盲目の宦官奴隷
第9話 流れ着くはダマスクス
焼けつく大地に人々が額をこすり付けていた。つい先ほどまで賑わっていた大通りはぴたりと動きを止め、一様に同じ方角を向いて五体投地で祈りを捧げている。
そこを、小走りで突っ切る五人の男がいた。
「いやいやごめんなさいね。急いでるもんで。いや申し訳ない」
先頭の男は言い訳をするように何度もそう呟いて、群衆の絨毯の隙間を縫っていく。五人とも似たような恰好をしていたが、中央にいる男は縄で腰を縛られていた。手足こそ自由だが縄に引っ張られるままに着いていき、何故かずっと両目を閉じている。
やがて五人は脇道に入り、しばらく進んで歩みを緩める。強烈だった日差しは家々の影に遮られ、途端に熱さが和らぎ汗ばんだ肌が瞬く間に乾いていく。
「そろそろだ。奴隷の確認をしろ。汚れや怪我はないな?」
先頭の男が言うと、最後尾の二人が中央で縄に繋がれた男の検分を始めた。服に付いた砂があれば払い落とし、ターバンに乱れがあればそれも直す。最後に顔や手足を布で拭いてやり、「大丈夫です」と答えた。
「良し。もうすぐアル=アッタール様の屋敷に着く。粗相のないようにな。ハリル、お前は言わなくても大丈夫だろうが、大人しく言われた通りにするんだぞ」
やがて、薄暗い路地の先に邸宅が見えてきた。
煉瓦作りの二階建ての邸宅は大きくも地味だった。ほとんどが煉瓦の茶一色で構成され、積み木を組み合わせたような簡素な外観をしている。唯一色味の多い入口も最低限の色遣いに抑えられ、ささやかな態度で客を出迎えていた。
先頭の男が扉を叩く。中から男が出てきて短く会話をし、しばしその場で待たされる。その間に先頭の男は振り返り、ハリルと呼ばれた奴隷の見た目を指をさして一つ一つ確認する。そうしていると、邸宅の扉が再び開かれた。
「待っていたよ。いや、待ち侘びていたよ」
伸びやかな声をした男が出てきた。やせ細った躰に白衣を纏い、銀製の帯で留めている。垂れた目に長い髭は老人を思わせるが、黒々とした毛色は生気に溢れていた。
「お久しぶりですアミール(将軍)。ご希望の奴隷を連れて参りました。盲目で去勢され、しかも心身ともに頑強な若者です。それと急いだあまりご挨拶の品が遅れておりまして、もう少しすれば到着──」
「──そんなことより彼の縄を解いてあげなさい」
男たちは大急ぎで奴隷の縄を解いた。それをアミールと呼ばれた男は微笑んで見守り、自由になった奴隷に歩み寄る。
「私の名はクトゥブ・ナイール・アル=アッタール。今日から君は我が家の奴隷となるが、それはアル=アッタール家の一員になるという事だ。住む場所も食事も用意するし、給料も払う。何も心配はいらないよ」
無言が続く。先頭の男が奴隷を肘で突き、ややあって奴隷は口を開いた。
「……まだこの国の言葉が上手く喋れないんです」
「気にしなくていい。言ったろう? 今日から君は私の家族だ。家族に形式ばった口調は必要ない。それで君の名前は?」
「ハリル」
その名を口にした瞬間、奴隷の脳裏に遊牧民だった頃の記憶が過った。父カラジャを殺し、攻めてきたヤクブを殺し、そしてボズクルトに見切られた。
あの時、ハリルという名の男は役目を終えた。カラジャの息子ハリルはもういない。
「……ただ、その名前の男は死にました」
クトゥブは穏やかな表情のまま眉尻を下げた。
「そうか。君が望むのなら新しい名前を決めよう。そうだな、サービトというのはどうかな?」
「それでいいです」
「よしサービト、早速家を案内しよう。さあ全員入ってくれ」
クトゥブは振り返ろうとしてサービトに向き直った。
「盲目では新しい場所は不安だろう。腕を貸そう。遠慮なく掴まりなさい」
「足音で分かるんで大丈夫です」
「それは素晴らしい。では改めて、全員入ってくれ」
クトゥブに続き、サービトも邸宅に入った。その後から奴隷商人たちもぞろぞろ着いてくる。
