第40話 追う者

「……小麦よ。ここにあるのは全て小麦だわ」

 つまりここは、小麦の地下貯蔵庫だ。しかもそこにカターダが出入りしている。今までナーディヤが漠然と感じていた不安の正体が、サービトにもおぼろげに見えてきた。


「他に何かありますか?」

「待って。小麦はそれぞれ分けられているみたい。そこに地名が書いてあるけれど、収獲地を意味しているのかしら? それとも」

 そこで、ナーディヤが押し黙った。


「どうしました?」

「……嘘よ」

ナーディヤの声が震えている。

「嘘よ……そんなわけがない」


 ナーディヤの呼吸が浅く、速くなっていく。掠れた音も混じり始めた。後ずさるような力ない足音が聞こえる。サービトは急いで駆け寄りナーディヤの躰を支えた。

「大丈夫ですか?」

「……書かれた地名は全て……お父様のイクターが与えられた場所よ」


 マムルークは土地の代わりにイクターを与えられる。そして税として納められた農作物などを売買し、それらを市場に流して金銭を得る。

 つまりここにある大量の小麦は、クトゥブが税として徴収したものだという。しかも今、ダマスクスでは食料品、中でも小麦が高騰してあらゆる場所で弊害が起こっている。高騰の理由はナイル川の増水不足に端を発する不安らしいが、最大の影響は総督を初めとしたマムルークたちが本来市場に流すべき食料品を退蔵している事だ。それで値段が吊り上がり、商人すらも後に続いて食料品を買い占める動きを見せている。


「嘘よ……お父様がこんな事する筈がない……お父様ならこの小麦を安く売って……今の酷い状況を改善しようとする筈よ……」

 しかしクトゥブはそうしていない。むしろ他のマムルークと同じように小麦を貯め込み、街の惨状に見て見ぬふりをしている。カターダがこの貯蔵庫に立ち寄ったのは単純に、クトゥブの部下として関わっているからだろう。


「一先ず外に出ましょう。これ以上ここにいるのはよくありません」

 ナーディヤはサービトの腕を頼り、重い足取りで階段を上がった。消えていた喧噪が戻ってくる。外ではまだクバイバート街区の異教徒が起こした騒動が続いていた。民家から出て辺りの様子を確認し、直ぐにその場を離れる。


「サービトと……まさか、お嬢様ですか?」

 背後から聞き覚えのある声が聞こえた。アル=アッタール家の侍従を務める男だ。その声音に警戒心はない。サービトが適当に繕おうとした瞬間、ナーディヤの躰に力が入った。


「嘘よ!」

 ナーディヤが叫んだ。その手がサービトの腕から離れる。猛然と足音が離れていく。追いかけるように微風が吹き、遅れてサービトも動き出す。

 ナーディヤの脚は速くない。それでも盲目のサービトが音を頼りに進める速度より遥かに速い。追えていた足音もあっという間に雑踏に溶け込んだ。戻って使用人に助けを求めるか──否定する。どのみち見失ったナーディヤを見つけるには足りない。


「ご安心を、我々が捕捉しています」

 伝令役の少年の声がした。子供の軽い足音が近づいてくる。サービトは礼を言って先導する少年の足音を追った。


 ナーディヤは今、混乱の渦にいる。

 父クトゥブに向いていた一点の曇りもない尊敬に疑念が生じ、それでも理由をつけてなんとか平静を保とうとしていたところにアル=アッタール家の侍従が話しかけてきた。あの侍従は偶然近くを通りかけたわけではない。十中八九、穀物貯蔵庫を訪ねてきたのだ。


 もはやカターダどころの話ではない。侍従が関わっている以上、クトゥブが食料品の高騰にあえぐ民衆をよそに退蔵しているのは確実だ。ナーディヤが尊敬する清廉潔白な父は幻だった。それがどれだけナーディヤに衝撃を与えたかは想像に難くない。


「見えました。しかし絡まれています」

「お嬢様!」

 少しでも気を引ければと声を張り上げる。さらに足を速めようとするサービトの前で、少年の足取りが遅くなった。


「まずいことになりました。絡んでいるのはマムルークたちです。十人はいます」

 悩んでいる暇はない。

「途中まで案内してください」

「あとは真っ直ぐ行くだけです」


 サービトは大地を蹴った。懐の短剣に手を伸ばして突っ込んでいく。俄かに前方が慌ただしくなった。「止まれ!」マムルークが怒鳴った。足音が入り乱れサービトを迎え撃とうとする。


「剣を下ろせ」

 落ち着いた男の声が響いた。中年あるいは壮年のような微かにしわがれた響きに、サービトは懐に手を入れたまま足を止める。

「その巨躯、アミール・クトゥブの屋敷で見た覚えがある……となるとこのご令嬢は、アミール・クトゥブのご息女か」


 知り合いであろうと安心はできない。

「誰ですか?」

「失礼、アミール・ターリクとは言え耳にしたことがあるかな」


 リヤードの上司か。アミール・ターリクと言えばクトゥブと仲が良く、少し前にはアル=アッタール邸に招かれていた。直接危害を加えられる恐れはなさそうだ。サービトは懐から手を出した。

「分かります」


「ご息女は大層憔悴しておられる。近頃街も危険だ。部下に家まで送らせましょう」

 清廉潔白な父クトゥブの力になりたいというナーディヤの理念の根底が崩れ去った今、サービトにできる事は何もない。

「お願いします。それとお嬢様はどこにいますか?」

「そうか、眼が見えないのか。私の横で茫然としておられる」

「ありがとうございます」


 サービトはターリクの声に近づいていく。ナーディヤの荒い吐息が聞こえてきた。

「では私はここで。見回りの途中なので先に失礼する。部下は遠慮なく使うといい」

 数人のマムルークを残してターリクが去った。サービトが促すと、ナーディヤは俯いたまま無言で帰路に着く。


 アル=アッタール邸に辿り着いても会話はなかった。出迎えに来た使用人やウトバとも眼も合わせず、緩慢な動きで自室に入って格子窓の凹部にしなだれかかった。

「これからどうするつもりですか?」

 サービトが問うても反応はない。ナーディヤの躰は微動だにせず、荒々しい呼吸が室内に響く。


「……お嬢様?」

 あまりにも反応が無さ過ぎた。そこで、サービトは気付いた。


 そもそもナーディヤの躰はとうに限界を迎えていたのだ。そこに精神に強い負荷が掛かればどうなるか。サービトは部屋を飛び出し腹の底から叫んだ。

「医者を呼んでください!」

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