盲目マジュヌーン

@heyheyhey

第1話 アナトリアの辺境から

 本来、夏は一年で最も過ごしやすい季節だった。


 灼熱の気候も高山地帯ともなれば格段に和らいで、穏やかで涼しい風が露出した肌を撫でていく。家畜の中でもラクダや馬は自由に放している分世話の負担がなくなり、人里とも離れているから定住民とのいざこざも起こりようがない。そこにあるのはただ、どこまでも広がる平穏な放牧地だけだった。


 だが、俺の眼前には黒い地平が続いていた。


 黒ヤギの毛で作られたテントだ。それが、緑だった筈の大地を黒く埋め尽くしている。何十年、あるいは何百年前から、そこにいるのは俺たちが放牧した家畜の群れだけだった。それなのに、今は見たことのない連中がテントを張って構えている。


「あいつらか」

 俺が馬を止めて聞くと、鞍の前に乗せた子供が元気良く「うん」と答えた。

「朝の放牧で一頭羊が離れたんだ。それを探しにいったらあいつらがいて、それで」

 子供ではどうにもならずに奪われた、というわけか。俺は今にも泣きだしそうな子供の頭を撫でて慰め、連れてきた仲間たちを振り返る。

「手は出すなよ」

「分かってる」だの「足ならいいよな」だの「馬に蹴らせようぜ」だの仲間たちは好き勝手に喋り出し、腰に下げた剣や弓をしきりに触って不敵に笑う。

 血気盛んなのは良いが、荒事を起こすつもりはない。連れてきたのを後悔していると、向こうから数人の男が徒歩で近づいてきた。俺は馬の腹を小突いて仲間たちより前に出て、そいつらの頭の上から挨拶する。


「カラジャの息子ハリルだ。羊一頭を巡って起きた揉め事について話をつけにきた」


 そいつらは全員武装していた。剣やら槍やら手にした武器はそれぞれながらも、一様に目付き鋭く俺たちを見回している。それから仲間内で短く話し合い、俺を見上げて一人の男が口を開いた。

「カラジャの息子ハリル。我らもこの件について解決したいと思っている。そこで族長のヤクブがお前だけをお呼びだ。他の者はここで待機して待て」


「ふざけるなよ!」


 仲間の一人が怒鳴った。他の奴らが続く前に、俺は仲間を手振りで制して馬から降り、文句を言いたそうに涙目になっている子供に手綱を渡した。

「問題ない。連れて行ってくれ」

「武器も置いていけ」

「おい!」

 またもや仲間が騒いだ。俺は無言で仲間たちを見つめて静かにさせ、剣や弓、矢筒を仲間たちに預ける。さらに用心深いそいつらに向き直って上着を脱いだ。下着にも手をかけて上半身裸になると、そいつらが怪訝そうに口を挟んできた。


「何をしてる?」

「怖いから武器を奪うんだろう。裸の俺でもまだ怖いのか」

 仲間たちが後ろで笑った。つられたように馬も嘶いた。そいつらの眉間が吊り上がり、俺を射殺さんばかりに睨みつけてくる。

「服を着ろ! いいからこい!」


 そいつらに連れられてテント群に足を踏み入れた。女子供の姿はない。若い男たちが俺をじろじろ観察してくる。馬以外の家畜は一頭もおらず、騒がしい筈のテント群は静まり返っていた。

「一人で入れ」

 中心部にあるそのテントは、他のものより一回りは大きかった。開け放たれた入り口から中に進むと、膝の上に女を寝かせた男が座っていた。


「お前がカラジャの息子ハリルか。噂通りデカいな。俺はヤクブだ。まあ座りな」


 歳は俺より十歳ほど上、三十歳ぐらいだろう。長身ではあるが、戦士というには心もとない細さの男だ。武器の類は持っていないが、代わりに女が派手な装飾の剣を大切そうに抱いている。