通路を進んだ先に、打って変わって色鮮やかなイーワーン(前面開放広間)があった。天井はどこまでも高く、植物文様が縦横無尽に刻まれ、壁際には白磁器やラスター彩陶器がこれでもかと飾られている。そしてイーワーンはそのまま客室に繋がり、その奥には中庭が広がっていた。
客室に着いたところでクトゥブが足を止めた。
「すまない。私が相手をしなければならないのは分かっているが、今日はサービトの案内を優先したい。申し訳ないが君たちはここで待っていてくれるかな?」
「いえいえ」
先頭の男が大げさに両手を振る。
「いつもアミールには大変お世話になっておりますからどうかお気遣いなく」
「すまないね。すぐに侍従長が来る。さあサービト、行こうか」
中庭に出ると、中央の噴水が穏やかな音を立てていた。地面を埋め尽くすタイルにクトゥブの足音が響く。歩幅が狭く、引きずるような歩き方だ。
「もしかするとサービト、君は事前に知っていた奴隷というものと今の待遇の違いに戸惑っているかもしれない。それどころか今に私の態度が急変して、君をいたぶるのではないかと怯えているかもしれない。まず、それについて誤解を解こう」
ふと、足音が近づいてきた。若い男が声をかけてくる。
「おー、これが例の新しい奴隷ですか旦那様」
「そうだがすまない、挨拶は今度にしてくれ」
「はいはい。ではまた」
足音が離れていくが、入れ違いにまた別の人間が近づいてきた。
「最近ハラーフィーシュ(物乞い)が増えて困っていると街区を纏めるシャイフ(長老)から陳述が届いています」
「それはイフラースに言ってくれ。私は新しい家族の案内が──」
──言い終わる前に、さらにもう一人が走ってきた。
「倉庫に小麦を置く場所がないんですが!?」
「それはヤークートに聞きなさい」
集まっていた者たちが散っていく。クトゥブは微笑をこぼして口を開いた。
「奴隷というのは家畜と同じだ。こう言うと奴隷は酷い扱いを受けている、そう勘違いする者がいる。いや勘違いではないな。残念ながら奴隷を動物以下のように扱っている者もいる。しかしな、自分たちが手塩にかけて育てた家畜をいたぶる者がどこにいる? 奴隷は大切な財産だ。実の子供のように接する事もあれば、子供の教育を任せたり、あるいは財産の管理を任せたり、とにかく私たちの社会では大切に扱われている方が圧倒的に多い」
そこで、クトゥブはサービトの手を取った。
「ここからは階段を上がる。これは流石に助けが必要だろう」
申し出を断る理由はなかった。傾斜の緩い階段を、クトゥブが一歩一歩ゆっくり上っていく。サービトは手すりを握り、段を撫でるように脚を動かした。
「二階は家族、まあ私と娘しかいないが、それと侍従長と女性の使用人だけが入ることを許されている。今日から君もその一人だ」
サービトはクトゥブの腕を、気付かれないよう微かに揺らした。滑らかな動きだ。不自然な筋肉の緊張はない。
「……初対面の俺を、そこまで信用していいんですか?」
「疑問は尤もだ。たが、私は奴隷商人の彼を信頼している。彼は奴隷商人ではあるが、私の手足となって各地の情報を集め、時には私の代理として外交官の任も果たしてくれている。君のことは事前に彼から聞いていてね。君になら娘を任せられると思ったんだよ」
階段を登り終えると、また中庭が現れた。中央には噴水ではなく長椅子が置かれている。喧噪は下から聞こえてくるばかりで二階は静まり返り、日光だけが激しく差し込んでいた。
クトゥブはサービトの手を持ったまま、庇の下に入って足を止めた。
「君に任せたいのは娘──ナーディヤの護衛だ。普段は家の中で過ごしているのだが、たまに外出して買い物をすることがある。その時にナーディヤに着いて回って欲しい」
「今まではどうしていたんですか?」
隠すように小さく、クトゥブは溜息を吐いた。
