第47話 アミール・ターリク

 ターリクの屋敷に着くと、ナーディヤとサービトは客室に通された。屋敷の規模こそアル=アッタール邸より一回り小さいが、調度品の類は比べ物にならないほど豪奢だった。


「待たせたね」

 ターリクが客室に入ってきて二人の向かいに腰を下ろす。いの一番にナーディヤが口を開いた。

「助けていただき感謝いたします」


「友のご息女だ、助けるのは当然でしょう。それに騒ぎを鎮圧する為に出向いたところ偶然出くわしただけ、気にすることはない。それともう一人の護衛は探させている。迎えもすぐに来るでしょう。それまではゆっくりしていくと良い」


 ターリクはクトゥブと同年代だろう。ウラマーであるクトゥブと違い、マムルークらしく恰幅の良い中年だ。ところどころに傷もあり、戦場を潜り抜けてきた経験が言葉の端々に尊大にも似た堂々とした雰囲気を醸している。


「ありがとうございます」

「そう何度も言うものではない。それより最近、アミール・クトゥブは忙しいようで会えていないが元気かな? 彼は一人で抱える嫌いがあって心配だ」

「元気……だと思います。私も会えていないのではっきりとは言えませんけれど」


 クトゥブは基本的に自宅で仕事をしているが、ここ数日は特に休みなく働いていた。距離を取っていたナーディヤだけでなく、サービトすら最近はクトゥブと話していない。

「そうか。前々から片腕であるイフラースを扱き使っていたのは知っていたが、アミール自身も娘に会えないほど多忙にしているのか。私の方から言っても意味がないだろうからご息女から伝えていただけるかな。ターリクが力になりたがっていると。同輩の身で言うのも変な話だが、あの人ほど素晴らしい人はいない。過労で倒れられては大変だ」


 ニカブの下で、ナーディヤの表情が曇った。

「……お父様は素晴らしい人なのですか?」

 どこか怯えたような声音に、ターリクが微笑を洩らした。

「親子喧嘩の最中かな。あの人も完璧ではないという事か。僭越ながら私が仲介を申し出よう。何がありました?」


「……いえ、奇妙なことを口走りました」

「気を使うことはない。アミール・クトゥブが最近忙しい事と関係しているのだろう。私が思うに悪いのはアミールの方だ。何があったのか教えてもらえれば私の方からそれとなく注意しておきましょう」

「……お気遣いくださり感謝いたします。ですが忘れてください。お父様の日頃の様子が気になっただけなのです」

「そうか、出過ぎた真似をしたようですな。こちらこそ申し訳ない」


「アミール、お客様が参られました」

 様子を伺っていたのか話が途切れた途端、扉の向こうから声が掛かった。ターリクは立ち上がり、窓に目線を向ける。

「念のため外にも兵を立たせているので迎えが来るまで安全は保障しましょう。不躾ではあるがここで失礼」


 ターリクが退室し、二人分の足音が離れていく。サービトは無意識に周囲の音を警戒しつつ、隣に座るナーディヤに話しかけた。

「下手に外堀を埋めるより、直接聞いた方が良いと思います」

「分かっているわ……気の迷いが出ただけよ。世間から見たお父様がどのような人であろうとも、私にとってのお父様は誰よりも信頼できる人で、唯一の肉親よ。だからこそ、仮にお父様が悪事に手を染めているなら娘である私が止めなくてはならない。他人に頼ることではないわね」


 クトゥブの正体がなんであるか、サービトもまだ正確には掴めていない。確実に言えるのは、サービトの父カラジャほどのある種傑出した腐った人間ではないということだ。

「まずは冷静に話を聞くことです。ですが冷徹にはならないでください」


 決して感情を抑えきってはいけない。それをしてしまえばクトゥブが悪人だと判明したとき、ナーディヤは自らの手で父親を破滅に追いやるしかなくなってしまう。親殺しという負わなくていい重責を抱えてしまう。

「大丈夫よ、サービト。私は──」


 ──窓を叩く音がした。ナーディヤが振り返ると、見知らぬ男が窓の向こうに立っていた。サービトはナーディヤの言葉で状況を把握して窓を開ける。

「調査の報告に参りました」

 クバイバート街区の異教徒だ。直ぐに気付いたサービトは男を部屋に連れ込み、部屋の入り口を塞ぐように寄りかかった。


「ハイサムという名を覚えていますか?」

「サービトが誘拐される前に聞いたハシシの売買に関わっている人ですね」

「あれから調べたところ、ハイサムがマムルークだと判明しました。ハイサム自身は既にマジュヌーンに殺されていましたが、さらに調査していくとハシシの売買を統括していると思われる人物に突き当たりました」

「誰ですか?」


「アミール・ターリクです」

 声にならない声が、ナーディヤの口から洩れた。

「嘘……いえ……あなたたちが言うのだから本当なのでしょうね」

「ここにいるのは危険です。直ぐにお逃げを」


「いえ」

 ナーディヤは男の肩を押す。

「危険なのはあなたの方です。アミール・ターリクはこの事を知らないのだから私たちは大丈夫です」

「分かりました」

 そう言って男は窓枠を軽やかに飛び越えた。


 外に着地した瞬間、その躰に矢が突き刺さった。二の矢、三の矢、瞬く間に男の躰が針山になる。音を聞いたサービトがナーディヤに駆け寄ると、窓の向こうからまた別の声が起こった。

「侵入者は殺しました。ご無事ですか」


 顔を逸らしていたナーディヤは、窓の向こうにいる兵士を睨みつけるように見据えた。

「何の為の警備なのですか?」

「これはすいません。入るのは簡単にして出るのは困難にしろ、そういう言いつけなんで」

 部屋の扉が開く音がした。


「そういうことです。彼らを責めるのは勘弁していただけませんか」

 ターリクが戻ってきた。その背後には、獲物を手にした兵士が何人も控えている。窓の向こうでも複数の足音が集まってきた。

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