第19話 新種のハシシ
夜になり全員が寝静まると、俺はアル=アッタール邸を後にした。アスワドが眠そうな声で欠伸交じりに話しかけてくる。
「今日は災難だったな」
「むしろ都合が良い。これでしばらくお守りは無しだ」
最近は昼夜問わずに動きっ放しで寝不足が続いていた。短期間なら経験はあるがそれでも限界が近かった。やっとまともに睡眠をとれるようになったのは僥倖だ。
「それでマジュヌーンはどこにいる」
「正確には、マジュヌーンっぽくないマジュヌーンな。まだどこにいるのか分かんねえし、とりあえず昼間感じたところに行ってみようや」
ジャーミィの東、もしくは南東に少し行ったところが現場の筈だ。マジュヌーンほどの怪力の持ち主が暴れた後なら目立つ痕跡が残っているだろう。
俺はあちこち見て回った。しばらくして半壊した民家が見つかる。一つだけではない。道を挟んだ先に損壊した家がいくつもある。目を凝らせば微かに血痕も見て取れた。ここでマジュヌーンが暴れたと見て間違いなさそうだ。
「どっかに死体とかないか? それさえあれば分かるかもしれねえ」
見回すがそれらしいものはない。家々の瓦礫は道の端に寄せられ、最低限の片付けは済んでいるようだ。近所の人間に死体の行方を聞くしかないだろう。
崩れた家の中から気配を感じる。住人か盗人か、話せるなら誰でもいい。俺が家に入ろうとすると、アスワドが思い出したように声を上げた。
「ハラーフィーシュだ。死体なんかを処理するのはああいう奴らと相場が決まってる」
道理だな。真っ当な職に就いた人間は死体処理を嫌がるものだ。家々の損壊具合から見て死人の一人や二人は出ただろう。そうなればマスジド(モスク)に行けばいくらでもいるハラーフィーシュが使われる。しかも安い金でだ。
俺は近場のマスジドに向かった。
案の定いた。十数人程度しか入れなさそうなマスジドだが、外では数人の男たちが眠っている。初夏なら夜でも過ごしやすいのか裸同然の者もいた。俺が近づいていくと一人が躰を起こす。
「何も……持ってねえよ」
声は寝ぼけていない。警戒心の強い奴だ。顔を合わせずとも視界の隅で俺を捉えている。
「聞きたいことがある」
「重要な情報握ってたらこんな生活してねえよ」
「死体の処理をしたことはあるか」
「あるけど何も盗んでねえよ。金目のもんなんてとっくに誰かに盗られてら」
「昼間、近くでマジュヌーンが暴れていたな。その時──」
──男は掌を差し出した。金か。少し前に給料を貰っているから余裕はある。使わないから価値は分からないが、俺は適当に貨幣を何枚かを投げ渡した。
「何!」
男が叫んだ。寝ていた数人が驚いたように飛び起きる。
「なんだなんだ!」「掛かってこいこの野郎!」「は!? 誰か襲ってきたのか!?」
急に騒がしくなる。それを見て俺と喋っていた男が溜息を吐き、こちらに歩み寄ってきた。
「馬鹿どもは無視してくれ。結構な額貰ったんだ、できるだけ答えるぜ」
「マジュヌーンが暴れた時に誰か死んだか」
「死んだのはマジュヌーンだけだ。本当かどうかは知らねえが女どもが殺したらしい」
マジュヌーンを殺せる女──この間の女マジュヌーンたちだろう。他に考えられない。俺が城塞に侵入したときといい、マジュヌーンと積極的に戦っているのか。
「マジュヌーンの死体を処理したのはお前たちか」
「いや、ご丁寧にその女どもが回収したみてえだ」
疑問が浮かぶ。しかし思考を止める。どうでもいいことだ。死体はない。それならハラーフィーシュと話す意味はない。俺が立ち去ろうとすると、男が背中越しに話しかけてきた。
「もういいのか? 聞きたいことがあればまだ答えるぜ」
「……マジュヌーンの居場所を知らないか」
知らない、そう言い掛けて男は一度口をつぐんだ。
「そういえば最近、様子がおかしくなったって奴がいたな。すぐ北にあるマスジドを根城にしてたんだが、急に姿を見せなくなって。数日ぶりに見かけたら随分と傷だらけになってたらしい。話しかけてもまともに答えねえしで怖くなったとかなんとか」
暴れ回ってできた傷だとすれば、マジュヌーンの可能性はあるか。
「そいつはどこにいる」
「そのマスジドをさらに北に行くと街を囲む城壁に突き当たる。そこで見たらしい。今もいるかは知らねえけどな。あと顔は知らねえ」