「ナーディヤはなんというか、人嫌いでね。昔から付き合いのある侍従長と私以外には顔を見せようともしない。今までは離れたところから護衛に監視させて対処していたのだが、最近物騒でね。どうしてもナーディヤのすぐ傍に人を置きたかった」
「それで、俺ですか」
「頼む」
クトゥブはサービトの手を両手で包み込んだ。
「盲目の宦官である君なら、ナーディヤも傍にいることを渋々認めるだろう。何かあった時、勿論戦えとは言わない。近くにいる護衛が助けに来るまでの僅かな時間だけ、娘を危険から守ってほしい」
これが、サービトという男の役目なのだろう。
特段任に努めたいという気持ちはサービトにはない。しかしそれ以上に、断る理由もなかった。
サービトはかつて存在した両目で見つめるように、クトゥブを正面から見据えた。
「俺は、一度死にました。それからここに来るまでの生活を、良いとも悪いとも思ったことはないです。それはこれからの生活も同じです。何故なら俺は、一度死んだからです。死人にできるのは残された者の幸せを願うことだけ。それ以上は何も求めません。そして、何も求めないということは、頼みを断る理由もないということです。俺の力が必要なら手を貸しましょう」
サービトの手を包むクトゥブの手に力が籠った。
「ありがとう。でも、君にもいつか新たな生きがいが見つかる。ここで我が家の一員として暮らしていればね」
クトゥブは笑い、サービトの手を離した。
「さて、娘に会わせよう。話は通してあるから挨拶ぐらいはできるだろう」
中庭を渡り、何本もの柱がある庇入口を潜って中に入る。中央には広間があり、両脇にそれぞれ部屋があった。
「左が私の部屋で、右がナーディヤの部屋だ」
目的の部屋の前で止まり、扉越しにクトゥブが声を掛ける。
「ナーディヤ。前に話した新しい護衛を連れてきた。挨拶しなさい」
返事はない。扉の向こうは無人のように息を潜めている。
「ナーディヤ。この人は盲目の宦官だ。何も警戒することはない」
声どころか物音もない。路地から聞こえる喧噪が通り抜けてくる。
「ナーディヤ。ダマスクスはこれから危なくなる。護衛なしでは外出を認めるわけにはいかないよ。それは分かっているだろう?」
答えは返ってこない。クトゥブは重苦しい声を洩らした。
「……他の家なら娘を無理矢理にでも引っ張り出すんだろうが、私にはとてもではないができない。今日は諦めて君の部屋を案内しよう」
「それはなりません、旦那様」
老人の声が響いた。押し殺したような静かな足音だったが、それを事前に捉えていたサービトは驚くことなく声のした方に振り返る。
「ヤークートか。紹介しようサービト、彼が侍従長のヤークートだ。彼も元々は奴隷でね。今はこうして我が家の一切を取り仕切っている」
老人の肌は一際黒かった。その黒い肌は深く刻まれた皺をさらに際立たせ、髪や髭に混じった白髪を浮き上がらせ、澄んだ白目を輝かせる。頭に巻いたターバンは白でも黒でもなく、青い色をしていた。
「旦那様、そのような時間はありません。イフラース殿が至急の用とのことです。後はお任せください」
「なんと。サービト、すまないが後はヤークートに案内してもらってくれ。実際これからは私よりヤークートの世話になることの方が多いだろう。困った時はヤークートを頼ると良い」
言ってクトゥブは小走りで去っていく。ヤークートが自然な動作でサービトの腕を手に取った。
「では貴方の部屋に案内しましょう」
「足音で分かります。手を持つ必要はありません」
「それは失礼しました」
ヤークートはサービトの腕を丁寧に下ろしてから手を離した。
「聞きたいことは山ほどあるでしょうが、部屋についてからにしましょう」
一度中庭に出て向かいにある部屋に入った。必要なものは置かれているが飾り気はない。掃除こそされているが使われた形跡は一つもなかった。
