第10話 アミールの一人娘

 ヤークートが言ったように、ナーディヤがサービトを呼び出すのに数日と掛からなかった。二階に立ち入れる数少ない女の使用人に連れられて、サービトは二階の中庭に出た。


「出かけます」

 若いが、落ち着いた声をしていた。全身を頭からすっぽり包んだ真っ黒なニカブは、唯一目元に切れ込みが入っている。そこから覗く瞳は切れ長で大人びているが、その背はサービトの腹の高さしかないほど小柄だ。

「サービトです。よろしくお願いします」

 言ったが、ナーディヤは返事をせずに歩き出した。一階に降りると金属がぶつかりあう音が聞こえた。離れたところから見守る護衛が持つ武具の音だろう。サービトは気にせずナーディヤの足音を追い、アル=アッタール邸を出た。


 ダマスクスの街には太い道がいくつかあり、そこから枝葉が広がるように道は少しずつ細くなりながら縦横を走り回って街全体に浸透している。ナーディヤはその太い道を避けるように頻繁に道を変え、それでも一際大きな喧噪に近づいていく。そうして到達したのは、ダマスクスで一番の大通りである直線通りの西端──ジャービヤ門だった。


 音と臭いが爆発した。


 ジャービヤ門周辺を埋め尽くす大量の天幕は一本の太い道を何本もの小道に変化させ、あちこちで客引きががなり立て客も負けじとそれ以上の語気で言い返す。その隣ではラクダを引いた腰巻だけの男がムーサ―の海割りを再現していた。

「くっせ! ションベンの腐った匂いがしやがる!」

 サービトの耳元で誰かが悪態を吐いた。瞬間、風が吹く。サービトの鼻に悪臭が突き刺さった。まさしく尿の臭いをさらに酷くした匂いだ。砂漠の遊牧民はラクダの尿で髪を洗う──真偽はともかくそんな噂をはるか昔に聞いたことを思い出す。あちこちに撒き散らされた動物の糞の臭いは慣れて気にならないが、流石にこの臭いは例外だ。サービトは無意識に鼻を揉みながらナーディヤの足音に集中した。


 ナーディヤの歩き方は父親のクトゥブとは正反対だった。一歩一歩はっきりと地面を踏みしめて、体格の割に広い歩幅で進んでいく。しかしどこか飛び跳ねるような不自然な歩みだ。普段部屋から出ないせいで歩き慣れていないのか、微かなぎこちなさがある。

 お蔭で騒がしい直線通りでもナーディヤの足音を聞き漏らすことはなかった。やがてまた小道に入っていき、壁の窪みに嵌ったような小さな店に立ち寄った。

「いらっしゃい」


 外観とは裏腹に広々とした店内は、しかし大量の本に埋め尽くされていた。いくつもある机に隙間なく平積みされた本はそのどれもが天井まで届きそうなほど堆く積み上がり、地味なものから派手な装丁、薄いものから分厚い本まで無数の書籍が並んでいる。


「新しい本ならこちらに」

 机の間の細い通路を塞ぐようにして座る店主が一冊の本をナーディヤに差し出した。

「中は聖典の写本で、あまり褒められた字ではありません。おそらく学生が小遣い稼ぎに書いたものでしょう。ただどうです、見事な装丁でしょう?」


 その本の装丁はヤギの皮革張りに、青と黒の糸を使った刺繍が入っていた。植物の葉や茎、蔓や花びらが一杯に広がり、鹿や鳥などが飛び回っている。聖典の意匠としては良くあるものではあったが、その一つ一つは異様に細かく、目を凝らせばそれまで見えなかった別の植物や動物が浮かんでくる。


「使われている素材も大したものではありませんが、その技術には驚くほかない。私もこれを手に入れた時に聞いてみたのですが、本人もいつ入手したのか記憶にないほど安かったらしく、装丁家は分からずじまいでした」

 ナーディヤは店主の言葉には欠片も反応せず、本の装丁を撫でた。小口を保護する為の覆いを開け、本を裏返して装丁全体に目を通す。


「いつも通り後日届けるということで良いですか?」

 ナーディヤは頷き、本を閉じて店主に返した。それから振り返り、サービトの脇をすり抜けて店を後にする。

「またのお越しを」

 用件はそれで終わりだった。二人は来た道を戻り、アル=アッタール邸に帰った。


 数日間は何もなかった。サービトは使用人の名前と声を覚えたり、邸宅を隅々まで歩き回ったり、衰えた躰を鍛え直す。そうしているとまたもやナーディヤに呼ばれ「出かけます」の一言で街に繰り出した。

