第21話 不和
アル=アッタール邸に帰宅したサービトは、ハンマームで汗を流しつつ思案する。
ナーディヤが高熱を出して床に伏している今、サービトは昼夜問わず自由に動ける。しかし新種のハシシに関してはリヤードからの連絡待ちだ。下手に外出するよりは、安全な拠点を維持する事に注力した方が良いだろう。
水風呂で躰を冷やし、水気を拭き取ってから外に出た。
「良いご身分だな」
ウトバに擦れ違いざまに嫌味を言われた。サービトは言い返さずに台所に足を向ける。
「何か手伝えることはありますか?」
「ないね」
そう言われると引き下がるしかない。
サービトはほかにも掃除中の使用人や倉庫に食糧を運び込んでいる業者とそれを差配している侍従に声を掛けるが、一様ににべもなく申し出を断られた。
ナーディヤが再び倒れて以来、使用人たちの態度がはっきり変わっていた。
理由は分かり切っている。ナーディヤが倒れた原因がサービトにあると思われているからだ。しかしナーディヤの護衛であるウトバだけではなく、ほかの使用人たちにも疎まれる事になるとはサービトも想像できなかった。どうにかして払拭しようにも盲目のサービトでは仕事を見つけるのも難しく、打つ手がないのが現状だ。
サービトは仕方なく二階の自室に戻り、寝床で横になった。それからそう時を置かず部屋の外からヤークートの声が掛かる。
「サービト、よろしいですか?」
ヤークートの声音と態度だけは以前と何一つ変わらない。サービトは立ち上がってヤークートを招き入れた。
「明日、お使いを頼まれてくれませんか? 明日は朝から忙しく、他に誰も手が空いていなくて困っていまして」
「行ったことがある場所なら大丈夫です」
「観兵式の時に訪ねたフブズ屋です。そこの主人に手紙を届けてほしいのですが、勿論無理にとは言いません」
断るわけがない。フブズ屋への道も覚えている。
「任せてください」
翌朝、サービトは手紙を受け取ってアル=アッタール邸を出た。誰かに着いていく時と違って歩みは遅いが、それでも進むのに支障はない。
「一人だし見えるようにしようか?」
アスワドがサービトの故郷の言葉で眠そうに話しかけてきた。同じ轍を踏む気はない。サービトは無視して歩を進める。
常人より遥かに時間を掛けて、目的のフブズ屋に辿り着いた。
店に入った途端、甘い匂いが鼻についた。時機を考えると旬のアンズだろう。焼き立てのフブズの匂いの中に、微かだがしっかりとしたアンズの匂いが主張している。
「アル=アッタール家の使いが来たと店主に伝えてください」
そう店員に伝えて間もなく、毛という毛を服や布で隠した恰幅の良い男が現れた。
「俺が店主のカターダです。ご用件は何でしょうか?」
サービトは預かっていた手紙を渡した。カターダはその場で中身を検め、サービトと文面を交互に見る。
「なるほど。お疲れでしょうし二階で休んでいかれてはどうですか? うちの人気商品のアンズを使ったフブズを食べていかれると良い」
「直ぐに帰らないといけないので」
「ご心配なく。手紙にもあなたを持て成すようにとあります」
それなら好意を無下にするわけにはいかない。サービトは二階に上がって相伴に預かった。アンズを乗せたフブズは人気するのも頷ける美味さだ。店主直々の歓待を受けてしばし、サービトは十分に休んだと判断して帰路についた。
不思議な頼まれ事だった。結果的にこなせはしたが、盲目のサービトに任せる仕事ではない。ヤークートには別の狙いがあったのだろうか。
「歩きながら聞け」
背後からの声──誰だとは聞き返さない。
殺す気ならとうの昔に人通りに紛れて刺されている。サービトは知り合いに話しかけられた風を装い、堂々とした態度で振り返ろうとした。
「見るな。そのまま歩け。痛い目見たくなけりゃな」
声は青い。まだ十代後半ぐらいだろう。背も平均より小さいぐらいか。足音からして体重は平均的だろう。十代後半の少し背は低いが多少は鍛えた躰、いかにもといった感じだ。
「誰ですか?」
「誰でも良い。お前は大人しく家に籠って奴隷らしくしてろ。そうすれば見逃してやる」
「何のことですか?」
「そうやって恍けてろ。知ってるんだぜ、俺たちは」
「言っている意味が分かりません」
「言わせるなよ。素直に大人しくしておけ。警告はしたぞ」
足音が離れていく。今日のところは挨拶だけらしい。俺たちと言ったからには組織立った連中なのか、嘯いているだけなのか。
「顔見たぜ」
アスワドが固い声で言った。
「尾行するか?」
雇われなら時間の無駄だろう。サービトは無言で首を振った。
奴らが言っているのは、ナーディヤとの行動の方だろう。決して夜の行動の事ではない筈だ。体格が同じとは言え、サービトは夜に行動する時はターバンを外して眼と髪を晒している。アスワドと喋っている時に使っているのは故郷の言葉だ。リヤードのような例外でもなければ両者が同一人物だと気付けるわけがない。それにその事実はサービトの明確な弱みだ。リヤードのように堂々と接触して要求を飲ませれば良い。こそこそと意味深な脅しで済ませる理由はない。
