第20話 ハシシを探せ

 翌朝、サービトは何食わぬ顔で日中の街に繰り出した。

 盲目の状態であっても道順は覚えている。時間も礼拝に合わせた。人の流れに身を任せ、何の問題もなくジャーミィに着いた。


 アザーン(礼拝への呼びかけ)が方々で響いている。人々がジャーミィにぞろぞろと雪崩れ込み、入れない者はジャーミィの前に敷物を広げて礼拝の準備を始める。サービトはそれらから距離を取り、礼拝が終わるのを待った。


「それにしてもハシシで全員狂わせるか。ぶっとんでんな」

 アスワドが笑った。故郷の言葉を分かる人間はそういないだろうが、それでも無遠慮に大声を上げられるとサービトは周囲に耳を澄まさずにはいられなかった。


「……静かにしろ」

「悪い悪い。人間としての誇りもあったもんじゃねえなと思って」

「言った筈だ。俺は全てを失った、誇りもだ。いいから昼間は眠っていろ」

「興奮して寝付けないんだよ」


 構うからアスワドはいつまで経っても喋るのだ。サービトはそう結論付けて黙り込み、汚れた布を使ったターバンを上にずらして目元を露出する。そして、瞼を開けてぽっかり開いた眼孔を強烈な陽射しに晒した。


 やがて礼拝が終わった。ここからがハラーフィーシュの稼ぎ時だ。ジャーミィにたかるハラーフィーシュは静かに座り込む者から降りかかった不幸を涙ながらに語って金をせびる者まで幅広く、サービトもそれらに紛れて時を待った。

 ぽつりぽつりとサービトの前に喜捨金が置かれていく。手は付けなかった。ただじっと目的の人物が話しかけてくるのを待ち続ける。


「戦で目ぇ潰されたのか?」

 背後から聞こえる男の声は無視した。足音が正面に回り込み、しゃがみこんでサービトの前の喜捨金に手を伸ばす。

「耳も聞こえねえのか?」


「聞こえてる」

 急に喋ったサービトに構わず、男は喜捨金を奪って躊躇なく懐に収めた。

「ショバ代としてこの金は貰っとくぜ。痛い目見る前にここから失せな」


 ようやく会えた。この男が周辺のハラーフィーシュの纏め役だろう。喜捨金の一部を掠め取る代わりに何の権利があるのかジャーミィ周辺の物乞いを許可している。ハラーフィーシュを束ねているだけあって、ハシシを初めとした裏社会に顔が利く筈だ。


「元々そのつもりだった。それは挨拶料として受け取ってくれ」

「あん? そりゃ殴ってくださいって意味か?」

 男がサービトの顔に息を掛ける。微かに香る独特な甘い匂いはハシシのものだろう。


「眼が見えないんだ。そっちから話しかけてくるのを待つしかなかった。分け前を渡せばここで物乞いをしても良いんだろう?」

「なるほどね。お前名前は?」


 アル=アッタール家の奴隷であるサービトの名前を出すわけにはいかない。ハリルの名前も危険だ。悩んだ末に、サービトは父親の名前を告げた。

「カラジャ」


「よし、カラジャ。顔も覚えたぞ。物乞いを許可してやる。一日の終わりにその日の上がりの半分を持ってこい。俺はジャーミィの中で寝てる。分からなきゃ誰かに着いていけ」


 存外交渉は滞りなく成功した。しかしそんな事はどうでもいい。サービトは懐から奪ったハシシが入った小瓶を取り出した。

「火を持ってないか? 使わせてくれたら祝いも兼ねてあんたにちょっとやるよ」

 言って、掌にハシシを出す。瞬間、男に手首を掴まれた。

「これをどこで手に入れた!?」


 良い反応だ。やはりこの男はこのハシシの事を知っている。サービトは何も知らない気弱なハラーフィーシュを装った。

「も、貰ったんだ! 盗んじゃない、嘘じゃない」

「誰に!?」

 男に胸倉を掴まれた。さらに顎も掴まれる。その掌の皮膚の厚さや力の強さは人並みだ。


「知らない、眼が見えないんだ。ただ可哀そうだからとくれた。幸せは独り占めせずにみんなにも分けろ、そうとも言ってた」

 毒吐き、男はサービトを突き飛ばした。倒れたサービトを腹いせのように蹴り上げ、地面に転がったハシシの入った小瓶を踏み砕く。


「何がスルタン(王)だクソ野郎! ハラーフィーシュの分際でふざけやがって!」

 確定だ。こいつはこのハシシに関わっている者を知っている。サービトは素早く立ち上がり、そこで一直線に近づいてくる足音に気付いた。

「ちょっとその話について聞きたいんだが」


「うるせえ、ぶっ殺──」

 ──男は口を開けたまま固まった。近づいてきた男のターバンには三角形の金属板がついており、身に纏っている白衣の袖は踊り子のように長い。この国の支配層──マムルークの典型的な服装だ。


