第18話 潜入調査
「もう大丈夫よ。行きましょう」
数日振りに表に出てきたナーディヤはそう言ったが、明らかに呼吸が浅かった。元々軽かった足音には引きずるような擦過音が混じり、偶然触れたその手から熱さを感じた。
「これを持って、外套よ。服の下にでも隠して」
サービトは言われた通りにして、ナーディヤに続いてアル=アッタール邸を出た。着いてくる護衛の足音が今までよりも近い。あからさまに信用を失っていた。
「ジャーミイで護衛を撒きましょう。サービトは外でハラーフィーシュのふりをして待っていて。ただ端の方でお願いね。彼らには縄張りがあるらしいから邪魔をしないように。私はジャーミイの中で護衛を撒いてから合流する」
結局、護衛の男に協力を求めない方向で行くらしい。ジャーミイの中には女性だけが礼拝できる別室が用意されている。そこで着替えて護衛を撒く予定だが、何度も使える手ではない。当然、護衛を撒くという選択そのものが危険だ。
それでも、ナーディヤは護衛を邪魔だとして切り捨てる判断をした。
城塞の東にあるジャーミィは遠くからでも存在感を放っていた。四角い建物ばかりのダマスクスの街において、円屋根やミナレット(尖塔)を備えたジャーミィは外見からして特別だ。周辺は時間を問わず常に賑わい、スークも開かれている、そしてとにもかくにも、大量のハラーフィーシュが至る所で座り込んでいた。
「ここで待っていて」
ナーディヤの足音が離れていく。サービトはその場に座り、護衛の男──ウトバの足音に耳を澄ませた。一瞬迷いを見せたような乱れはあったが、ウトバは護衛対象のナーディヤを追いかけていく。
しばらくして、サービトはターバンを外してナーディヤから受け取った外套を羽織った。躰全体を隠せる大型のものだ。これで躰を包んで身を縮めれば十分な変装になるだろう。
遠くから喧噪に混じって鋭い音が聞こえた。
「マジュヌーンが……暴れてるな」
アスワドが唐突に喋った。珍しく困惑めいた響きが混じっている。
「暴れてるんだけど、なんかおかしいな。返事しなくていいから聞いてくれよ、ハリル」
アスワドはサービトの故郷の言葉で話している。近くに人はいるが、ハラーフィーシュの独り言だと思って誰も聞いていないだろう。
「俺たちジンってのは、近くにジンがいれば分かるんだよ、なんとなく。マジュヌーンになると分かりづらくなるんだが、それでもジンががっつり力を使ってれば同じだ。だからこの前、女のマジュヌーンどもが近づいてくるのが分かった。俺ぐらい弱いジンなら別だぜ。そもそもお前さんの躰に匿って貰ってるだけだし、使ってる力もちょっとだけだ。眼は見えるけど力は強くなってないだろ? その程度なら居場所は分からないんだ。とにかくそれで今もマジュヌーンの存在を感じるわけなんだが、どうも違和感がある」
話が見えなかった。サービトから話しかけたならまだしも、昼間にアスワドの方から声を掛けてくるのは珍しい。
「マジュヌーンっぽいんだけど、マジュヌーンじゃない。羊の皮を被った狼、みたいな? 俺もこんな事初めてで言葉にするのが難しいんだが、とにかくおかしい。ちょっと調べてくれないか?」
言っている意味が分かるようで分からない。
「頼むよ。どっちみちボズクルトの手がかりはないし、女のマジュヌーンどもも得体が知れなさ過ぎて危険だろ? だったら時間もあるし調べてくれよ」
ボズクルト探しに打つ手がないのはその通りだ。危険を冒して唯一にして最大の手がかりである城塞を襲ったのに手がかり一つ掴めなかった。女マジュヌーンの集団にしてもアスアドの言う通り今のところ関わりたくはない。
どう動けば良いのか不明の上、動くこと自体危険だ。しかし誇りを失って堕落したボズクルトの存在を感知しておきながら、じっとしていられるわけがない。
「……ボズクルトに繋がる手がかりを見つけるまでだぞ」
「さっすが。助かるよ相棒!」
調子の良い奴だ。サービトはアスワドの話を直ぐに頭の隅に押しやった。やがてナーディヤの足音が戻ってくる。
「撒けたわ。見つかる前に急いで行きましょう」
