第11話 マムルーク

「出かけます」

 三度目のお呼びだ。それ以上の会話はなくサービトはナーディヤを追って外に出た。いつものように街の中心部に行き、本屋に顔を出して直ぐに帰る。通る道は多少違っても普段通りの散歩だ。離れたところでナーディヤを見張っている護衛の男も相変わらず付かず離れずの距離を保っている。


 今日のスーク(市場)の臭いは普段より複雑だった。特に生活臭のようなものが濃く混じっている。どうやら蚤の市が開かれているらしい。古着や生活道具などが多く並び、物音がいつにも増して響いていた。


 帰り道、ナーディヤは蚤の市に興味があるのかたまに足を止めた。店主の声には素っ気なく手を動かしてだけで応え、また別の店に行って同じことを繰り返す。

 していることはただの冷やかしだ。ナーディヤの行動にしては違和感があった。しばらくサービトが耳を澄ませていると、幾度となく聞こえてくる声音に気付いた。


 居丈高な男の声と、それに怯えてへつらう男の会話だ。喧噪に紛れて内容までは分からない。居丈高な男の声は同一人物のようだが、怯えてへつらう男の声はその都度違う。一人の男が店主たちを脅しているのだろうか。

 その時、懐かしい音が聞こえた。


 馬の嘶きだ。


 音に満ち満ちたスークにあって、馬蹄音は良く透った。思えばサービトがダマスクスの街で馬に会うのはこれが初めてだ。ラクダやロバは頻繁に擦れ違っていたが、何故だか馬とは一度も会わなかった。


「退け! 蹴り殺すぞ!」


 そんな怒声と共に馬蹄音が近づいてくる。厄介者を避けるようにいくつもの足音が走り回り、その周辺が途端に活気を失って静まり返る。

 緊張感が迫ってきた。ナーディヤはその場で我関せずに店主の話を無視して商品の前で佇んでいる。サービトは一歩だけナーディヤに近づき、念のため怒声に背を向けた。音は四つ、厄介者は騎乗しているらしい。馬の歩様はやけに固く、神経質そうに唇を震わせていた。


 何事もなく騎馬が離れていく。遠くから波のように活気が戻り、スークが賑わいを思い出す。その時、女の悲鳴が一帯をつんざいた。


 次々に悲鳴が上がる。「逃げろ」口々に警告が飛び回る。「馬が逃げ出した」騒動の中にその言葉が聞こえ、サービトはようやく状況を把握した。しかしナーディヤはその場で微動だにせず、慌てて逃げようとする店主も無視してどこか一点を見つめている。


 馬蹄音がサービトたちに向かってきた。一直線に突っ込んでくる。

 このままではナーディヤにぶつかるかもしれない。呼びかけて馬を避ける余裕はおそらくない。サービトは音の聞こえる方を向き、ある筈のない眼で馬を見つめた。

 物心ついた頃から馬に乗って遊んでいた。盲目になろうとも自らの手足を操るように馬を扱える。耳を澄ませて馬蹄音で速度と距離を測る。頭の中で走る馬の姿を思い浮かべる。音と想像が一瞬で同期した。


 サービトは走った。両手を広げて前に出る。驚いた馬の歩様が乱れた。進路を変えてサービトの手から潜り抜けようとする。刹那、サービトは宙を舞った。

 手が馬の首に触れる。想像の中の馬が実体化する。サービトは躰を回転させて空中で態勢を変え、軽やかに馬の背に跨った。


 これでもう安心だ。片手でたてがみを引っ張りながら手探りで手綱を見つけ、緩やかに馬を諌めていく。緊張しきったように背中の固い馬だが、落ち着くのに時間は掛からなかった。周囲を乱していた恐慌は歓声に変わり、サービトに賞賛が降り注ぐ。


「ふざけんなてめえ!」

 怒号が響く。途端に喝采が弱まった。男の怒鳴り声は何度も繰り返され、観衆が落ちついていく。そうしてその男がサービトの前に来た時にはすっかり人々の熱気は冷え切り、太陽だけが灼熱に照っていた。