ムフタスィブの関係か例の酒宴関係か、もしくは娘を心配したクトゥブが遠回しに止めようとしてきた線も考えられる。とにかく、クトゥブの影響力を感じさせられるような迂遠な脅迫だった。
そうこう考えている内に、サービトはアル=アッタール邸に帰りついた。
まだ寝入っているナーディヤに先ほどの事を伝えようと二階に向かう。その途中、すれ違った使用人の一人が声を掛けてきた。
「お帰りなさい、サービト」
久しくなかった挨拶に引っ掛かったが、適当に返事をして先を急いだ。階段を上がろうとしてその前に立つ男に止められる。
「今まで悪かったな」
耳を疑った。信じられない言葉を掛けてきたのはウトバだ。最もサービトを疎んでいた男が、あろうことかサービトに謝っている。
「どういうことですか?」
「言葉の通りだ。結局はつまらない嫉妬だよ。すまなかったな」
それだけ言ってウトバは去っていく。
サービトは首を傾げながら階段を上がっていき、二階に着いたところで今度はヤークートに出くわした。
「これで蟠りがなくなると良いのですが」
それで合点がいった。全てヤークートの差し金だったらしい。
サービトに頼んだ謎の用事は、サービトは屋敷から追い出す為だったのだろう。その間に使用人たちにヤークートが手回しをして、謝ってきたウトバを筆頭に心変わりをさせたという事か。
「ありがとうございます」
「いえ、私の責任ですから。それにお嬢様の命令に従っただけのサービトを責めるのがそもそもの間違いないのです」
ヤークートは好々爺らしく穏やかに言い、しかし声を僅かに暗くして続けた。
「ですが皆の気持ちも理解してあげてください。お嬢様は使用人を避けていますが、それでも皆を気に掛けておられました。お嬢様の発案で楽になった仕事はいくつもあります。だからこそ、使用人一同はお嬢様を慕っています。そんな折、新しい奴隷が来てお嬢様が倒れてしまった」
「いや、分かっています」
ヤークートは微笑みながら頷いた。
「それはよろしいことです。それとつい先ほど、旦那様がお帰りになられました。お嬢様についてサービトとお話になりたいことがあるそうです」
クトゥブは観兵式が終わってすぐ、仕事で北の国境線に近い大都市アレッポに旅立っていた。近々帰るとは聞いていたが、今日がその日だったのか。どうりでアル=アッタール邸が忙しいわけだ。
「すぐに行きます」
クトゥブやナーディヤの私室の前にある広間の基壇に、クトゥブは座って待っていた。上着こそ脱いでいるが通常より一回り大きいターバンはそのままに、やってきたサービトに笑みを投げかける。
「ああ、サービト。話はヤークートから聞いたよ。色々と大変だったね。まあまずはこれでも飲みなさい、大麦水だ。これさえ飲んでおけば誰だって元気になる」
サービトは言われるがまま靴を脱いで基壇に上がり、腰を下ろして大麦水を呷る。以前ナーディヤの部屋で飲んだものより味が薄い気がしたが、味わっている暇もなくクトゥブが話し始めた。
「サービト、君を呼んだのはナーディヤについてだ。今度こそはと思いつつも期待はしていなかったのだが、予想以上に娘が心を開いたようで嬉しいよ。だからこそ、君も知っておくべきだと思ってね。ナーディヤが人を避ける理由を話そうじゃないか。ただその前に、私の生い立ちに触れなくてはならない」
クトゥブは自らの大きなターバンを見せつけるように両手で挟んだ。
「私はこの通りウラマー(法学者)でね。しかもしがないウラマーだった。ワクフ(寄進された財産)のいくつかを管理をする傍ら、細々と商売をしていたどこにでもいるウラマーだよ。死んだ妻と娘のナーディヤの三人で暮らしていた」
ターバンから手を下ろし、クトゥブも大麦水に口を付ける。
「それがある日、ワクフであるマスジドの人員整理を任された。ワクフとなると細かい規定がいくつも作られる。このマスジドだと教員を初めとした雇用者の人数がそうだね。しかし月日を重ねるとこれがどんどん膨張していって制限を大幅に超えていく。だから増えすぎた人員の整理が必要になってくる。そこで恐れ多いことに私の仕事ぶりが評価されて白羽の矢が立った」
今のクトゥブはしがないウラマーではなく、アミールだ。立場はかなり変わったが間違いなく出世している。
「成功したんですね」
「ああ、自分で言うのも憚られるが遺恨を残さず上手くいった。そして、それがスルタンの目に留まってね。以降、色々な仕事を任せられるようになった。そうして最終的にはアミールの称号を与えられてこの地に来るわけだが、その間に色々あってね」
