第8話 あるユダヤ人医師の日常

 アンダルスからカッファに来て数年が経とうとしていた。


 ジェノヴァ人に請われて黒海北岸のこの地に居を構えたのは良いものの、聞いていた甘い話はどこへやら、アンダルスの頃より格段に仕事は忙しくなり、下働きだった若い時分に逆戻りしたような日が続いていた。


「今日の施術はどうなっている?」

 男は欠伸交じりで通訳兼助手に話しかける。ようやく地平線の向こうから陽光が輝き始めたばかりで街はまだ眠っている。助手も眠そうに重い瞼を無理やり瞬かせ、長い吐息を漏らした。

「全摘、どっちも取ってほしいそうです」


 朝から面倒な手術だった。陰嚢を取るだけで去勢は成立するのに、何故失血死の危険が増す陰茎の切除までしようとするのか。男には欠片も理解ができなかった。

「目を覚ましてくる。それまでに台に縛り付けて準備しておいてくれ」

 助手が去っていくまで茫然とし、それからようやく瓶から水を掬って顔を洗う。冷たさに眼が冴えた。頭の中は相変わらず曇っている。


「準備できました」

 随分と早いお呼びだった。まだ寝ぼけている気もしたが、客を待たせるわけにもいかない。男は自分自身を叩き起こすように素早く着替え、施術室に向かった。


 大男が施術台の上で大人しく待っていた。

 珍しい光景だった。ここに連れてこられる人間は二種類しかいない。訳も分からず連れてこられた子供の奴隷か、宦官になるべく自ら施術を望む弱弱しい大人の男だ。しかし目の前で仰向けになって縛られている大男はどちらでもない。血を飲み水として育ってきたような戦士だ。


「遊牧民だそうです」

 言われなくても分かっていた。おそらく一つの部族、あるいは複数を率いていた大人物だろう。二十歳前後か。順調にいけば一帯に覇を唱え、歴史に名を遺すほどになっていたかもしれない。それが奴隷に堕ち、去勢手術を施されようとしている。戦とはかくも無情なものか。


「始めよう」

 二人掛かりで下腹部と太ももに包帯で縛っていく。こうすれば血の巡りは悪くなり、施術時の出血をある程度抑えられる。それから湯で陰部を洗浄すれば準備は整った。


 大男の顔を見る。その両目は共に潰されている。回復の余地は一切なく、もはや宦官としてもまともに生きていけないだろう。それを理解しているのか大男は終始大人しく、感情が消えた抜け殻のようにされるがままになっている。まさに死に体だ。

 しかし内面に反して、その躰は生気に満ち溢れていた。何より尋常でなく強靭だった。太い手足は触っただけではち切れそうなほど隆起して、それなのに馬より早く駆けそうな俊敏さが秘められている。今まで何人もの遊牧民や戦士を見てきたが、目の前の大男は明らかにずば抜けていた。

 こういう者を、人は傑物と呼ぶのだろう。


 去勢手術は死亡例も多いが、この大男は必ず生き延びるだろう。この去勢された傑物を欲しがるのは誰なのか、去勢されたこの若き大男がこれからどう生きていくのか。想像すれば想像するほど興味が尽きなかった。


 いや、これ以上は自分には関係のないことだ。

 大男はまたどこか遠くに連れられて新しい、おそらく過酷な人生を送り、自分は十数年もすれば故郷のアンダルスに帰る。たまたまこの日、交わっただけに過ぎない別世界に生きる人種だ。

 それでも、男は無意識に異教徒の大男に祈っていた。

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