かりも随分と弱くなっている。俺は縁に腰掛けてアスワドに問いかけた。


「あの女はマジュヌーンに間違いないな」

 返事がなかった。まだ視力は残っているからアスワドはいる。もう一度話しかけると、ようやく反応があった。


「あ、ああ。あれはマジュヌーンだ……間違いない」

「奴らは明確な意思を持っていた。他のマジュヌーンとは違ったぞ」

「ジンだってそれぞれだ。人間と仲良くしてる奴だっている、俺たちみたいにな」


 軽口に付き合う気はなかった。ボズクルトに繋がる手がかりが消えた。ボズクルトがこの街にいる軍人なのは分かっているが、そこからどう進めばいい。それに比べれば女マジュヌーンの集団が何者なのか、目的は何なのか、そんな事は些細な話だ。


「それと、俺の友達は全員殺されたぜ。多分、あのマジュヌーンたちにな」

 手駒も消えたか。完全に手詰まりだな。

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