急激な勢いで出世する父親の影で、娘のナーディヤに何かがあったということか。
「アミールともなると様々な人間と関わるようになる。元々は一人しかいなかった妻が四人に増えた。三人とも有力者の娘だよ。最初は問題なかったのだと思う、おそらくは」
そこで、クトゥブは目を伏せて押し黙った。ややあって顔を上げてサービトに眼を戻す。
「私は仕事に忙殺されていた。そのような時、妻が、ナーディヤの母が流行り病で死んだ。私が愛していたのは彼女だけだ。ナーディヤ以外に子供もいなかった。正妻という考えは教えにはないが、それでも彼女がいわゆる正妻だった。だからだろうね。正妻の座を狙って三人の妻の間で争いが起こった。しかも私は仕事で家にいないことも多かった」
そうして、ナーディヤの人間関係に影が落ちるわけか。
「お嬢様は巻き込まれたんですね?」
「勿論、危害を加えられたわけではないよ。妻が亡くなった後、私が真に愛していたのは娘だけだ。それを分かっていたからこそ、三人の妻はナーディヤの気を引こうとした。それこそが正妻に選ばれる条件のようにね。彼女たちの実家は皆名士だ。スルタンに気に入られ、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世する私の正妻の座を狙って、実家ぐるみでナーディヤに取り入ろうとした」
言葉を続けようとして、クトゥブの声が震えた。感情を抑えるように深く呼吸する。
「……気付いた時には、ナーディヤは今のようになっていたよ。元々は母に似て明るい子だった。私は急いで三人の妻と離縁して、彼女たちに加担していた当時の使用人や奴隷、その全てを解雇した。だがそれで元通りになるわけがない。結局、かつて私が商売をしていた頃から付き合いのあるヤークート以外とは、顔を合わせるのすら避けるようになってしまった」
不意に、クトゥブがえずいた。
何度もえずきながら大麦水の入った瓶を掴み、急いで口を付ける。瞬間、胃の中身を吐き戻した。またえずく。吐く。それを繰り返し、クトゥブは瓶を脇に置いて口元を拭った。
「……嫌なものを見せ、いや、聞かせてすまないね。本題はここからだ。そういう事情があるから、私はナーディヤのしたがっている事を止めたくない。止められないのだ。ナーディヤが不治の病に侵されていようともね」
不治の病。
驚きはなかった。サービトは以前触れたナーディヤの痩せ細った腕を思い出し、すんなりその事実を受け入れた。
「良くない病気ですか?」
「ああ、医者は役に立たなかった。分かっているのは日々、ナーディヤが着実に弱りつつあるということだ。しかしそれでも、私はナーディヤを止められない。過去の後悔がそれをさせてくれない。だからサービト、君が止めてほしい。本当に危ない時は力尽くで良いから止めてくれ」
クトゥブの気持ちは、子供のいないサービトにも十分理解できた。
しかし、いびつだ。
「お嬢様は不正を正そうとしていました。それを旦那様がどうにかするのが筋じゃないですか? そうすればお嬢様が危険な事をする理由はなくなります」
「分かっている。勿論、既に動いている。例の酒宴も今頃なくなっている筈だ。しかしあまり意味がないだろう。また別の場所で同じ人間が同じ酒宴を開く」
だとすれば、何の為にナーディヤは危険を冒していた。何の為に倒れた。小さくも強い感情が、サービトの奥底から滲み出てくる。
これは、怒りか。
なぜそのような感情を抱いているのか。サービトも自分の事ながら理解できなかった。
「この街のマムルークとそれを率いるアミールは二つに分けられる。一つは街全体を預かるダマスクス総督。もう一つは総督のお目付け役として派遣されたスルタン子飼いのアミール、つまりは私たちだ。堂々と不正をしているのは総督配下のマムルークだろう。私が言っても効果がない。ムフタスィブの代理人とその助手については私からムフタスィブに直接言っておく。ムフタスィブを務める大カーディー(裁判官)とは懇意だ。時間は掛かるだろうが不正は一掃されるだろう」
全て解決したわけではない。しかしナーディヤが病弱を推して動いた意味はあった。ナーディヤはおそらく満足しないだろうが、間違いなくその行動は無駄ではなかった。
「街ではマジュヌーンが暴れているそうだね。しかしナーディヤは今まで通り外出するだろう。そうなった時、ナーディヤを守る最後の砦はサービト、君しかいない」
クトゥブはサービトに手を伸ばそうとして、拭き残った吐瀉物に気付いて手を引いた。
「娘を頼んだよ、サービト」
まだ怒りを覚えていた事への困惑が消えていない。しかしはっきりしている事もある。盲目の宦官奴隷サービトの役目は、ナーディヤを守ることだ。
「任せてください」
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