「スルタンなのにハラーフィーシュ? どういう意味だ?」

 マムルークは息を吐くように剣を抜き、男の喉元に突き付けた。周囲は悲鳴すら上げない。どうしようもない危険を意識の外に置き、何事もなかったかのように日常生活を送っている。


「マムルーク様とは知らなかったんです」

 切っ先が僅かに喉に刺さる。血と冷や汗が男の皮膚を伝っていく。

「ハラーフィーシュのスルタン(物乞いの王)を名乗ってる奴がいるんです」


「その不届き者はどこにいる?」

「血眼で探してるんですが見つかりません。名前だけが独り歩きしてるんです」

 マムルークは剣を下ろし、明後日の方向に顎をしゃくる。瞬間、男が脱兎の如く逃げ出した。マムルークは剣を納めてサービトに歩み寄る。


「さて、悩みどころだ。どこから話したもんかと迷ってる。ま、自己紹介からだな。俺はリヤード。マムルークの下っ端だ」

 声からして同年代、体格はサービトよりも一回りは小さいが、それでも十分立派な体躯だ。ターバンからは大胆に髪がはみ出て、白衣も砂と泥で薄茶色に汚れていた。


「よろしくな」

 警戒心が爆発した。

 サービトは腰を落として両手を構える。リヤードが口にしたその言葉は、間違いなくサービトの故郷の言葉だった。


「まあそうなるよねえ」

 リヤードは笑う。

「そう警戒するなってサービト、いや、ハリル」


 この男は殺す。サービトは決意する。衆人環視があろうが関係ない。

「アスワド!」




 視界が戻る。薄暗い視界にだらしない恰好のマムルークが見える。笑みを浮かべて無防備に佇んでいる。俺は大地を蹴った。


「待てって。敵じゃない、ほら」

 マムルークが背中を向けた。俺は、足を止めた。止めざるを得なかった。無防備な背中は襲えない。本能が拒絶している。全てを失ったと思っていたが、俺の中の誇りはまだ残っていたらしい。


「……何者だ」

 俺も故郷の言葉で話しかけた。安全を確かめるような間が開き、リヤードが向き直る。

「同郷なんだよ、俺たち。話したいことは色々あるし場所を変えよう。それとこっちの言葉は使うなよ。これから話す事は誰にも聞かれたくない」


 俺たちはジャーミィに入った。大理石を叩く足音が絨毯を踏む静かなものに変わり、広々とした礼拝堂の隅でリヤードが腰を下ろす。

「積もる話もあるし座れよ」


 俺は壁を背にして言うとおりにした。ほかにも座ったり寝転んだりした者たちがそこここにいるが、街の喧騒も遠ざかり静謐な空間が広がっている。マムルークらしき連中もいるにはいたが、俺たちを気にする素振りはなかった。


「まずはそうだな。敵じゃないってことを説明しようか。お前のご主人様のアミール・クトゥブと俺の上司アミール・ターリクは仲良しだ。アミールたちはこの街の総督のお目付け役で、筆頭がアミール・クトゥブ、次席がアミール・ターリクになる。密に連絡を取り合ってるし、疑うなら後でご主人様に確認してみな。というか近々そっちの家に行く予定になってる」


 信じたわけではないが、直ぐに見破られる嘘は吐かないだろう。俺は一先ず受け入れて話を続けた。

「何故俺の正体を知っている」


「見たからだよ。お前が城塞を襲うところを。まさかアミール・クトゥブの奴隷がマジュヌーンだとは思わなかったなあ。で、その目はマジュヌーンの力ってわけか」

 俺の目を覗き込んでくる。眼球を触ろうとして伸びてきた手を、俺は軽く払いのけた。

「触るな」


「……俺の同僚を殺しやがったな?」

 責めている口調ではない。むしろどこか楽しんでいるような雰囲気すらある。

「冗談だよ。俺は敵じゃない。だからお前に好きでもない同僚が殺されても怒らない。話を戻してお前に気付いた理由だけど、お前があの暴君カラジャに似てたからだ」


「息子だ」

「だろうな。俺は子供の頃カラジャに襲われてこの国に売られた。だからお前を見た瞬間、カラジャの血縁だと気付いたよ。それで気になって探ってみれば、それっぽい奴がアミール・クトゥブの奴隷にいた。ただその時点で確信なんて持てなかった。眼から上が隠れてるからな。しかも盲目だ。カラジャへの執着心がなければ疑いすらしなかった。その時はマジュヌーンなんて頭になかったし」