 俺は見たことがない植物文様が描かれた敷物に腰を下ろした。

「身内が飼っていた羊が一頭、お前たちに奪われた。返してもらおうか」

「嫌だと言ったら?」

 ヤクブは喉の奥で笑い、挑発的な目で俺を見てくる。くだらない誘いだった。


「それなら皆殺しだ」

 無言で、ヤクブは女の頭を撫でた。その唇の端は歪み、俺の指先を舐めるように見つめている。女の方は俺とは目を合わせず、しかしヤクブを見るわけでもなく置物のように振る舞っていた。


「お前たちが血を流したいというのであれば、俺たちは一向に構わない。なんなら今ここで、すぐにでも殺し合おうか」


 ふっ、とヤクブが息を吐いた。

「まあ、そう急くなよ若人」

 ヤクブは笑みを浮かべ、膝の上に頭を乗せた女の髪を一摘まみして弄りだす。

「ちょっとした冗談だろう。なあ?」

「俺は冗談のつもりはない」

「こえーなあ、父親と一緒だ」

 ヤクブは小さく笑い、視線を逸らす。

「お前の親父カラジャはバケモンだった。色んな意味でな」


 ヤクブは女に視線を落とし、安心させるように頭を撫でてから俺に目を戻した。


「昔戦ったことがある。あの時の俺は何もできなかった。多くの戦士が一方的に殺され、何もかもが奪われた。だから驚いたよ。僅か数年で一帯を纏め上げ、次はイルハンにでも喧嘩を売るのかと思いきや、突然殺されたんだからな。噂じゃお前が同世代の若いのを率いて反乱を起こしたらしいけど、本当なのか?」


「その通りだ。俺が父カラジャを殺した」

「騙し討ちか? それとも真っ向から?」

「戦って殺した」


 ヤクブは声を上げて笑い、自分の膝を何度も叩く。


「やるねえ。怪物の子は怪物ってわけだ。もうガキはいるのか?」

 その質問は何度となくされ、同じ言葉を返してきた。

「暴君の血を繋ぐつもりはない」


「はあ!?」

 ヤクブがわざとらしいぐらいに眉をひそめた。

「カラジャのガキなんて何百人といるだろうが。お前だけが意地張ってどうするんだよ。まさか兄弟全員殺したわけでもないんだろ?」

「俺がそうしたいと思っただけだ。弟たちに強要するつもりはない」


 ヤクブは首を傾げ、それから女の髪を梳くように指を通す。


「見ろよ、こいつは都会の女だ。いい女だろ? あの怪物を止めたお前さんならこれ以上の女だって選り取り見取りだろうってのに。勿体ねえ」

「ちょっと」

 女が冗談めかして口を挟んだ。瞬間、ヤクブが女の髪を掴んだ。


「口挟むんじゃねえ!」


 謝ろうとする女の腹に拳を入れる。

「客の前だ。絶対に吐くなよ」

 咳込んで暴れようとする女をテントの入り口まで引きずっていく。また、ヤクブが女を蹴った。何度も蹴ってテントから追い出すと、ヤクブは何事もなく戻ってきた。


「話を戻そう。羊の件だったな」

 言いながら、ヤクブは女が置いていった剣を自分の脇に引き寄せる。

 生来の気性の荒さか、計画的な行動か。なんにせよ父カラジャで見慣れた光景だ。女を殺さないだけまだヤクブの方が大人しい。カラジャならあのままテントを飛び出して近場の人間を片っ端から切り殺していた。


「あの羊は俺たちが飼っている羊だ。所有印を確認すれば分かる。返してもらおうか」

「好きにしな」


 あっさりとした言い草だった。謝罪の気持ちはさらさらなさそうだが、諍いを起こそうという邪な感情も不自然なまでに伝わってこない。


「ただ勘違いするなよ。あれは俺たちの羊だ。ただこの地に来たばかりでお前たちと揉め事は起こしたくない。何せこれから、仲良くやっていく仲なんだからよ。挨拶料と思ってくれ」

