第25話 異教徒
日を改めて、助けてもらったスーフィーに正式な形で礼を伝える、その名目で外出したナーディヤは、サービトを連れて城壁の外に出た。
西門からしばらく南下して、スーフィーが住んでいるとヤークートに説明したクバイバート街区に着く。
城壁から解放された町並みは、道という概念が存在しないように広々としていた。迷路のような道はどこにもなく、家々は野放図に立てられ悠長に木々まで生えている。城壁内に比べてみすぼらしい見た目をした者が多いのは、この地区に流れ者が多いからだろう。
道行く人に訪ねてこの街区のシャイフ(長老)の家を訪ねた。中庭式住居に複数の世帯が住む集合住宅だ。ナーディヤが身分を明かすと、シャイフの部屋に通された。
「アミール・クトゥブの娘さんと聞きました。このようなところにわざわざお越しくださり感謝の言葉もございません」
痩せこけて老いた獅子のような老人は座ったままそう言い、身振りで着席を促した。ナーディヤが言う通りにすると、シャイフは敷物に青いターバンを巻いた頭を擦り付ける。
「やめてください。頼みがあるのはこちらの方です」
ややあってシャイフが顔を上げる。サービトは入り口横の壁際に控え、好奇心で部屋の様子を伺う住人の物音に耳を澄ませた。
「頼みと言われましても、私どもにできる事などそうそうありませんが」
「マムルークの不正についてご存知ですか?」
問われているのにシャイフは一言も発さない。ナーディヤは気にせず話を続けた。
「今のマムルークは酷い。法を無視して好き放題に罪を重ねるに留まらず、それらが公然と野放しにされています。おそらくアミールが不正に関わっているからでしょう。私はそのアミールの不正の証拠を見つけて取り締まりたいと思っています。その力添えをしていただけませんか?」
シャイフは彫像のように動かない。待てど待てども返事はなく、薄く開かれた眼は寝ぼけたように焦点がずれていた。痺れを切らしたナーディヤが口を開いた瞬間、シャイフが寝言のようにもごもごと話し始める。
「ナイル川が増水していないという噂はご存知ですかな」
「少しだけ聞きました」
「カイロの農業はナイル川に全てを頼っています。増水不足はそのまま不作へと繋がり、食糧品は高騰し、そういう時に限って病が流行ります。その影響を受けてこのダマスクスの地でも食料品高騰の兆しが現れていることはご存知ですか」
「噂は聞きました」
「噂ではありません。確実に、値上がりが始まっています。しかし不思議な事に、この値上がり幅はカイロとそう変わらないのです。ダマスクスは独自の水源を持っているにも拘わらずです。当然、来年もダマスクスは不作ではありません。これも噂ですが、市場に流れる穀物の量が減り始めているとかなんとか……」
最後の方はサービトの耳を持ってしてもほとんど聞き取れなかった。声を聞き取ろうと身を乗り出していたナーディヤは、我に返ったように慌てて座り直した。
「マムルークの仕業ですか?」
マムルークの主な収入はイクター(徴税権)だ。その土地の収穫物はイクターを与えられたマムルークの下に集められ、それらを市場に売り捌くことでマムルークたちは金銭を得る。つまり、不作以外の理由で穀物の供給量が減っているという事は、マムルークたちが市場に穀物を流さず貯め込んでいるという事にほかならない。
「黙れい!」
突然、シャイフが怒鳴った。白髪を逆立て眼をかっぴらき、ニカブ越しのナーディヤに顔を近づける。
「我らを侮辱する気か! 帰ればかもんが!」
迫力は年相応だが、あまりの豹変ぶりにナーディヤがたじろいだ。サービトも困惑しつつナーディヤの隣に移動する。
「失せろ、お前たちなんかに関わりたくもないわ!」
「……すみません」
呟くように洩らしてナーディヤは立ち上がった。野次馬の横を通り過ぎ、足早にシャイフの家を後にする。外にまで人だかりができていた。サービトはナーディヤとの距離を詰め、できるだけ離れないように後を追う。
クバイバート街区を出ると、ナーディヤの足取りが落ち着いた。
「……どうしたのかしら?」
「怒らせるような事をしたとは思えませんでしたが」
「そう……よね。むしろ好意的に接してもらえていたと思ったのだけれど」
シャイフの態度は急変したとしか思えなかった。まだ完全にこの地の文化風習を理解できていないサービトでも、おかしいと断言できるほどの変貌ぶりだ。
「先ほどはすみませんでした」
不意に、隣を歩く声変わり前の少年が正面を向いたまま話しかけてきた。
ナーディヤが足を止めかけると、急に少年ははしゃぐように父親と繋いだ手を大きく動かした。父親が笑いながら軽く窘めるのをよそに、少年は再び大人びた様子で話を続ける。
「止まらないでそのまま歩いてください。僕はシャイフの伝言を伝えに来ました。あの時はマムルークが聞き耳を立てていたのでああするしかなかったのです。お許しください」
他にも通行人はいるが、少年は声をひそめず話している。周囲の人間全てがシャイフの手の者なのだろうか。ナーディヤもニカブの下で少年とは心持ち反対方向を見やった。
「気にしないでください」
「ありがとうございます。シャイフからの伝言は一つ。協力したいのはやまやまですが、協力できない事情があります。それを解決していただければ、こちらとしては是非とも協力させていただきたいとのことです」
早い話が交換条件だ。
「それは何ですか?」
「先ほどマムルークが聞き耳を立てていると言った通り、今現在クバイバート街区にはマムルークの姿が散見されます。これは以前ならあり得なかった事です。シャイフはそれを異変の兆候だと捉えています。マジュヌーン騒ぎに始まり、ハラーフィーシュやズールの活発な動き、そしてナイル川の増水不足の噂に端を発する穀物の高騰。良からぬことが起きているのは間違いない。それに我々が巻き込まれようとしているのではないか、罠に嵌められようとしているのではないか、そうシャイフは危惧しているのです。このままの状態で協力してしまうとアミール・クトゥブにも害が及ぶ恐れがある。その為、我々はこの問題を解決するまで協力はできません」
考え過ぎともいえる行動は、彼らの立場を思えば当然だ。異国から流れ着いた異教徒ほど危ういものはない。ようやく落ち着けた安住の地を守る為なら、彼らはどこまでも考え、何でもするだろう。
「街区内の異変は我々で調査します。つきましてはこの街区にいるマムルークが普段どこで何をしているのか調べてはいただけませんか。そしてもし、マムルークが我々を嵌めようとしており、我々の力では解決できないとなった時は、お父上のアミール・クトゥブに我々を守ってくださるようお話を通していただきたいのです」
マムルークの調査。結局そこに戻るのか。それが難しいからこそナーディヤは協力者を求めてきたのに、協力者を得る為にマムルークを調査しなくてはならなくなった。
果たして、ナーディヤは言った。
「分かりました。お引き受けします」
どうするつもりだとサービトは聞かなかった。考えがあるからこそ、ナーディヤを交換条件を飲んだ。子供でもないのにいちいち確認する必要はない。
サービトはただ、ナーディヤに着いていくだけだ。
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