「気に入らなければ遠慮なく言ってください。空いている部屋はまだまだありますので」
「ここでいいです。どこでも一緒ですから」
ヤークートは常に機嫌が良さそうな老人だった。クトゥブよりは弱い微笑みが絶えず浮かび、どこか子供のように全てを楽しんでいるような無邪気さが声音に表れている。
「それはよろしいことです。こちらの椅子に座ってください。新しいターバンを巻きましょう。話はそれをしながらということで」
サービトは言われた通りにした。背後に立ったヤークートはのんびりとした動作でサービトの頭に巻かれたターバンを解いていく。
「お嬢様は難しい人なんですか?」
「私と旦那様以外から見れば、そうでしょうね。使用人でも声すら聴いたことのない者も多いでしょう。世の女性以上に部屋から出ることは少なく、日々お一人で過ごされています」
「何かあったんですか?」
「私の口から話せることではありません。それに当時、私は別の家で働いていましたから正確なことは知りません」
ターバンが外れた。ヤークートは解いた布を脇に置き、今まで巻いていたものよりかなり長い布を手に持った。
「ターバンで目を覆い隠してもよろしいですか? どちらにせよ注目されれば目立つでしょうが、アル=アッタール家の者がハラーフィーシュに間違われるわけにはいきませんから」
「そうしてください。自分で巻く時もそうします」
ヤークートはこれまたゆっくりとした動きで真っ白なターバンを巻いていく。
「そんなお嬢様が新しい護衛を受け入れますか?」
「お嬢様は聡い方です。受け入れざるを得ないことは理解されているでしょう。それに旦那様がお嬢様を思う気持ちも理解されています。時機にお嬢様の方からお声を掛けてきますよ。それまでは屋敷の中を確かめてはどうですか?」
「仕事はしなくていいんですか?」
「サービト。貴方の仕事はお嬢様が外出する際の身辺警護です。他の事はしなくても問題ありません」
あまりにも好待遇だった。
サービトは奴隷についてほとんど知らない。カラジャの時代、戦いに敗れた者たちが奴隷として売り飛ばされていたのは知っているが、その後どうなったかは噂も流れてこなかった。しかし、戦に敗れた者たちの待遇は想像するに難くない。
それなのにアル=アッタール家の待遇は気味が悪いほど素晴らしい。今まではつい躰が動くことはあっても無意味だと抑えていた警戒心が、どうにも鎌首をもたげてきた。
「それなら勝手に外に出ていいですか?」
「はい。手が空いていれば私が案内しましょう」
「逃げ出しますよ」
ヤークートが声を上げて笑った。
「アル=アッタール家より良い場所はありません。必ず望んで帰ってくる事になりますよ」
意味がない。サービトは改めてそう思った。
去勢はともあれ盲目となった今の自分が見知らぬ地で生きる術はない。そもそも一度死んだ身だ。騙されて畜生のように扱われようとも死体を弄ばれるようなものだ。させたいようにさせておけばいい。
「言ってみただけです。しばらくは衰えた躰を鍛え直そうと思います」
「それはよろしいことです。ですがサービト、そう時間は掛かりませんよ。お嬢様は本がお好きな方なのですが、事前に新しい本が入荷したとお伝えしておきました。なので数日以内にお出かけになる筈です。さあ、できました」
ターバンが巻き終わった。通常のものより一回りは大きく、サービトの眼から上に綺麗な球体が出来上がっている。
「何か問題があれば遠慮なく言ってください。すぐに対処しますから」
この気遣いにどう答えるべきか。何を求められようと全てを受け入れるのみ、望むことは何一つない。当然、気遣いも不要だ。
悩んだ末に、サービトは曖昧に返事をして言葉を濁した。
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