第49話 軟禁

 弱弱しい白髭を生やした老人がダマスクス総督だった。


 総督は皺だらけの顔に笑みを浮かべて基壇から立ち上がり、大げさに両手を広げてナーディヤとサービトを客室に向かい入れた。

「ようこそ我が屋敷へ。君たちには一切の危害を加えないことを約束しよう。ただし、その時までこの屋敷にいてもらう」


 総督の隣には二人のマムルークが控え、ナーディヤたちの背後にも複数のマムルークが眼を光らせている。強硬な手段で刃向うのは現実的ではない。ナーディヤはニカブの下で総督を睨めつけながら平静に声を発した。

「ダマスクス総督ともあろう方が、随分と街から離れたところにいるのですね」


「お父上にはしてやられた」

 総督は苦笑する。

「暴徒たちは代理のムフタスィブと私が雇っていた仲買人に対して散々に投石して殺した後、あろうことか私の家にまで押しかけてきた。あまりの勢いに私は街にはいられなくなり、遥々この別宅に逃げてきたというわけだ」


 ターリクの屋敷から出て丸一日が経っていた。ダマスクスの街で起こっていた暴動がどうなったのかナーディヤたちは知る由もなく、総督の別宅の周囲も長閑な雰囲気に満ちていた。

「だが、快進撃もここまでだ。アミール・クトゥブはイルハン国と通じ、ダマスクスの街を大いに乱して隙を作り、それを手土産にして寝返ろうとした。この件はスルタンに報告してある」

「それを信じるとでも?」


「信じるとも。何故なら、アミール・クトゥブが自らの口で認めるのだから」

 さらに言い返そうとして、無駄を悟ったのかナーディヤは口をつぐんだ。総督は満足そうに頷き、ナーディヤの脇を通り過ぎていく。

「部屋は二人きりだ。望みがあれば人を呼ぶと良い」


 マムルークたちを連れて総督が退室する。ナーディヤはすぐに部屋の様子を見て回り、深い吐息を洩らして基壇に上がって座った。

「……駄目ね。この部屋は二つの中庭に挟まれているみたい。直接外にはつながってないわ。それに屋敷の至る所にマムルークがいる」


 逃げるのは難しいか。サービトは靴を履いたまま基壇に腰掛ける。

「少なくとも異教徒たちは俺たちの状況を知っています。そこから総督の脅迫より早く俺たちの事が伝わっていれば、旦那様が何かしらの手を打てているかもしれません」


「そうだと良いけれど。それにウトバも心配だわ」

「きっと無事でしょう。彼も実力者ですから」

 サービトはそうは答えたが根拠はない。総督にとってウトバは無価値だ。上手く逃げ延びたか殺されたか、どちらに転んでも不思議はない。


「……どうにかして脱出しないと」

 呟き、ナーディヤは部屋の扉に手を掛けた。慎重に開けようとして、外から穏やかな男の声が掛かる。

「何かご用ですか」

 ナーディヤは誤魔化すように水を頼み、扉を閉めて戻ってきた。

「見張りは一人だけ。それも使用人よ。もしかしたら脱出できるかも」


 サービト一人ならまだしも、大勢のマムルークが闊歩する屋敷からナーディヤを連れて脱出するのは不可能だ。それに今は甘い総督の対応も、一度脱出に失敗すれば急変する恐れもある。

「止めた方が良いでしょう。人質は生きてさえいれば機能しますから、大人しく助けを待つ方が賢明です」

「……そうね」


 それきりナーディヤは大人しくなった。ややあって水を持ってきた使用人の女が部屋に入ってくる。ナーディヤの前に金属盆を置きながら、その耳元で囁いた。

「報告に参りました」


 目を丸くしたのも束の間、ナーディヤは小声で話しかける。

「脱出の手引きはできますか?」

「手が足りません。私一人の潜入で精一杯でした。ですが外の様子はお伝えできます。まずウトバ殿はご無事です」


「良かった……」

 ナーディヤは胸を撫で下ろす。その間にサービトは立ち位置を変え、扉から二人が見えないようにした。

「それからアミール・クトゥブがイフラース殿を初めとした僅かな手勢を率いて北に向かわれました。それと噂ではありますが、イルハン国が兵を起こしたそうです」


 手勢ということは交渉に向かったのだろう。クトゥブはほとんど単身でイルハン国の軍に立ち向かい、鉾を下ろさせるつもりらしい。

「ですがこの一件を知り動くに動けなくなったようです。ズールのカターダ殿が動いているようですが、私が見た限りこの屋敷の守りを突破するのは難しいと思われます。また動きがあれば報告します。定期的に私を呼んでください」