 ナーディヤと交わす言葉はなく、サービトから話しかけても応えはない。定期市では扱う品物が変わって臭いも様変わりし、されど喧噪はいつものように活気立っている。


「おっほ、暴れん坊のバカがいやがんな」

 サービトの耳元で男にしては高い声が聞こえた。耳を澄ませてみれば、遠くで誰かが物を壊して暴れているような音が聞こえる。この距離ではナーディヤに危険は及ばないだろう。そう判断した時、サービトは違和感を覚えた。

 先ほど聞こえた男の声は、いやに近すぎはしないか。

 通りすがりというよりわざわざ耳元に口を近づけたような距離感だった。しかし耳に吐息が掛かってはいない。それほどまでに人が近づけば盲目と言えども気付かないわけがない。違和感というより化かされているような不思議さが残る。だが、気にして何があるわけでもない。


 ナーディヤは野菜が並んだジャービヤ門の周辺を通り抜け、前回通った本屋に顔を出す。また一冊の本の装丁を検めてアル=アッタール邸に帰る。道は少し違ったがしていることは同じだ。そしてまた、サービトは何もない日々を送る。


「お風呂に入りませんか、サービト」

 ヤークートが声を掛けてきた。空が暮れなずんでいる。アル=アッタール邸に住んでいるサービトに一日の仕事の終わりという区切りはないが、邸宅に住んでいない使用人たちにとっては帰り支度の時間だ。彼らは帰り際に邸宅の中にあるハンマーム(浴場)で汗を流して帰っていく。それがサービトにとっても区切りの休憩時間になっていた。


「いいですね。行きましょう」

 脱衣室で腰布一枚になり、その奥にある熱浴室のサウナで汗を流す。

「お嬢様とはどうですか?」

 坐ってからややあってヤークートが訊ねてきた。その首には異教徒であることを示す鈴のついた首輪を着けている。

「話もできてません」

 ヤークートが微笑んだ。

「気にすることはありません。いつになるかは分かりませんが、いつかは打ち解ける日が来るでしょう」

「来ますか?」

「来ますよ、きっと」


 アル=アッタール邸に来てから十日以上経っていたが、ナーディヤのことは何一つ分からなかった。ただでさえ全盲で外見が分からないのに、声もほとんど聞いたことがない。ナーディヤが人と距離を置いているのは分かるが、そこに嫌悪感という感情すら籠っていなかった。

 嫌われているわけではないが、興味を持たれていない。傍にはいるが、心理的な接点はない。考えようによっては嫌われていた方が関係性があるだけ良かったかもしれない。


「他に困ったことはありますか? 外には人だけではなく、ジンもいます。ちょっかいをかけられてはいませんか?」

「ジン、ですか」

 聞き返したが、勿論サービトもジンを知っていた。


 ジンとは悪霊の類だ。

 人を騙し、時に襲う。故郷にもいないわけではないが、もっと南の砂漠やダマスクス、カイロが主な出現場所なこともあり、遊牧生活で意識していた者は少なかった。

「煙の出ない火から生まれた存在、あるいは砂漠の風から生まれた存在──それがジンです。彼らは暗がりを好み、普段は人の目には見えません。しかし非常に頭が良く、言葉巧みに人を騙したり、暗がりに連れ込んで襲ったり、あるいは人に憑りついて操ったりと非常に危険です」


 思い当たる節があった。

「外で話しかけられたかもしれません」

「無視すれば大丈夫です。彼らのほとんどは口が上手いだけですから。特に人が多いところではそれ以上何もできません。ただ」

 ヤークートは額の汗を拭い、サービトを見つめ直した。

「ジンに憑りつかれたマジュヌーンには注意してください。あれはまさしくけだものです。滅多やたらと暴れまわり、その力は人間を遥かに超えます。見かけても直ぐに逃げてお嬢様を守ってください」


 昔、サービトはマジュヌーンと戦ったことがあった。いや、あの時はカラジャに戦わさせられた。相手は技術も何もない戦い方だったが、鉄製の剣を捩じり切る異様なまでの怪力の持ち主だった。戦いにはなんなく勝ったが、確かに人間離れした怪物だった。盲目となり守るべき存在のいる今となっては避けるべき相手だろう。

「気を付けます」

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