 心の中で舌打ちする。本格的に俺は間抜けだ。馬鹿なところで尻尾を掴まれた。追っている時ほど追われている事に気付かない。狩猟していた頃なら当たり前の考えが綺麗さっぱり消えている。鈍っているのは肉体だけではなかったか。


「とにかくおまえを追い続けた。その結果がさっきだ。お前の言葉で同郷だと気付いた。あれはジンと話してたのか」

 話しかけてきたアスワドは責めはしない。悪いのは腑抜けた俺だ。

「何の用だ。復讐ではないだろう」


「それが本題だ。お前、ハシシを探ってたよな。実は俺もそうなんだよ。アミール・ターリクに命令されてな。噂でしかないんだが、新種のハシシが街で流行り始めているらしいから真相を突き止めてこいってな。で、アミール・ターリクと仲が良いアミール・クトゥブの奴隷もハシシを調べている。だから声を掛けた。やっぱり新種のハシシは存在するんだな?」


 最悪、リヤードを殺せば良い。とは言え安易な返答はできない。

「言えない。だが新種のハシシを追っているのはその通りだ」

 リヤードはにやつきながら頷いた。

「つまり目的は一緒だ。だったら手を組まないか」

「必要ない」

「ならバラす。サービトの正体とその犯行、全てをな」


 やはりこの男は殺す。

 躰付きと歩き方でおおよその強さは分かる。リヤードは精鋭には違いないだろうがそれでも俺に及ばない。素手であっても一撃で屠れる。


「おっと、俺を殺してもお前の正体はバレるからな。当然対策は打ってきてる。まさかアミール・クトゥブがマジュヌーンを奴隷にして、しかも城塞を襲わせたなんてのが公になれば大騒ぎ間違いなし。あの世から楽しませてもらうよ」


 脅迫か。つくづく己の愚かさを実感させられる。

 リヤードを迂闊に殺せない以上、手を組むしかないだろう。それに危険はあるが俺にとっても悪い話ではない。利用するだけ利用して、どこかで切り捨てれば良いだけだ。


 ただそれにしても問題がある。

 俺の行動がリヤードの上司を通してクトゥブに伝わるのはまずい。今はまだアル=アッタール邸という安全な拠点を失うわけにはいかない。


「一つ、勘違いをしているな」

 笑みを崩さず、リヤードはそれでと顎で続きを促した。

「俺の目的は復讐だ。俺は仲間に裏切られて奴隷になった。その仲間がこの街で軍人になっている。俺はそいつを殺す為に城塞を襲った」


「アミール・クトゥブは関係ないと」

「城塞を襲う理由がないだろう」

 リヤードはターバンの下に手を突っ込んで掻き毟った。

「言われてみれば確かに。カラジャの息子が奴隷になってるのも説明がつく」

「裏切り者の名はボズクルト。観兵式で見た以上、この街にいるのは間違いない。だが一向に見つからない。交換条件だ。手を組む代わりに探せ」


 これはむしろ、俺の立場の弱さを決定づけるものだ。クトゥブとリヤードの上官が情報共有を行い、その過程で俺の正体がクトゥブに伝わる事は避けられた。しかしクトゥブに正体を知られたくないという俺の弱みをリヤードに晒してしまった。


「なら……そうだな、こうしよう」

 リヤードはターバンに突っ込んだ手を抜いた。

「お前がハラーフィーシュのスルタンを探れ。お前が危険な目に遭うんだ。で、情報を俺にも流せ。俺はお前を補佐しつつ、ボズクルトを探す。そして」

 ほくそ笑むように、リヤードは口角の右端を持ち上げた。

「この件は俺たちだけの秘密にしよう。お互いの上司には報告しない。お前は個人的な復讐をアミール・クトゥブに知られたくはないだろう。俺は中途半端に介入されたくない。根っこまでがっつり掴んでから報告して大手柄にしたいからな。どうだ?」


 不気味な男だな。

 明らかに俺の意図は伝わっている。しかしそれを傘に着ず、むしろ対等にも思える条件を提示してきた。俺を利用したいと思っているのは間違いないが、今のところは良好な関係を築きたいといったところか。

 どこまで我慢して、どこで先に相手を見限るかの争いになるだろう。


「良いだろう。精々ハシシの手柄を独り占めにするといい」

 一瞬、リヤードが眉をひそめた。

「ああ、そうか。ハシシ云々は俺の思い込みか」

「新種のハシシを利用して、ボズクルトを探す為に裏社会との繋がりを作ろうとしていただけだ。ハシシそのものに興味はない」

「なるほど。んじゃありがたく」


 これで交渉は成立だ。俺は立ち上がってその場を去ろうとする。

「連絡は自由に動ける俺からする。それまでは好きにしなよ」

 友達でもあるまいし慣れ合うつもりはない。俺は返事をせずにジャーミィを後にした。

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