第2話 始まりの戦
子供と羊を元のテント群に返して自分たちの夏営地に帰りついた時には昼も過ぎていた。朝から行われていたヤギの剪毛もほとんどが終わろうとし、その間に絞められた数頭のヤギを使った昼食の準備も整おうとしている。
「おう帰ってきたな。手伝え、お前たちも腹減ってるだろ? 早く終わらせるぞ」
俺たちは一人に馬を任せて剪毛作業に加わった。俺がヤギを仰向けに寝かせて顎髭を掴んで大人しくさせ、もう一人がハサミを使って毛を刈っていく。
「揉め事はどうだったの?」
相方のおばさんがハサミを止めることなく尋ねてきた。返答に少し迷ったが、俺の警戒心まで伝える必要はないだろう。
「大丈夫だ。解決した。東の連中がこっちに流れてきて、それで行き違いがあっただけだ」
「あらそう。何か珍しいものは持ってた?」
「敷物の模様が珍しかったかな」
「だったら今度挨拶ついでに見てこようかね」
そうこう喋っている間にヤギたちの剪毛が終わった。この後ヤギの毛は間を置かず梳いて、テントを始めとした様々なものに利用される。
ヤギの肉が焼ける良い匂いがしてきた。本能を刺激されて腹が鳴る。それに誘発されて五感が鋭くなったのか、遠くから鳴る馬蹄音に気付いた。
「戦支度だ! 奴らが攻めてきたぞ!」
そう言って駆けてきた仲間は一人だけだったが、起伏の向こう側から多くの馬蹄音が鳴り続け、ゆっくりとこちらに近づいていた。
「あいつらが攻めてきやがった!」
あいつら──確認するまでもない。俺の悪い予感は当たっていた。
「……ヤクブか」
あの卑怯者のにやけ面が目に浮かぶ。戦士らしからぬ細身の躰でどうやって遊牧民の長になったのかと思えば、誇りなき手を使っただけか。対等な相手として接したのが間違いだった。
「できるだけ兵を集めてきた」
駆けてきた一人が馬から降り、俺に手綱を押し付けた。
「数は少ないがハリル、お前ならなんとかできるだろ?」
「当然だ」
俺は馬に乗り、一番信頼できる奴の姿を探した。
「ボズクルト、他の部族との連絡は任せたぞ」
ボズクルトが無言で頷く。俺は馬を走らせて後続の兵と合流した。
五十騎ほどか。急拵えにしては集まった方だろう。ヤクブの兵がどれほどいるかは知らないが、誇りなき男が率いる軍勢だ。俺たちの相手ではない。
「救援に向かう。行くぞ!」
駆けに駆けた。
とは言え、救援が間に合う筈はなかった。道すがら話を聞くに、攻められたのはあの子供と羊がいるテント群だ。あそこは規模が小さくテントの数は十程度しかない。あっという間に蹴散らされ、生き残りも何人いるか。まともな抵抗すらできていないだろう。
疑問が渦巻く。
何故、ヤクブは攻めてきた。俺たちの勢力はこの一帯では圧倒的だ。ヤクブがどれだけ兵を抱えていようが俺たちに太刀打ちできるとは思えない。明らかな自殺行為だ。それともこの劣勢を覆せるほどの勝算があるのか。
答えが出ないまま、目的のテント群がある一帯が近づいてきた。
そこで暮らす人々は、良い人たちだった。仲間内でも一際温和で、争いが起こった時にはしょっちゅう仲裁を頼まれていた。自分たちが争いに巻き込まれた時も、自らが不利になる決着を進んで受け入れていた。中には臆病と罵る者もいたが、俺は彼らの中に気高さを見た。真に平和を愛し、誇りを持ってそれを維持しようとしてきた人たちだった。
そんな彼らを、踏みにじった汚い奴らがいる。
風に血の臭いが乗っていた。遠くからでも地に染みた夥しい量の赤色が見える。テントは馬に踏み倒され、家財道具が散乱し、男も女も子供すらも斬り殺されていた。そして、彼らを蹂躙した奴らが、その上を闊歩している。
再びの惨劇だった。これ以上起こさせまいと反乱を起こして父カラジャを殺したのに、また血が流れてしまった。
彼らは、いや俺たちは殺されるようなことをしたのだろうか。
無論、品行方正に誇り高く生きてきた。村々を襲って略奪していたカラジャの時代とは違い、友好的な隣人で在り続けてきた。それならば、襲ってきたヤクブが間違っているのだ。約束を違えて俺たちを油断させた隙に奇襲をかけてきたヤクブは腐っている。あまりにも醜い。
躰が、かっと熱くなった。
「矢を番えろ!」
騎兵の数は俺たちと同じか。残された家畜を呑気に集めて連れ帰ろうとしている。
「放て!」
矢が宙を飛ぶ。音もなく奴らの頭上に降り注ぐ。数人が馬から落ちた。それで、ようやく奴らが俺たちの存在に気付いた。
「突撃!」
俺たちは馬を走らせた。号令はもういらない。各々が弓を構える。馬の四肢が宙に浮く。瞬間、引き絞った矢を空に射る。俺は弓を背に戻し、腰に下げた曲刀を勢い良く払った。
「一人残らず逃がすな!」
腹の底から叫んだ。敵が、脱兎の如く潰走する。俺たちは無残に殺された人々を飛び越えて、矢を射かけながら奴らを追いかける。
脚を射られた馬が、それでも主人を載せて逃げようとする。それを、後ろから切り伏せた。起伏の激しい高山地帯では全速力で走れない。逃げている限りは格好の的だ。絶対に全員を殺し、ヤクブに思い知らせ後悔させる。俺たちに戦いを仕掛けたことを、この地に再び戦乱を起こしたことを、死んだ後にまで悔い改めてもらう。
俺たちはどこまでも追った。一人、また一人と奴らが倒れていく。残った少数が丘を越え、僅かな時間、俺たちの視界から逃れた。俺たちも我先に丘を越え、下り坂の勢いそのままに止めを刺そうとする。
軍勢がいた。
「止まれ!」
慌てて手綱を引いた。一面見渡す限りに兵がいる。右も左も奥を見ても、人の群れに終わりがない。どこまでも鎧兜の鈍い光が続いている。数は五百か、いや千は超えているか。多すぎて分からない。身じろぎの小さな音が無数に重なり合い、やかましいまでの喧騒が轟いていた。
ヤクブの手下が、その軍勢に逃げ込んでいく。掲げられている旗には見覚えがあった。
「イルハンか」
ヤクブが強気に出たのはそういうことか。奴らの背後には、ここから東一帯を治める大国──イルハン国がいる。だから俺たちに戦を吹っかけてきた。
「……これで勝ったつもりか」
単身で挑んでくるならまだしも、よそ者に助力を頼んだか。これではっきりした。ヤクブに誇りの欠片もない。心底から腐り切った醜い男──カラジャの再来だ。
火照った躰は相変わらず熱を放っている。むしろ奥底から更なる猛りが沸いてくる。ヤクブを殺せ。奴の一族を皆殺しにしろ。本能がざわつき、手綱を持つ手が震えだす。
だが、解き放つのは今ではない。
「退くぞ。各地の長を集めて話し合う必要がある」
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