第6話 使者
ようやく穏やかで過ごしやすい夏が戻ってきた。
多くの人間が日が昇る前から家畜たちを連れて放牧に出て、テント群は嘘のように静まり返る。残っているのはテントで寝かされた赤子と念の為戦に備える俺たち若い男だけだ。
ヤクブの部族はいつの間にか消えていた。長を失った遊牧民はいとも簡単に瓦解するものだ。奴らがこれからどうするにしろ、俺たちと戦おうとしていたヤクブが消えた以上、この地に留まり続ける理由はないだろう。
騒ぎ続ける家畜はおらず、赤子の泣き声だけが響いている。平和な喧噪だ。やがてぽつぽつと人が帰ってきて、それ以上に戻ってきた大量の家畜の鳴き声が全てをかき消していく。
俺は狩猟したイヌワシを短刀で解体していた。肉も当然食らうが目的はその羽だ。他の鳥のものでも矢羽根に使えるが、やはりイヌワシが一番好みだ。丈夫なのも良い。
誰かが走り寄ってきた。子供の軽やかな足音だ。犬の鳴き声も聞こえた。
「ハリル! サイード? とかいう人が会いたいって」
この辺りの人間の名前ではなかった。俺は短刀を持ったまま立ち上がる。
「会おう」
遠くからヤギの声が聞こえた。その子供は放牧の途中で帰ってきたのだろう。案内されてテント群の外に行くと、子供の父親が使者たちの相手をしていた。
「何の用だ」
子供の父親に代わって使者たちに話しかける。尖った帽子の上からターバンを巻いているが、首から下の恰好は俺たちとそう変わらない。イルハンの連中か。
「族長のハリルですね? 我が主サイード様の言葉を伝えに来ました」
「誰だ」
「イルハンの将にして、戦死されたヤクブの義理の父。それが我が主サイード様です。一度、遠くからではありますがその軍勢とお会いになられている筈です」
つまり、サイードがヤクブの後見か。直接動いていたのはヤクブでも、裏で糸を引いていたのはイルハンの意を受けたサイードだ。そいつがわざわざ出張ってきた。
嫌な予感がひしひしとした。
「ヤクブの首を取り返しに来たのか」
「ヤクブには子がいました。我が主のお孫様でもあります。まだ赤子ではありますが既に才気煥発にして、ヤクブの後を継いでこの度首長に就任されました」
面白い冗談だった。力こそ全ての遊牧民の世界において、赤子が暫定だとしても首長になれるわけがない。
「まず初めに成すことは父ヤクブの敵討ち。しかしそう勢い勇んでもまだ幼いお孫様にその力はありません。そこで今回、お孫様の雄姿に涙を流された我が主が協力することになりました」
後ろからどよめきが聞こえた。振り返ると残っていた母親たちだけでなく、放牧から戻ってきた奴らも離れたところから様子を窺っている。
「とはいえ、戦いになれば多くの血が流れるもの。お孫様は慈悲深いお方です。敵であるハリルの首を差し出して降伏するなら、他の者は助命すると仰せになりました」
まどろっこしい。本格的にイルハンが介入してきた。それだけの話だ。
「お前たちの兵は千はいたか」
言いながらヤクブの兵がサイードの軍勢に逃げ込んだ時の事を思い出す。確かに大群だった。正確な数は覚えていないが、俺たちが動員できる兵数を遥かに超えているのは間違いない。
「降伏をお勧めします、とだけ言っておきましょう」
言って、使者は笑った。俺も返事をするように笑みを浮かべ、そいつの頭に短刀を振り下ろした。頭蓋を貫く感触──すぐさま短刀を動かして脳みそをぐちゃぐちゃにする。短刀を抜きながら死体を蹴り倒し、呆気にとられて驚くのも忘れている残りの使者たちに血塗れの短刀を向けた。
「これが答えだ」
弾かれたように使者たちが逃げ出した。俺は死体の服で短刀を拭い、踵を返して仲間たちに宣言する。
「もう一度戦を始めるぞ」
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