 言って、ヤクブはにやりと笑った。


 ようやく本題に入った気がした。正直、俺も羊一頭はどうでも良かった。それより見たこともない連中がこの地に前触れもなく現れた、そのことの方がよっぽど問題だった。


「お前たちは何者だ」


「捉えようによっては難しい質問だな。まあ、俺たちはもっと東で暮らしていた。夏営地が町の近くにあってな、いつもは名目程度の放牧料を払ってたんだが、何故か今年に入ってその放牧料がとんでもないぐらい値上がりして、しょうがないからこっちに流れてきた」


「この夏はここで過ごすつもりか」

 ヤクブは舌先でちろっと唇を舐めた。

「よろしくな」


 歓迎できる相手でないのは明らかだ。仲間に聞いても嫌がる者は多いだろう。しかし、土地は誰のものでもない。


「好きにしろ。俺の許可を取る必要もない。ただし、揉め事は別だ。今日のようなことが起きれば話は変わってくる。分かるな」

「はいはい。まあ、仲良しこよしでやっていこうや」


 思うところはあったが、俺は黙ってテントを後にした。約束通り用意されていた羊を連れ、テント群の外で待っていた仲間たちと合流する。


「話はついた。帰るぞ」

「おっ、流石。こっちはこっちで帰りに寄りたいところがあるって話になったんですけど、いいですか?」

「どこに寄るつもりだ」

「なんでも近くで天変地異が起こったとか、巨大な何かが降ってきただか、とにかく凄い場所があるみたいで」


「違うよジンだよ!」

 子供が高い声で怒鳴った。

「とんでもない力を持ったジンたちが戦ったんだよ。俺見たもん!」

「本当かあ?」

 見る間に子供の顔が赤くなった。仲間たちが楽しそうにからかおうとし、それを分かっている子供はさらに気色ばんで抵抗する。俺は子供の手から手綱を取って馬の背に跨った。


「俺は信じるよ。帰りに寄っていこう」

 ヤクブの事はこれ以上考えても仕方ない。俺たちは子供の案内に従って、羊の歩みに合わせてのんびりとその場所に向かった。




「ほら! 俺が言った通りでしょ!」


 子供が勝ち誇ったように叫び、俺の前から飛び降りる。

 その前に広がるかつて草原だった一帯は、悉くが焼き尽くされていた。緑の大地は荒涼とし、黒みがかった茶色い大地が露わになっている。そして、その中央は大きく抉れていた。随分と暴力的だが、湖が干上がった跡のような光景にも見えた。


「なんだこれ!?」「近づいて大丈夫か?」「行ってみようぜ!」


 仲間や子供がはしゃぎながら大穴に近づいていく。露出した岩々にはどれも焼け焦げたような跡があり、一度溶けて固まったような痕跡も残っていた。とうに時間が経っているであろう一帯には、その場に刻み込まれたように焦げ臭さが漂っている。


「ハリル、連中をどう見る?」

 仲間の中でも最も信頼している男──ボズクルトが話しかけてきた。普段は寡黙でもこういった時には必ず話しかけてくる。小さな頃から共にいるだけあって、俺の心を誰よりも理解している奴だ。


「良くないな。夏の間は気を付けた方がいいだろう」

 夏は家畜の世話も減り、一番ゆっくりできる季節だ。それが訳も分からない連中──ヤクブたちが唐突に現れ、近くでは不吉の象徴のように天変地異が起こった。

 父カラジャを思い出す。


 目の付くもの全てを蹂躙していた暴君は、俺たちが起こした反乱によって死んだ。多くの血が流れた出来事だった。馬よりも大きな躰をしていたカラジャと、背は高くとも細身のヤクブは似ても似つかない。

 しかしどうして、ヤクブの事を考えるとカラジャを思い出さずにはいられない。


「……また、血が流れるかもしれないな」

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