ナーディヤはニカブを脱いで男装し、ターバンで長い髪を隠していた。線の細いナーディヤなら注視されない限り声変わり前の少年にしか見えない。しかし盲目のサービトには衣擦れの音が減った以上の変化は分からなかった。
目的の屋敷に向かった。曜日も日時も前回と同じだ。果たして楽器の音が流れてきた。昼から陽気な音色を奏で、笑い声や酒の匂いを撒き散らしている。表に見張りの姿はなく、日中のダマスクスらしく入り口は開け放たれていた。
「最初に俺が様子を確認してきましょう」
サービトでは斥候の任は務まらないが、それでもいきなりナーディヤが屋敷に入るよりは良い。主入口の部屋には誰もいない。奥に進むと音が広がった。
中庭だ。中央の噴水の前では袖の長い服を着た踊り子が音色に合わせて入り乱れ、男たちが低い嬌声を上げて盛っている。周辺では踊り子を遠目から眺めるなり密談にいそしむなり、各々が料理や酒を楽しみながら好き勝手に過ごしていた。
あまりに無防備だった。誰ひとりとして屋敷に入ってくる人間を気にする者はいない。
「大丈夫そうね」
ナーディヤが低い声を出しながら中庭に顔を見せた。見回すよりも早く顔をしかめ、怯えとは違う退け腰でサービトの隣に並ぶ。
「酷い……マムルークもいる。こんなに堂々と法を破るだなんて」
極力顔を動かさないようにしながら、ナーディヤは中庭にいる人間の顔を覚えていく。何度か出会ったムフタスィブの代理人の助手が数人いた。ハラーフィーシュ同然の腰布姿の者がいれば、銀細工や派手な刺繍の入った服装の者もいる。その誰も彼もが貴賤の区別なく、一様に女と酒に現を抜かしていた。
「なんでガキがいるんだよ?」
頬を赤くした男が怪しい呂律で話しかけてきた。ナーディヤが咄嗟にサービトの背中に隠れた瞬間、男は楽器の音を掻き消すような大笑いを上げた。
「ここはガキのいるところじゃねえぞ!」
注目を浴びるのは避けたかった。サービトはナーディヤの首根っこを掴み、小動物でも扱う様にその躰を引き寄せた。
「将来有望なガキだろ?」
呆気にとられたように男は口を開け、また大笑いする。
「そりゃ違えねえ! 楽しんどけよガキィ!」
満足したのか男は千鳥足で去っていく。サービトはナーディヤから手を放し、小声で謝った。
「いえ、気にしないで。助かったわ」
再び、ナーディヤは中庭の面々を見やる。中庭以外にも右側には回廊があり、そこにも人が集まっていた。さらにその奥には部屋があり、数人が談笑しながら中庭を眺めている。部屋の中は薄暗く、影になって人となりは窺えない。しかし身に着けている装飾品が眩く光り、参加者の中でもぬきんでた地位の高さを示していた。
「あそこが怪しそうね。もう少し近づきましょう」
危険だ、などと今更サービトが言うまでもない。ナーディヤの背後を守りながら続いていく。
足音が、背後から迫ってきた。
「何をしてる?」
撒いた筈の護衛──ウトバの声だった。
言い争う余裕はない。護衛に追いつかれた時点で調査は終了だ。下手に騒いでも全員の身が危ない。促されるまでもなく、ナーディヤを先頭にして屋敷を出た。
「お嬢様、これを」
ナーディヤはウトバから渡された外套で顔を隠した。その間にもウトバはサービトを睨み、ナーディヤに視線を戻して口を開く。
「お嬢様の不審な行動には気付いておりました。その意思を尊重して見て見ぬふりを貫いておりましたが、これ以上は限界です。この事は旦那様に報告させていただきます」
ナーディヤは何も言い返さなかった。ウトバに連れられて大人しく帰路に着く。
あるいはそれで良かったのかもしれない。アル=アッタール邸に帰るなり、ナーディヤは自室に閉じ籠った。
万全ではなかった体調が再び悪化したからだ。
それを知ったウトバに、サービトは会うなり殴られた。
「お前は何をしていた! お嬢様が倒れたのはお前のせいだ、分かってるのか盲!」
周囲にいた使用人たちは知らないふりをして通り過ぎる。ウトバは去り際にも一言毒吐き、入れ替わりでヤークートが歩み寄ってきた。
「追って沙汰があります。しばらく大人しくしていた方がよろしいでしょう」
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