近くにいればアスワドが気付くだろう。その場所に行ってみた。
街の端なだけあって人通りは皆無だった。夜でも人の気配が起こす微かな喧噪がある街中と違い、この辺りはしっかり寝静まっている。虫の羽音がうるさく感じるほどだ。
「おっ、いるな。右に行け」
アスワドの言う通りに進む。やがて城壁に寄りかかる人影が見えてきた。
「あいつだ。やっぱ変な感じがするな。マジュヌーンなんだがマジュヌーンじゃねえ、何かが交ざってるというか、隙間があるというか」
「殺してもいいな」
「仕方ねえけど手早くな。またあの女どもにちょっかい掛けられたら面倒だ」
そいつは痩せ細った男だった。節々の骨が浮き上がり、あちこちに擦り傷や切り傷、痣がある。毛量は多いが長さは不揃いで、逃げ出してきた家畜のような出で立ちだ。微かに動いているのも、かゆい背中を城壁に擦り付けているように見える。
俺が近づいていくと、男は何かを背中に隠した。それから歯を剥いて唸り、ゆっくり俺に向き直る。瞬間、飛び掛かってきた。
速いが、想像していたほどではない。俺は男の顎を蹴り飛ばした。完璧に決まった。だが、マジュヌーンはこの程度で失神しない。俺は倒れていく男から距離を取って次の動きを注視する。
男は、動かなかった。しばらく待っても同じだ。油断を誘っているのではないと判断して、俺は男に近寄って状態を確認した。
綺麗に伸びていた。かつて両手を切り落とされても戦っていたマジュヌーンとは思えないほどの耐久力の低さだ。
「マジュヌーン……じゃねえな。なんだこれ?」
「他に似たような奴はいないのか」
「いるかよ。というか他にもジンの気配を感じるぜ。近くだ」
俺は辺りを見回した。誰もいない。
「違う。そいつの直ぐ近くだ。何か持ってねえか?」
男の躰を探ると小瓶が出てきた。蓋を開けた瞬間、アスワドが叫んだ。
「それだ! それからジンの気配を感じる。でもジンじゃねえ……は?」
掌に中身を出した。黒みがかった糊状の物体だ。匂いは甘いとも刺激臭とも取れる不快なもの──依然嗅いだ覚えがある。
「ハシシだな」
「あっ!」
またアスワドが叫んだ。
「ほら、昼間にお前さんが話しかけてきた時だ。マジュヌーンに襲われそうになったあの時だよ。あの時のハシシも同じような感じがしたんだよ。寝ぼけてたから言わなかったけど」
ハシシからジンの気配がする。
聞いたことがない。アスワドもその反応を見るに知らなかったのだろう。俺は掌に出したハシシを小瓶に戻して蓋をした。
「心当たりぐらいはないのか」
「全く。どういう原理かも分かんねえ。ただそいつを飲んだせいでマジュヌーンっぽくなったのは間違いねえ」
理屈はなんでもいい。大事なのはこのハシシを飲むとマジュヌーンのようになるという事実だ。
「……使えるな」
アスワドの友達だというジンたちを殺され、俺は手駒を失った。しかしこのハシシがあれば似たようなことができる。俺の命令は聞かないだろうが、好き勝手に暴れた結果この街が混沌に堕ちるなら十分な戦果だ。そうなればどこかにいるボズクルトも鎮圧に出張ってくるだろう。
そして、あいつは死なない。最後に立っていた軍人がボズクルトだ。
「おい、ハリル。止めはしねえがあんまり目立つなよ」
急にアスワドが弱気な事を言ってきた。
「女のマジュヌーンどもがいるんだぞ」
「それがどうした」
「忘れるなよ、お前が死ねば俺も死ぬんだぜ。目立ったことしてあの女どもに襲われるのは御免だ」
相手にして面倒なのは確かだ。奴らに負けるつもりはないが力の程が分からない以上、避けた方が良いのは間違いない。単純に邪魔をされても困る。
「あいつらの目的は何だと思う」
「知らねえよ。ただマジュヌーンにご執心なのは間違いねえ。俺たちだって狙われてるんだぞ」
マジュヌーンを狙っている、か。考えようによっては街の治安を守ろうとしてマジュヌーンと戦っていたともとれる。それならマムルークたちと協力関係にあるかもしれない。つまりボズクルトを追えば奴らとぶつかる可能性が出てくる。
歯痒いが、一旦ボズクルトを探すのは完全に諦めた方が良さそうだ。どうせ碌な手がかりもない。それより手駒を増やせるこのハシシを狙うべきだろう。
「ハシシの出元を押さえるぞ」
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