 女は何事もなかったように退室した。


 全てはナーディヤ次第だ。ナーディヤが脱出できるか否かで、クトゥブと総督、どちらかは死に、どちらかは生き残る。

 だがそれより、サービトにはどうしても気になることがあった。針で刺されているような違和感が、頭の片隅を刺激し続けている。

「お嬢様、イフラースとは誰ですか?」


 思えばアル=アッタール邸についてすぐ、その名前を聞いた覚えがある。しかしそれ以来、ほとんど一度も耳にしていなかった。

「あら、サービトは会った事がないのかしら。お父様が最も信頼している部下よ。そういえばサービトが家に来てから顔を見せていないわね」

「……どんな人ですか」


「そうね。私も直接話した事はないけれど、サービトより背は頭一つ分低いぐらいかしら。とても優秀な人らしくて一年と少しでお父様の片腕になったそうよ。そういえば顔の作りは勿論違うけれど、どことなくサービトに雰囲気が似ているわね」


 サービトの頭の奥が、一瞬で熱くなった。

「アスワド!」




 俺はターバンを投げ捨てた。ニカブ姿のナーディヤから視線を切って客室を出る。

 噴水の周りで屯するマムルークたちが俺を見た。何か言っているが無視して歩み寄り、油断しきったその顔に拳を叩きこんだ。

 剣を奪う。抜き様に一人を殺し、返す刀で一人を殺す。ようやく助けを求める声が上がった。屋敷内が途端に慌ただしくなる。


 出口を探しながら増援を返り討ちにする。突き殺し、射殺し、撲殺し、実戦で感覚を研ぎ澄ませる。ボズクルトはこの程度ではない。周りに兵もいるだろう。せめて感覚だけでも全盛期に戻さなくては、確実にボズクルトは殺せない。


 増援が遅い。俺は近場の部屋を探し回る。打って出てこないマムルークたちがいた。ターリクとその部下だ。女を何人も侍らせている。俺を見ても警戒するばかりで特別な反応はなかった。

「リヤードから何も聞いていないのか」

「……目が見えていたのか」

 ターリクのその言葉は、俺の正体を知っていれば出る筈がないものだった。


 つまり、俺の正体が暴露される手筈になっているという話ははったりだ。リヤードの性格からして誰も信用していないだろう。状況からして読み書きもできない。

 今更どうでもいい話か。俺はターリクたちを残らず殺して部屋を出る。見計らって攻めてきた連中を返り討ちにし、矢を射ってきた連中は射返して息の根を止めた。


 短い戦いだった。

 噴水が血に染まり、赤い水が溢れ出したように床一面が濡れていた。気配はするが増援が止んだ。それならそれで良い。俺は堂々と表口から外に出た。


 野次馬が遠巻きに屋敷を見ている。近くに何頭もの馬が繋がれていた。どれも良く手入れされた駿馬だ。マムルークの馬だろう。

 ウトバが野次馬の中にいた。村人に扮して屋敷の様子を窺っている。よく見れば村人の割には体格の良い男が何人か混じっていた。


 俺は馬に乗った。ボズクルトがいるのは街の北だったか。具体的な居場所は知らないが時機に追いつけるだろう。

「サービト!」

 ナーディヤの声がした。使用人に化けた異教徒の女に連れられ屋敷を脱出している。それを認めたウトバが一目散にナーディヤへと駆け寄っていく。


 俺は馬や馬具、奪った武器の状態を確認する。「お嬢様を助け出せ!」ウトバが叫ぶと野次馬が大きく乱れた。最低限の武装をした男たちが飛び出す。屋敷からもマムルークが慌てたように沸き出てきた。

「サービト!」


 俺は馬の腹を蹴った。まずはダマスクスに戻り、それから北上してボズクルトを追う。そして、奴を殺せば全てが終わる。

 アスワドが人目を気にせず高らかに笑っていた。

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