「降りろ! 誰だか知らねえが、マムルークでもねえ奴が馬に乗ってんじゃねえ!」

 サービトの仕事はナーディヤの護衛だ。まともに取り合う必要はない。

「貴方の馬ですか?」

「そうだ! いいから降りろ!」

 サービトは言われた通りにして男に手綱を差し出す。奪い取るように力づくでひったくられた。それでもサービトは表情を変えず、先ほどまでナーディヤがいた場所に戻ろうとする。


「待てよ。この国で馬に乗っていいのは俺たちマムルークだけだ。それなのに俺の前で乗っておいて、はいさよならなんてできると思ってんのか?」

 面倒な人間に絡まれてしまった。マムルークと言えば、この国の支配者層だ。

 元は奴隷だが、戦士となるべく幼い頃から軍事教練を施された精鋭。それがマムルークだ。成人すると晴れて奴隷から解放され、人々の上に立って力を振るう。純粋に戦闘能力が高く、権力すら握っている。絡まれると一番厄介な連中だ。


「放っておけば怪我人が出ていました」

「怪我なんて治るだろ。治れば怪我なんてなかったのと同じだ。つまりてめえは何もなかったのに、俺たちの特権である馬に乗った。これは大問題だぞ」

 何を言っても無駄だろう。完全に目を付けられてしまった。下手にナーディヤと合流すると巻き込んでしまう恐れもある。


「すいません。この街に来たばかりで知らなかったんです」

「それは大変だ。勉強代もちゃんと払えよ」

 逃げるのは不可能だ。盲目では走っても人や物にぶつかって追いつかれる。立ち向かってもアル=アッタール家がいらぬ恨みを買うかもしれない。大人しく殴られるよりほかはないだろう。


「我が家の奴隷が何か?」

 サービトが覚悟を決めた時、ナーディヤが毅然と口を挟んできた。

 助かってはない。それはそれで面倒だ。サービトは口をつぐみ、直ぐに動ける準備をする。男はニカブを纏ったナーディヤを見やった。


「これはお嬢さん、あんたの奴隷だったか。奴隷の犯した罪は自由民の半分の罰で許されるなんて法になってるが、被害を被った方は溜まったもんじゃない。もう半分の罪は主人が償うべきだと俺は思うんだが、お嬢さんはどう思う?」

 言って男はにやつく。ナーディヤの切れ長の瞳がさらに鋭くなった。

「思いません」

「それは残念。俺は思うし、お嬢さんは思わない。平行線ってやつだ。場所を変えてじっくり話さないか? すり合わせようじゃねえか、意見以外にも色々とな」

 男が一歩、ナーディヤに近づいた。もう一歩近づけば間に入ろう。サービトは足に力を入れた。


「無礼者!」


 叫び、誰かが走り寄ってきた。ナーディヤの前で足を止め、マムルークに立ちはだかる。

「ちょろちょろ出てきやがって、鼠かてめえは。最期も鼠と同じような目に遭わせてやろうか、あ!?」

「無礼者が! この方はアル=アッタール家のご令嬢だぞ!」

 マムルークの顔から表情が消えた。立ちはだかった男が畳み掛ける。

「いちマムルークに過ぎない分際で、アミールのご令嬢やその奴隷に何たる仕打ちか。そもそも貴殿が馬一頭御せないのがそもそもの原因ではないか」


「いや、ま、待ってください」

 マムルークはむりやり笑顔を作る。

「知らなかったんですよ。知っていればこんなことはしませんでした。ああいや、馬を止めてくださってありがとうございます」

「弁解は正式な場でするといい。私はありのままの事実を報告させてもらう」


 マムルークに立ちはだかった男は、遠くからナーディヤを護衛していた者だ。今まで気配をずっと消していたが、サービトだけでは対処できないと判断したのだろう。

「そんな、勘弁してくださいよ。この通りすぐに消えますんで、はい」

 マムルークが手綱を引いて逃げるように去っていく。その背中に鼻を鳴らした護衛の男はナーディヤに向き直った。

「ご無事ですか、お嬢様」

 返事はなかった。ナーディヤは遠ざかるマムルークの背中を無言で見つめている。護衛の男は意に介した風もなくサービトに歩み寄った。


「良くやった。お前の仕事はそれでいい。お嬢様は私が守る。お前は私が来るまでの時間稼ぎだ。とにかくお嬢様の盾になれ、お嬢様を危険に近づけるな」

 そう言って、護衛の男は突き飛ばすような強さでサービトの胸を押した。

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